壊れるぐらい愛して

ふしきの

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第三章

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 啓吾は美紗緒を抱いたことはなかった。
 枕をならべて寝ても、そこには美紗緒ではなく昇が眠っている。
  
 毎年時期が来ると「花之木邸」に昇を連れて行ってやった。
 東谷啓吾はそこでは名士にでもなったようにもてはやされた。「花之木邸」を少しずつ増築して元あった部分を補うかのような大庭園に戻した。
 昔、登が言っていた豪商の住み家まで再現することは啓吾のポケットマネーではできなかったが、年中咲き誇る大庭園が自慢の場所だった。
 町会議員が「町の文化財にしたいと思いまして」とまで言ってくれたのもあったし、旧より故意にしていた弁護士とも話がうまくいったのもあったので、町では色々贔屓にしてもらっていた。
 だが、美紗緒は一度だけ町に来ただけで庭園には入ろうともしなかった。さっさと「研究が残っているから」と言って帰っていった。
 咲き誇る花を一輪も見ることは無かった。

 
 昇が一人で遊んでいる。
 昇は石を集めることに夢中だった。
 白い石英、赤いの黄色いのたまに見つける緑色。
 どんどん溢れ、どんどん大きな尖った石ころが見つかれば大きな石コレクションで照合してもらう本格的なキットまで買って貰うほどの入れ込みようだった。お気に入りは玉髄って名前の尖ったものだった。けれどもそれが今更新されたみたいだ。火打石よりも断然価値がある!子供にもそれがわかる。鼻息も荒く丁寧にぬぐって大好きな人の元に走っていった。

「それは?」
「黒曜石!」
「どこで見つけたの」
「そこ!」
「綺麗だねぇ」
「お兄ちゃんにあげる。僕のはまた見つければいいから」
 そういうと首を横に振った。
「駄目だよ。せっかく一生懸命見つけた大切なものはもらえないよ」
「大切なものだからあげたいのに」
 昇は口を尖らせると、その人は少し悲しそうだった。
 

 その人に出会う場所は毎回違っていた。
 大きな木の下にいたり、屋根の上で腰かけていたり、大岩の横で昼寝をしている姿の時もあった。
 宝探しのように、広い園内を歩き回っては
「見つけた!」
 と言って笑った。
「こんにちは、昇」
 自分の名前を覚えてもらったときにはとても嬉しかった。


「いつもお父さんの顔見てる」
「うん。そうだね」
 遠い場所で父が昼寝をしている。
 その場を動くことはなかった。
「僕より泣き虫さんだね」
 手を触れてはいけないと、子供心に思った。


「やぁ、今年は会えないかと思った」
「受験生だって夏休みを取っちゃあいけないってことないよね、つかの間の休息って奴だよ」
 少し拗ねた顔で見つめられて、登はあわてて肯定する。
「……そうかぁ、そうだよね。こっちでは時間がよくわからなくて」
 相変わらずよくわからない言葉に昇は吹き出した。
「時計しているのに?」
 そう言って腕時計を指した。
「ああ、これ?」
「文字盤が壊れいる」
「……でも動いているんだよ。耳を澄ますと音がちゃんと聴こえる」
 とてもいとおしい顔でそう言うと笑っていた。
 昇の胸が何だかとても痛かった。

 仕事にいつも厳しい啓吾は昇と、この屋敷でのんびりと過ごすのが唯一の休暇期間だった。
 掃除も行き届き、料理も三度三度町内の老舗から運ばれて来てくれた。 
「こういうのをお大尽様って言うんだよ」と啓吾は昇に言うと、
「別荘というには本当に貧相でダチに自慢もできないよ」
 とこまっしゃくれた口の聞き方をする年頃になったが、日中は管理人の庭師に花の名前や水路の生き物などを聞き観察するのが面白くてたまらなかったみたいで、外に飛び出しては食事時にしか帰ってきてはくれなかった。
「団子虫すら知らなかったくせに」
 のんびりとそれを眺めて、啓吾は笑った。


 年月は流れた。
「お前、昔、家鳴りがするって言って大泣きしていたくせに、一人前に運転までしてくれるような年になったんだなぁ」
 と、しみじみと感心した。年を取って涙腺が弱くなった自分が少し悲しくなった。
「親父はいつもここに来るとセンチメンタルな気分になるよなぁ」
 そう言われて、年甲斐もなく「五月蠅いわ、昇」と威厳をはって涙を拭いた。


 昇はよく夜中に目が覚めた。
 星が明るいせいもあって、月見酒にちょうど良かった。
 晩酌を一杯二杯と行くうちに父の寝言が聞こえてくる。「のぼる…駄目だよ。ちゃんとご飯食べないと」それが最初は、自分だと思っていた。
 友達にも、ショウと言いにくいのかよく間違ってのぼると呼ばれていたから。
 だが「のぼる…愛しているよ…俺の、のぼる。待ってるんだよ、早く帰ってこいよ。まっすぐ帰ってこいよ」そのつぶやきにも似た悲しい声は自分に言っているものではないと思ったのはいつ頃からだろうか。
 昇は酒を飲みほした。
 父に似てない容姿。顔を合わせない母。打ち明けることのない大きな問題。ぐちゃぐちゃした思いがいつも昇を苛立たせる、でも、それを口に出すと全てが無くなってしまいそうで恐ろしかった。

 月が高く上る頃、玉砂利を踏む足音が聞こえてきた。
「登さん?」
「久し振り、昇、また大きくなったね。位置情報の微調整がまた更新されて、ここまで自由自在に来れるようになったんだよ」
「……一杯どう?」
 ほろ酔いで聞くが、登は首を振っただけだった。
 初めて見た時と変わらない顔立ち。
 同じ恰好。
 今では自分より背が低く思われる。
 初めて会ったときと同じ優しい笑顔。
「母がね、出て行っちゃったんだ。今回こそもうダメかもしれない。…よく今まで夫婦を続けていたと思うよ。俺だけのために…」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。君がいたから啓吾も美紗緒さんもお互いが支えあって暮らせたんじゃないのかな?」
「夫婦としては破綻していたよ。最初から、父も母もそれを知って結婚して、俺みたいな私生児を法のザルで子として戸籍に入っている……俺にはそういう関係、理解できないし分かりたくない」
「……」
「父は、今でもあなたのことを思っているよ。ずっと帰ってくるのを待っている」
「この姿で啓吾と会うのは心臓に悪そうだ」
「そしたら、近藤先生に直してもらうよ。うちの会社の心機能蘇生装置使って」
 そう言ったらふたりとも笑った。
 縁側に登は近づき昇の横に腰掛ける。
「花之木邸」には幽霊がいる。昔から町の隠れた噂話だった。けれどちゃんと実体があってこうして話もできる。
「おとぎ話のような世界なのだよ、ここは」そう父は言ったのを、昇は覚えていた。


 子供のころ、父親の書斎にこっそり入ったことがある。詰まった段ボールの箱から大切に保管されている箱を見つけた。高木登という学生証。なぜ父はこんなものを大事に保管しているのか分からなかった。たまに来る安い茶封筒の郵便物を念入りに眺めるのもどうしてだろうかと思っていたことがある。それが、私立探偵による調査書だとは思わなかった。


「登さん、今日は特にご機嫌だね」
「うん。……今はね、こうして転送実験を行っているベータ版だけれど、今後は、ここの固定軸以外からの指定ポイント計測の転送の実験データ収集も安定可能になるらしいって。それに、やっと自分の研究も終わりが見えてきた所でね……。啓吾に、あ、昇にも黄金樹の再生を見てもらいたいよ」
 そうか、昇はふとそう思った。母親と登は何処か感性が似ているのだ。何かに打ち込むとそれに飲み込まれてしまうくらい没頭する。その時には誰もそこに立ち入ることはできないのだ。だが母にはそれを連れ戻す人を拒絶しているたぶんこの先もずっと…。だけどこの人は。
「父はこの先で寝てますよ。さて、と、僕は酔い覚ましに外苑を回ってきます」
 そう言って立ち上がった。夜空は星星で光り輝き、月は雲で陰りますます光りは輝いていた。
 
 夜空を昇は見上げた。
「黄金樹に反物質鉱石…空を異動する島…おとぎ話だよ。本当にここに来るといつも狐につままされた気分だ…でも本当なんだよね」


 初めて登に会った時、昇は火がついたように大泣きをして登を驚かせた。
「ごめん。ごめん。大丈夫、ほら足もあるし幽霊じゃない。幽霊じゃない。けど、滞在期間があるんだ。あと少ししたら消えるから…お話でもしようか」
「変なの」
「うん。変だろ。……変な感じだね」


 登が何度現れても啓吾は寝ていた。
「お父さん、また眠っちゃっている」
「うん、そうだね……ここまで来て疲れて眠っちゃってる、寝かせてあげようよ。元気そうだ。こうして昇君にも会えたし、幸せそうだ」
「目が覚めたら言うよ」
 否定でも肯定でもなく登は首を横に降る。
 大人はけして理解できないだろうだって、花之木邸の幽霊は昇にしか見えなかったのだから。
「昇はお父さん好き?」
「うん、一番好き。だから二番目に登にしたげる」
「ありがとう」
 それは子供心にも分かるほどの悲しそうな笑みだった。
それ以来かもしてない、昇は父を父と呼ぶことにしたのは、難しいことを無駄に考え続けることにバカらしくなったのだ。
 

 
 きらきらと光に透ける登の姿はとても綺麗で儚い存在だった。
 父の一番の人を独占してはいけない……それは思春期の終わりだと理解した。そしてたぶんもう二度と登に会うこともないし、ここに来ることもないだろうと感じた。
 今夜は此処に住む全ての木々や草花や生き物達に別れの挨拶をして回ろうと歩いた。朝飯には間に合いそうにないだろう、それでいいんだと呟いた。

「啓吾…」
「俺の耳元でうるさく騒いで……狸寝入りもまともに出来たためしがないじゃないか」
 啓吾は自分が年を取ったということを十分理解できている。今夜は特に悪い酒でも飲んだ気分だ。登が歩いてこちらに来るのがわかる。啓吾の心臓が高鳴る。
 目を開けるのが怖くても、体を起こした。
 懺悔でも悔恨でもいい何か言いたい訳じゃない。喋らないと体が崩れそうになる。
「俺はひたすら頑張って仕事をした。お前のことを忘れはしなかったが結婚もした。……俺は懺悔しているわけじゃないし、後悔もしていない…でも毎年此処に来てしまう…幽霊でも、妖怪でもいいんだ。お前が此処に居てくれる。触れることのできないお前を思っている自分が愚かだ。見も知らない誰かが目の前で倒れているのに自分のことを優先に考えない愚か者、お前は俺の唯一だというのにそういう俺を俺は、俺は。……美紗緒はそれを知っている。……疲れた、眠らせろ。夢でいいんだ、……お前に触れたい」
 触わると消えそうな気がして怖い。
 あと少しで触れられる距離まで近づいて来る。
 手を伸ばして触ると消えてしまう様な透明な存在。
 だから、気配は気がついても、触れてはいけないと今までずっと自分を戒めていた。
「俺はお前の事となると、十代のガキみたく、動揺してしまうんだ。いつもだよ。ビビったガキみたいに震えが止まらなくなってしまう。今も本気だとわかってくれるまで全力で口説いている、俺は今お前に触れたい」
 お互いの熱が伝わる距離になった。
「啓吾、キスして、抱き締めて。忘れられないようなキスが欲しい…」
 時間が止まればいいと思った。
 顔にゆっくりと手を添える。
 唇のあたりに触れるか触れないかのようなキスをした。
 腕の中に登の体が収まる……まだ登が腕のなかにいてくれる。
 リアルな夢のキラキラした塊はとても暖かい。
「それだけで十分?」
 イタズラっぽい声。煽られて対抗する。
「年寄りだと思って馬鹿にする気か?」
「スケベだから」
「どっちが!」
 ふふふ、と登は笑った。
 
 目が覚めると、枕もとに腕時計が一つ残っていた。がりがりに傷が付いていて使い物にならない古臭い時計が一つ…。
 啓吾は大事に手のひらに乗せた。

「時期が来たら手紙を出すよ。啓吾がここに来られるように、チケットを入れておくよ」切なく残る香りがそこに登がいた証拠だった。
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