猫奴隷の日常

ハルカ

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過去の影絵

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横に垂れた髪が邪魔になり、リュカはナイフを置いた。
シャツのポケットから髪紐を引き出し、手早く結ぶ。
黒く光沢のあるそれは、フェリクスが贈ってくれたものだった。

『リュカさん、髪きれいだよね』

伸ばしてみなよ。
情事の痕跡が色濃く残るベッドの上で囁く声は酷く甘くて、リュカはなにも考えられないまま頷いていた。
後日髪紐を贈られて、ようやく約束ともいえないようなやり取りを思い出したが、リュカに異論があるはずもなく、同じように頷いて髪紐を受け取った。
伸ばしてみると、思いの外邪魔になることも多い。でも、フェリクスが褒めてくれるから。些細な煩わしさなど気にならなくなる。

面映い思いで再び調理作業に戻ろうとしたリュカの耳に、不意に蘇ってくる声があった。

『リュカ兄って、自分てもんがねーの?』

それは、久しぶりに会ったカイがリュカを一目見た瞬間に放った言葉だった。
リュカは初め何を言われたのかわからず、自身を見下ろして、ようやく気づいたのだった。
フェリクスに言われて伸ばし始めた髪、以前はしなかったような服装、この歳になって初めて開けたピアス、料理に向かない指輪・・・ そのどれもが、フェリクスに言われて取り入れたものばかりだった。
今の自分の格好で、フェリクスと付き合う前から続けているものなんてなにもない。その事実に。
その気付きは、リュカの胸を思いの外深く突いた。

今日だって。
リュカは調理台に並んだ作りかけの夕食を眺め、ため息をついた。
フェリクスはここ最近帰ってきていなかった。三日から五日は仕事で帰れないと聞かされて、今日で三日目。まだあと二日は帰ってこないかもしれないのに、こうやって無駄になるかもしれない夕食を用意して待っている。
フェリクスが帰ってこなくてもきっと、明日も夕食を用意してしまうのだろう。そうしてようやく会えた時には、無駄になった二日間のことはなかったことにして、夕食を作って迎え入れるのだ。
周りから見れば無駄でしかないその行為が、リュカにとってはそうではない。でも・・・

不意に、ぎゅっと喉を締め付けられる感覚を覚えた。

自分は一体何をしているんだろう?

リュカは作りかけていた料理をしまい、部屋を出た。
とぼとぼと暗くなった路地を歩く。

別に、自分がないわけじゃない。フェリクスの側にいて、彼の役に立ちたい。これはリュカの意思であるはずだ。
なのにどうして気分が沈んでいく感じがするんだろう。

フェリクスと付き合い始めた頃は、この関係がこんなにも長く続くとは思っていなかった。
だから、いつ別れを切り出されてもいいように、自分の足で立っていられるようにと、心のどこかではずっとブレーキをかけていたはずだった。
なのに、いつまで経ってもフェリクスがリュカに別れを告げることはなく。気がつけば依存していると言われても仕方がない状況になっていた。
もしも今別れようと言われたら、それはリュカにとって致命傷になってしまうだろう。

想像しただけでも泣けてきてしまい、もう笑うしかない。

『まぁ、いーんじゃねーの?リュカ兄がそれでいーんなら』

ショックを受けた様子のリュカに、さすがにまずいと思ったのか、カイは自分の耳を弄りながらフォローするように言った。
獣人はピアスをしている者が多い。人間よりも耳が大きいため、耳飾りが映えるからだろう。カイも十代の頃はゴテゴテとぶら下げていた気がする。好き勝手生きていた頃とは決別してしまったかのように、今は何もつけていないけれど、考え事をしながら喋る時、無意識にかつてピアスがあった辺りを触るクセがある・・・

とにかく、今日のところは家に帰ろう。そう決めて家の方に方向転換した時、違和感に気付いた。
リュカが進路を変えた時、後ろを歩いていた人が慌てたように塀の影に隠れた気がした。
・・・きっと気のせいだろう。
誰かに尾行される覚えも、リュカにはない。
平静を装って歩きながら、時々振り返って確認する。怪しい人影はない。
やっぱり気のせいか。
安心しかけて、悲鳴を上げかけた。
閉店した店舗のガラス窓に映る、ガラの悪い男。男は明らかにリュカを見ていた。

路上強盗?お金を持っていると思われたのか。夜中、人通りはほとんどない。家まではまだ距離がある。
いけないと思いつつ駆け足になる。背後で足音が乱れ、急な確信にリュカはあっという間にパニックになった。

・・・どのくらい走っただろうか。そろそろ体力がつきそうだった。背後の足音に諦める様子はない。
どうすれば・・・

「こっち」

横手からかかった声に、リュカはハッと顔を上げた。連なった戸口の一つから赤髪の青年が顔を出し、リュカを手招いていた。
戸惑いは一瞬、柔和な顔に引かれるようにリュカは青年の招きに応じていた。
パタンと背後で閉まるドア。表を足音が通り過ぎていく。
助かったのだ。
安堵と共に部屋に導いてくれた青年を見やる。リュカの視線に気付いた青年は、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫?」
「はい。あの、ありがとうございました。すぐにお暇しますから・・・」
「まだ出ないほうがいいよ。あいつらが待ち伏せしてるかも」
「でも・・・」

リュカは窓越しに外を伺った。人の気配はないように思える。強盗がそこまで執拗に一人の人間を追い回すとも思えない。でも、目的が強盗でなかったら?

「いいよ。どうせ眠れないから」

座って、と言われ、戸惑いつつ腰を下ろす。改めて見回すと、随分簡素な部屋だった。暮らし始めて間もないため、家具も揃っていないといったふうだった。

「ありがとう。ボクは」
「リュカ」
「え?」
「だよね?」

青年は手元に引き寄せた二つのカップに紅茶を注ぎ、一つをリュカの前に置いた。

「すみません、どこかで会ったことが?」
「以前、フェリクスと一緒にいるところを見たことがあるんだ。それで、二人を知ってるって人に聞いた。・・・気を悪くした?」
「い、いいえ」
「よかった」

きれいな人だった。たおやかな、といった表現が似合う。落ち着いた風合いの赤髪に、瞳は翠。女性物と見える赤いストールを羽織っている。落ち着かない気分を誤魔化すように、リュカは手元の紅茶を飲んだ。少し苦い。

「あなたは?」
「アレン」
「フェリクスとは・・・?」

フェリクスには知り合いが多いが、アレンと名乗るこの青年を見たことはなかった。

「子どもの頃、同じ場所で暮らしてたんだ」
「子どもの頃・・・」

フェリクスは昔、貧民街の元教会を塒にする孤児だった。アレンの言う同じ場所というのがそこなら、アレンも孤児だったということだろう。
フェリクスはその頃の話をあまりしたがらない。その頃の知り合いだ、という人の話も聞いたことがなかった。

「少し、街を離れてたんだ。久しぶりに会ったけど、変わってなかった。彼」

声に潜む親密さに、ドキリとする。
アレンの言うことが本当なら、リュカの知らない間に二人は会ったことになる。
詳しく聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちがぶつかって、自然と視線が下がってしまう。

「そう、でしょうか」
「うん。相変わらず・・・」

テーブルの向こう側で、アレンが目を細める。ランプの灯が揺らめいて・・・

「相変わらず、自分勝手な男」
「え」

聞き間違いかと思い、リュカはまじまじとアレンを見つめてしまった。そんなリュカを気にもとめず、アレンはテーブル越しに身を乗り出してくる。

「あなたを見た時、すぐに分かったよ。噂は本当だって」
「噂・・・?」

近づきすぎていたせいで、アレンの瞳孔がヘビのようにきゅっと絞られるのを、リュカは見てしまった。
怖いのに、動けない。
そんなリュカを面白がるように、アレンは続ける。

「みんな話してた。フェリクスは兄に弟の身代わりをさせてるって」
「・・・」

は、と空気がどこからか漏れる音がした。自分の体のどこかから聞こえたはずなのに、それがどこかはわからなかった。

「いるんだよね。本当に大切なものには手を出せないって人。そういう人って、その相手以外にはいくらでも冷酷になれるんだよね」
「・・・」
「例えば、弟が昔してたような格好をさせる、とか?」

フフ、とアレンは笑う。
リュカの格好のことを言っているのだ。
そんなことはない、と言いかた言葉が、喉に詰まった。
確かに十代の頃、カイは髪を伸ばしていた事がある。ピアスもしていたし、どこで買ってくるのか、着る服のセンスも良かった。丁度、今のリュカのような・・・

身につけている物が急に他人になってしまったような気がして、リュカは居心地悪さに身じろいだ。

「・・・帰ります」
「そんなこと言わずに。ゆっくりしていきなよ。夜は長いんだし」

構わずに席を立とうとして、できなかった。縫い付けられたように、動けない。

「・・・?」
「面白いね。フェリクスにとってあなたを抱くことは、親友を犯すことと同義なのかな?」
「・・・」
「私には分からない心理だけど」
「・・・」
「薬が効いてきたみたいだね。本当に、迂闊だよ、君。自分を守ってた男達を撒いて、私みたいなのに捕まるなんて」

アレンが横たわっている。違う。横たわっているのは、自分・・・

そこで、意識が途切れた。
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