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その頃のある騒動 2
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「なんですって?」
侍女が告げた言葉に、アドリーヌ・ウォールデンは驚愕した。
招待しておきながら迎えにも現れない婚約者への苛立ちすら、一瞬で吹き飛んだ。
「それは、確かなの」
「はい。従者が申しておりましたので、間違いないかと」
「そう・・・」
今夜の夜会に、セヴィニー家のエイベルがやって来ている・・・
棒のように固まった足を叱咤して、アドリーヌは会場へと続く廊下を前へと進んだ。
エイベル・セヴィニーは、アドリーヌの父親の姉の息子、つまり従兄妹にあたる男である。ただし、面識はない。
それでも、幼い頃より彼の噂はいくらでも耳に入った。優秀さと、それ以上の畏怖。彼の生家であるウォールデン家にも、彼の存在は無関係ではなかった。
どうしよう。とりあえず、挨拶は必須よね。
相手はアドリーヌの存在など記憶にもないかもしれない。それでも、礼を失するわけにはいかない。辺境に押し込められているとはいえ、エイベルはあの、王の一番の側近であるアドルファスの長男なのだ。パーティで顔を合わせたにも関わらず挨拶もしなかったなんてことが父親にでも知られたら、愚か者の烙印を押されてしまう。
アドリーヌとてエイベルの顔は知らなかったが、この国に二人といない赤い目は、これ以上ない目印になる。
アドリーヌは、前を歩いていた子爵家の令息とその婚約者に続いて会場入りした。
婚約者がいる身で、一人で入場しなければならない屈辱も、今はどうでもいい。
アドリーヌは素早く周囲を見回した。
流行のパステルカラーを身に着けた人々の顔を、順々に確認していく。
確か、彼は黒髪だったはず。それに、背も高い。
それらしき後ろ姿を見つけては、前へ回り込む。公爵令嬢らしく、決して焦りは見せず、優雅に笑みを浮かべながらの人探しは骨が折れる。
・・・いない。黒髪の男は何人かいるが、赤い目の男は一人もいない。
侍女の情報が間違っていたのか。・・・そうは思えない。侍女のマリアは優秀だ。しかもよりによって、あんな間違いをするはずがない。
その時、背後をせかせかと速足で通り過ぎていった男の放った言葉に、アドリーヌはハッとした。
「それで、あの方はまだ部屋か」
男に付き従っていた従者と思しき男が、「はい」と頷く。
「なにか言っておられるか」
「いいえ。それに、獣人が部屋の前をうろついておりまして、中までは入れませんでした」
「そうか。まあいい。失礼のないようにしろ」
「はい」
二人はスピードを緩めないまま、会場の外へと出て行った。あれは、ラッシュ伯爵だ。今日の夜会を開いた張本人で、クリフの叔父にあたる人物だ・・・
そこまで考えて、アドリーヌはもう一つの懸案事項を思い出した。
そうだった。クリフは一体どうしたのだろう。アドリーヌの婚約者は。
再び見回すと、さっきは目に入らなかった集団が、会場の中ほどにいることに気が付いた。
アドリーヌがそちらを見たことで、クリフの不機嫌を絵に描いたようだった表情が、優位に立った者のそれにとって代わる。
会場入りしたにも関わらずアドリーヌが自分の方を見ないので、機嫌を損ねていたのだろう。
本当に、子どもだ。
あれが自分の婚約者とは。
クリフはこれ見よがしにアドリーヌに背を向け、友人たちと談笑し始める。
そのクリフの傍らには、ふわふわとしたピンク色のドレスを纏った少女が、寄り添うようにして立っていた。
嫌われたものね、と、アドリーヌはため息をつく。
クリフ・ダランベールが婚約者になることは、アドリーヌが女に生まれた瞬間にはもう決まっていた。軽薄さは否めないものの、一応王家に名を連ねる家の出で、その血を継ぐ者を欲していた父親の目に留まるには充分だった。
見返りは、金銭である。
ダランベール家の台所事情は、あまり健全とはいえないらしい。それにしては、クリフも、その両親も、かなりの放蕩生活を続けている。
その金がどこから出ているのか。考えなくとも察しが付くと言うものだ。
アドリーヌとて、貴族の娘として生まれたからには、愛のない結婚をすることに嫌はない。しかしクリフの方は違ったらしい。
気が強くプライドも高いアドリーヌを、クリフはすぐに煙たがり、遠ざけた。
その上、浮気である。
今横にいるピンク色のふわふわは、確か男爵家の令嬢だったはず。クリフが好きそうな、頭の中までふわふわしたような少女。
同じ会場にいるのに、婚約者ではなく浮気相手を横に置く厚顔無恥さ。
ああでも、今はそれすらどうでもいい。
さっきラッシュ伯爵が言っていたのは、エイベルのことではないのか。他に、伯爵が気を使わねばならないような相手がいるなら別だが、そうでなければ、やはりいるのだ。この屋敷のどこかに。エイベルが。
アドリーヌは、会場入り口となっているドアを注視した。
エイベルが現れたなら、すぐに挨拶に向かわねば。
そのドアが開き、黒髪の男が姿を現した。伏し目がちのせいで、目の色が分からない。でも、アドリーヌにはその男がエイベルであると分かった。パステルカラーの衣装ばかりがひしめく会場にあって、彼はその誰とも違っていた。誰にも迎合しない黒。彼が顔を上げる。整った顔立ち。その瞳は、燃えるような赤――・・・
エイベル・セヴィニーだ。
「アドリーヌ!!」
アドリーヌが彼の元へ参じようとするのと、背後から呼び止められるのと。それらはほぼ同時だった。
侍女が告げた言葉に、アドリーヌ・ウォールデンは驚愕した。
招待しておきながら迎えにも現れない婚約者への苛立ちすら、一瞬で吹き飛んだ。
「それは、確かなの」
「はい。従者が申しておりましたので、間違いないかと」
「そう・・・」
今夜の夜会に、セヴィニー家のエイベルがやって来ている・・・
棒のように固まった足を叱咤して、アドリーヌは会場へと続く廊下を前へと進んだ。
エイベル・セヴィニーは、アドリーヌの父親の姉の息子、つまり従兄妹にあたる男である。ただし、面識はない。
それでも、幼い頃より彼の噂はいくらでも耳に入った。優秀さと、それ以上の畏怖。彼の生家であるウォールデン家にも、彼の存在は無関係ではなかった。
どうしよう。とりあえず、挨拶は必須よね。
相手はアドリーヌの存在など記憶にもないかもしれない。それでも、礼を失するわけにはいかない。辺境に押し込められているとはいえ、エイベルはあの、王の一番の側近であるアドルファスの長男なのだ。パーティで顔を合わせたにも関わらず挨拶もしなかったなんてことが父親にでも知られたら、愚か者の烙印を押されてしまう。
アドリーヌとてエイベルの顔は知らなかったが、この国に二人といない赤い目は、これ以上ない目印になる。
アドリーヌは、前を歩いていた子爵家の令息とその婚約者に続いて会場入りした。
婚約者がいる身で、一人で入場しなければならない屈辱も、今はどうでもいい。
アドリーヌは素早く周囲を見回した。
流行のパステルカラーを身に着けた人々の顔を、順々に確認していく。
確か、彼は黒髪だったはず。それに、背も高い。
それらしき後ろ姿を見つけては、前へ回り込む。公爵令嬢らしく、決して焦りは見せず、優雅に笑みを浮かべながらの人探しは骨が折れる。
・・・いない。黒髪の男は何人かいるが、赤い目の男は一人もいない。
侍女の情報が間違っていたのか。・・・そうは思えない。侍女のマリアは優秀だ。しかもよりによって、あんな間違いをするはずがない。
その時、背後をせかせかと速足で通り過ぎていった男の放った言葉に、アドリーヌはハッとした。
「それで、あの方はまだ部屋か」
男に付き従っていた従者と思しき男が、「はい」と頷く。
「なにか言っておられるか」
「いいえ。それに、獣人が部屋の前をうろついておりまして、中までは入れませんでした」
「そうか。まあいい。失礼のないようにしろ」
「はい」
二人はスピードを緩めないまま、会場の外へと出て行った。あれは、ラッシュ伯爵だ。今日の夜会を開いた張本人で、クリフの叔父にあたる人物だ・・・
そこまで考えて、アドリーヌはもう一つの懸案事項を思い出した。
そうだった。クリフは一体どうしたのだろう。アドリーヌの婚約者は。
再び見回すと、さっきは目に入らなかった集団が、会場の中ほどにいることに気が付いた。
アドリーヌがそちらを見たことで、クリフの不機嫌を絵に描いたようだった表情が、優位に立った者のそれにとって代わる。
会場入りしたにも関わらずアドリーヌが自分の方を見ないので、機嫌を損ねていたのだろう。
本当に、子どもだ。
あれが自分の婚約者とは。
クリフはこれ見よがしにアドリーヌに背を向け、友人たちと談笑し始める。
そのクリフの傍らには、ふわふわとしたピンク色のドレスを纏った少女が、寄り添うようにして立っていた。
嫌われたものね、と、アドリーヌはため息をつく。
クリフ・ダランベールが婚約者になることは、アドリーヌが女に生まれた瞬間にはもう決まっていた。軽薄さは否めないものの、一応王家に名を連ねる家の出で、その血を継ぐ者を欲していた父親の目に留まるには充分だった。
見返りは、金銭である。
ダランベール家の台所事情は、あまり健全とはいえないらしい。それにしては、クリフも、その両親も、かなりの放蕩生活を続けている。
その金がどこから出ているのか。考えなくとも察しが付くと言うものだ。
アドリーヌとて、貴族の娘として生まれたからには、愛のない結婚をすることに嫌はない。しかしクリフの方は違ったらしい。
気が強くプライドも高いアドリーヌを、クリフはすぐに煙たがり、遠ざけた。
その上、浮気である。
今横にいるピンク色のふわふわは、確か男爵家の令嬢だったはず。クリフが好きそうな、頭の中までふわふわしたような少女。
同じ会場にいるのに、婚約者ではなく浮気相手を横に置く厚顔無恥さ。
ああでも、今はそれすらどうでもいい。
さっきラッシュ伯爵が言っていたのは、エイベルのことではないのか。他に、伯爵が気を使わねばならないような相手がいるなら別だが、そうでなければ、やはりいるのだ。この屋敷のどこかに。エイベルが。
アドリーヌは、会場入り口となっているドアを注視した。
エイベルが現れたなら、すぐに挨拶に向かわねば。
そのドアが開き、黒髪の男が姿を現した。伏し目がちのせいで、目の色が分からない。でも、アドリーヌにはその男がエイベルであると分かった。パステルカラーの衣装ばかりがひしめく会場にあって、彼はその誰とも違っていた。誰にも迎合しない黒。彼が顔を上げる。整った顔立ち。その瞳は、燃えるような赤――・・・
エイベル・セヴィニーだ。
「アドリーヌ!!」
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