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龍の眠り
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まさしく。
この世で一番美しく、また気高く、溢れる愛情と深い造詣を持ち、もっとも勇敢な生き物。
―――神龍。
水の精霊王が治める水界・マナンティアールの中心には、天より降り注ぐかのような大滝がある。
天から地へと降り注ぐ水の流れはとどまることを知らず、聖なる湖はその激しい流れを受け止めてなお、穏やかな姿を見せる。冷たく青い水面は清らかに澄み、渡る風さえも映し出しそうだ。
そこに大きな影が射した。高く響く鳴き声が旋律となって湖面を震わせる。
巨大な、そしてとても長い影が緩やかに着水する。美しい緑の鱗が陽の光を反射して輝いた。
水の精霊王の宮殿、ラクス・パレスは大瀑布の裏側にある。ラクス・パレスの中にも滝はあり、大小さまざまな水の流れは宮殿の隅々にまで及ぶ。涼やかな風と共に、清らかなせせらぎが耳に心地よく響き渡る。
麗しい水の都。
豊かで穏やかな水の流れは、永久に途絶えることはない。
少年がひとり、宮殿の大広間を横切り、駆け抜けて行った。
すれ違った若い侍女が目を丸くして、少年の後姿を見つめる。
「……まあ、若君」
普段から物静かで書物を愛する心優しい水神の後継者、ファラ・ルーシャが宮殿の中を走り回るというのは滅多にあることではない。
「あんなに急いで」
利発で大人びた印象を与えがちな若君もやはり小さな子供のようなところがまだまだ残っていたのだと、笑みを誘われる。他の者に見られたら、無礼だと咎められてしまうだろうが、少年が何故あんなに急いでいるのか知っているため、どうにも押さえきれない。
少年の微笑ましい期待に、侍女もまた共感できるからだ。
残念ながら、少年のように直接恩恵にあずかることは出来なくても、彼の存在はいつも、いつの時代も、憧憬の対象だった。
ファラ・ルーシャは宮殿を抜け、大滝の向こう側へと出ると、慎重に岩場を降りていく。
湖のほとりに深い洞窟があるのだ。
今、彼はそこにいる。
雄々しく優美な巨体を休めているのだ。
深く広い洞窟の奥、さらに奥へと向かうと、いきなり現れる光の洪水に、少年は目を眇める。
涼やかな水の匂いが、この洞窟の中も豊かな水で潤っているのだと知ることが出来る。
まばゆいばかりの光の中に佇む偉大なる存在を視界に捕らえて、少年の瞳が輝いた。
深い緑の慈愛に満ちたまなざしが少年に向けられる。
「神龍、眠っていたの?」
「ついウトウトしてしまった。せせらぎはまるで子守唄のようじゃ」
楽しげに神龍は答える。
長い時を戦いに費やしてきた神龍の体はどこも傷だらけだった。
艶やかに輝いていたはずの緑の鱗は今ではすっかり色を失い、全身を水晶で覆ったような透明な色に変わってしまっていた。だがそれでも神龍はどんな存在よりも美しいと少年は思う。
労わるように、少年は神龍の鱗に手を触れる。親愛をこめて、鼻先を撫でるとくすぐったそうに神龍は目を細めた。
「居心地はどう?」
「最高じゃ。我が終焉の地にこの場所を与えてくれた水神には感謝している」
ぴくりと少年の手が止まる。その言葉を聞くのはとても辛かった。
神龍が水界マナンティアールに訪れて、父王がこの地を彼に与えた理由を聞いたときの衝撃を、今でも忘れることは出来ない。
「寿命なのじゃよ、ファラ・ルーシャ。天寿をまっとう出来るのじゃ、喜ばしいことじゃないかね」
「でも、せっかく友だちになれたのに……」
まっすぐに背を覆うほど伸ばされた淡い金色の髪が俯いた少年の顔を隠す。
一粒の熱いしずくが鱗へ落ちると、とめどなく次から次へと流れ続けて、隠すことも出来なくなった。
「ふむ、今日のファラ・ルーシャは真珠姫のようじゃのう」
「ぼ、僕は……、アイシャみたいに、あんなに泣き虫じゃない」
顔を真っ赤にして、少年が慌てて涙を拭うと、神龍は楽しげに笑い声を上げた。
「真珠姫を泣き虫とな」
「僕は何にもしてないのに、僕と会っている間中、ずっと泣いていたんだ」
つい最近婚約したばかりの少女の姿が脳裏を走る。小さな、本当に小さな女の子だった。
泣いてばかりの女の子。
でもその涙には不思議な力が宿っている。マナンティアールの宝、真珠を産み出す力を持った少女。
少女が泣いている姿を見ながら、何も出来ず、ずっと居たたまれない思いをしていたのだ。愚痴のひとつもこぼしたくなる。
「真珠姫も悲しくて泣いていたわけではあるまいよ」
「じゃあ、どうしてなの?」
「さあてそれは……ファラ・ルーシャ、そなた自身で理解できるようにならねばな」
「理解なんて出来ないよ、僕」
「なんと、もうギブアップか。情けないのぅ……まあ、それでもこれだけは覚えておくとよい。真珠姫から贈られる真珠は、最高の勲章になるということをな」
「真珠が勲章に?」
「そうじゃ。ただの真珠ではないぞ。花珠と呼ばれる、真珠姫が一生に一度だけ生み出すことが出来る真珠じゃ。それを贈られたものだけがその効力を知ることができる。それは国を救う力にもなるし、病を治す力にもなる」
ファラ・ルーシャは目を丸くして、神龍の言葉を聞いた。
「知らなかった……真珠姫のことが書いてある書を何冊か読んだけど、そんなことは書いてなかった」
「そなたはとても多くの書物を読んでいるようだが、世界の不思議はとても書物だけに納まりきれるものではないのじゃ」
少年は不思議そうに首をかしげる。
「ふむ、ではヒントを一つあげようかの」
神龍は茶目っ気たっぷりに少年に向けてウィンクを飛ばした。
「ファラ・ルーシャ、わしは神龍と呼ばれておる。そなたが読んだ書物には神龍はなんとかかれておったかな?」
「美しく、また鋼のように堅い緑の鱗を持つ、至高界で命の乙女を守護する偉大なる賢者。龍族の長であり、四大と同等の力を持つもの。まさしく、この世で一番美しく、また気高く、溢れる愛情と深い造詣を持ち、もっとも勇敢な生き物」
神龍はとても楽しげな笑い声を上げた。
「おうおう、すばらしくおだてあげるものじゃのう……じゃが、これで分かったであろう、ファラ・ルーシャ。わしは神龍だが、それはわしのことではない」
なんとなくではあるが、神龍が何を言いたいのか分かった気がした。
「神龍は僕の友だちだって、書物には書いてなかった」
少年の言葉に、神龍は嬉しそうに目を細め、「ありがとう」と言った。
「だがそれでも書が知恵の宝庫であることは間違いないことじゃがの。大事なのは己の目で見ることじゃ。何を見、どう判断しどう行動するかじゃ。真珠姫に対しても、真珠姫という枠組みを一度取り払って見てみることじゃ。そうすれば、アイシャがなぜ、ずっと泣いているのか、分かるかも知れぬぞ」
神妙な表情で少年は神龍の言葉を聞き入っている。
「さりとて、その前に男女の壁が立ちはだかるかも知れぬがの」
その言葉に一抹の不安を覚えた少年はとても複雑そうに顔をしかめた。
「ねぇ、神龍。至高界ってどんなところ?」
神龍に背を預け、ファラ・ルーシャは岩場にそのまま座り込んでいた。
背中に感じる鱗はとても堅かったけれど、温かかった。その温もりが少年を安心させる。穏やかに、知的好奇心を刺激する神龍との時間。共有する時間はファラ・ルーシャにとって何よりも替えがたいものになっていた。
とても大きな存在。書物でしか知らなかった偉大なる存在が今は己の友として接してくれている。あまりの幸運にめまいでも起こしそうだ。
鱗に刻まれた数多くの傷跡が目立つ。
それは至高界で幾度も女神を守ってきた証。いつか大人になって水神となれば、ファラ・ルーシャは至高界の門を守護する役目を担う。水神の他に風神と雷神が門の守護につくのだ。まだ見ぬ地への憧れは強い。
「とても美しいところじゃ」
神龍は瞼を閉じて、遠い記憶を探るように長いひげを揺らした。
「澄み渡った空、清浄な空気、緑豊かな大地、豊かな湖、まばゆいばかりの生命の輝きに満ち溢れておる。……そう、世界の中心にとても大きな樹がある。世界樹と呼ばれておる天にも届かんばかりに大きい樹じゃ」
「世界樹、生命の樹を守っているのが、女神・命の乙女だと父上がおっしゃっていた。でも命の乙女はまだ生まれたばかりで水晶宮にいらっしゃるって?」
「さよう。水晶宮の守りには龍族と地神に加えて火神。いまだ幼い女神を守るには大げさでもなんでもない布陣じゃ」
戦闘能力では四大のなかでも最強を誇る火神に加え、四大の長たる地神、そして龍族が自ら盾になる。
神龍の傷だらけの姿がその戦闘の激しさを物語っている。
「僕が大きくなったら、今度は父上の代わりにこの水界と至高界の門を守らないといけないんだね」
「そうじゃ。じゃが、一人ではない。未来の長妃と力をあわせねば守護の力は現れんのじゃ。精霊王のみでは精霊界は十年と保たずに消滅するであろう。逆もまたしかりじゃ。長妃一人では世界を支えきれぬ。どちらが欠けても世界は成り立たんのじゃよ。四大の治める精霊界は至高界ととても深く結びついておる。精霊界が傾けば、至高界にも影が落ちる。闇が生まれる。闇は世界を蝕む力を持っている。命の乙女が戦っているのはそういう存在なのじゃ」
マナンティアールが平和なのは、父である水神と母の長妃の尽力の賜物なのだ。
重い使命だと子供心に恐ろしく思った。それでも己に課せられた運命なのだとファラ・ルーシャは悟っていた。
「何かを愛しいと思う気持ちを大事にすることじゃ。そうすれば、それを強さに変えることも出来る」
「神龍も、そうだったの? 何かを愛しいって思っていたの?」
「……そうじゃな。わしにもかけがえのない存在はいた。命すら投げ打ってもかまわぬと思ったときもあった。じゃが、そんな激しい想いはもうどこかに行ってしまった」
神龍はそっと長い息を吐く。
「今はただ穏やかに、すべてが愛しい……」
緩やかに、だが確実に、神龍を永遠の眠りへと誘う時間の流れ。
決して途切れることのないそれは、マナンティアールの水の流れにも似ている。
それが世界の理なのだと、ファラ・ルーシャはやるせない思いを抱えながら、納得せざるを得なかった。
神龍に背中を預けて、同じように目を閉じる。
失われていくものに対して、何も出来ないことの無力感と寂寥感にただただ打ちひしがれていた。
「ほら、気をつけて」
小さく柔らかな手を引いて、洞窟の奥へと歩を進めていく。
かなり足場も悪く、下手をすれば怪我をしそうな道でも少女は文句一つ言わない。
「大丈夫かい?」
問いかければ明るい笑顔で頷く。だがさすがに息は上がっているようだった。
アイシャのような深窓の姫君にはとてもこの道のりは無理だと宮殿の者たちに言われていたこともあって、ファラ・ルーシャも不安があった。だが根気強くついてくる。彼女のこのがんばりを意外に思った。
「もうすぐ着くよ」
上気した顔がわずかに安堵に輝いた。
愛らしい笑顔に何故か嬉しくなって、ファラ・ルーシャは少女と手を握り合って歩くことに苦を覚えなくなっていた。そうすることが当たり前のような気になってくるのが不思議だった。この先もずっと彼女と手を取り合って歩いていくのだろうとふと思った。
この手を取ったことはたぶん間違いじゃないと何かが教えてくれている、そんな気がした。
しばらくすると湖に半身を沈めた神龍の姿が見えてきた。
神龍は眠っているようだった。静まり返った湖に眠る龍の姿は一枚の絵画のように美しく、自然に周囲の風景に溶け込んでいた。
静かに神龍の元に近付いていくと、ゆらゆらと風に揺れていた神龍のひげが大きく揺らいだ。数回まばたきをした後、神龍は目を覚ました。
「こんにちは、神龍。今日はアイシャを連れてき……」
神龍の双眸を覗き込んだファラ・ルーシャはその後の言葉を失った。
神龍の深い緑だった瞳の中心が白濁している。宙をさまよう眼差しを受けて、体が震えるのが分かった。
アイシャが神龍の鼻先に覆いかぶさるように抱きついた。
「はじめまして、神龍様。お会い出来て嬉しく思います」
「おお、真珠姫か。はじめまして、じゃ。わしも会えて嬉しい」
神龍は相好を崩し、嬉しそうにひげを躍らせた。アイシャが気付いているかどうかは分からない。彼女はまっすぐに優しく神龍を見つめている。
言葉を発することも出来ず、ファラ・ルーシャはアイシャと同じように神龍の鼻先にしがみついた。神龍は無言で瞳を閉じて、受け止めてくれていた。
タイムリミットが近付いている。もうすぐこの幸せなひと時が終わってしまうのだ。
怖かった。とても怖くて、アイシャの前なのに泣きそうになった。
「さて……」
短くひとこと言い置いて、神龍が身じろぎした。びくりと体が震えたのが分かった。
「神龍っ」
大きな体を動かすことがとても億劫に見えた。
どこに行くのかと問うことはすでに出来なかった。神龍の行動をただ見守ることしか出来ない。
神龍はゆっくりと体を反転させた。
彼が終焉の地と定めた湖へ。
老いてもなお美しい神龍の巨躯がゆっくりと水面下に沈んでいく。
水界マナンティアールの誇る聖なる湖に透明化した鱗が光をはじいて輝く。
「……神龍」
光のまぶしさに涙がにじんだ。
気がつくと駆け出していた。何の迷いもなく、湖に飛び込む。
いくつもの気泡が浮かび上がっては消えていく。その先に、神龍の姿が見えた。その側に付き添うように、一人の男の姿が見て取れた。ファラ・ルーシャは目を見開いて、その人物を見た。
「……父上」
長い金色の髪が水の流れと同じように揺れる。痩身でありながら威風堂々とした水神が自ら神龍を導く。
一度も振り返ることなく、湖のさらに奥底へと沈んでいく神龍をファラ・ルーシャはただ見送ることしか出来ない。
『ファラ(水)・ルーシャ(照らす者)……小さな友よ。会えて嬉しかったよ』
届いた言葉は空耳だったのか。己の都合の良い夢だったのか。
否、確かに聞いた。
古き言葉で名を呼んでくれた。
それだけで胸がいっぱいになった。あふれ出すものをとめることができなくて、大きく息を吸ったとたん嗚咽がこぼれた。
ちいさな手が頬に触れる。
アイシャの優しくて温かなぬくもりが心地よかった。
今のファラ・ルーシャは始めて会ったときのアイシャよりも泣いていたかもしれない。でもその涙は真珠に変わることもなく、ただ周りの水と混じって溶けていくだけ。アイシャがじっと涙の行方を見つめているのが分かった。どうして真珠に変わらないのか不思議がっているようにも見えた。
アイシャが瞼を閉じて、祈るように両手を組み合わせる。彼女の眦から光るものが生まれて零れ落ちていく。
それは紛れもなく、真珠だった。
薄紅色の光沢を放つ小さな真珠をアイシャは差し出す。
「代わりに……」
ファラ・ルーシャは頷き、アイシャの手に添えるようにして、一緒に真珠を解き放った。
「あなたの眠りを妨げることがないように……この真珠があなたの守護となりますように……」
水界を統べる水神の後継者として、この湖の奥底にいる友の眠りが永久に脅かされることがないように、全力を尽くすことを少年は強く心に誓った。
「さようなら、神龍……どうか、安らかに」
一粒の真珠は神龍の後を追うように、たゆたいながら沈んでいった。
終
この世で一番美しく、また気高く、溢れる愛情と深い造詣を持ち、もっとも勇敢な生き物。
―――神龍。
水の精霊王が治める水界・マナンティアールの中心には、天より降り注ぐかのような大滝がある。
天から地へと降り注ぐ水の流れはとどまることを知らず、聖なる湖はその激しい流れを受け止めてなお、穏やかな姿を見せる。冷たく青い水面は清らかに澄み、渡る風さえも映し出しそうだ。
そこに大きな影が射した。高く響く鳴き声が旋律となって湖面を震わせる。
巨大な、そしてとても長い影が緩やかに着水する。美しい緑の鱗が陽の光を反射して輝いた。
水の精霊王の宮殿、ラクス・パレスは大瀑布の裏側にある。ラクス・パレスの中にも滝はあり、大小さまざまな水の流れは宮殿の隅々にまで及ぶ。涼やかな風と共に、清らかなせせらぎが耳に心地よく響き渡る。
麗しい水の都。
豊かで穏やかな水の流れは、永久に途絶えることはない。
少年がひとり、宮殿の大広間を横切り、駆け抜けて行った。
すれ違った若い侍女が目を丸くして、少年の後姿を見つめる。
「……まあ、若君」
普段から物静かで書物を愛する心優しい水神の後継者、ファラ・ルーシャが宮殿の中を走り回るというのは滅多にあることではない。
「あんなに急いで」
利発で大人びた印象を与えがちな若君もやはり小さな子供のようなところがまだまだ残っていたのだと、笑みを誘われる。他の者に見られたら、無礼だと咎められてしまうだろうが、少年が何故あんなに急いでいるのか知っているため、どうにも押さえきれない。
少年の微笑ましい期待に、侍女もまた共感できるからだ。
残念ながら、少年のように直接恩恵にあずかることは出来なくても、彼の存在はいつも、いつの時代も、憧憬の対象だった。
ファラ・ルーシャは宮殿を抜け、大滝の向こう側へと出ると、慎重に岩場を降りていく。
湖のほとりに深い洞窟があるのだ。
今、彼はそこにいる。
雄々しく優美な巨体を休めているのだ。
深く広い洞窟の奥、さらに奥へと向かうと、いきなり現れる光の洪水に、少年は目を眇める。
涼やかな水の匂いが、この洞窟の中も豊かな水で潤っているのだと知ることが出来る。
まばゆいばかりの光の中に佇む偉大なる存在を視界に捕らえて、少年の瞳が輝いた。
深い緑の慈愛に満ちたまなざしが少年に向けられる。
「神龍、眠っていたの?」
「ついウトウトしてしまった。せせらぎはまるで子守唄のようじゃ」
楽しげに神龍は答える。
長い時を戦いに費やしてきた神龍の体はどこも傷だらけだった。
艶やかに輝いていたはずの緑の鱗は今ではすっかり色を失い、全身を水晶で覆ったような透明な色に変わってしまっていた。だがそれでも神龍はどんな存在よりも美しいと少年は思う。
労わるように、少年は神龍の鱗に手を触れる。親愛をこめて、鼻先を撫でるとくすぐったそうに神龍は目を細めた。
「居心地はどう?」
「最高じゃ。我が終焉の地にこの場所を与えてくれた水神には感謝している」
ぴくりと少年の手が止まる。その言葉を聞くのはとても辛かった。
神龍が水界マナンティアールに訪れて、父王がこの地を彼に与えた理由を聞いたときの衝撃を、今でも忘れることは出来ない。
「寿命なのじゃよ、ファラ・ルーシャ。天寿をまっとう出来るのじゃ、喜ばしいことじゃないかね」
「でも、せっかく友だちになれたのに……」
まっすぐに背を覆うほど伸ばされた淡い金色の髪が俯いた少年の顔を隠す。
一粒の熱いしずくが鱗へ落ちると、とめどなく次から次へと流れ続けて、隠すことも出来なくなった。
「ふむ、今日のファラ・ルーシャは真珠姫のようじゃのう」
「ぼ、僕は……、アイシャみたいに、あんなに泣き虫じゃない」
顔を真っ赤にして、少年が慌てて涙を拭うと、神龍は楽しげに笑い声を上げた。
「真珠姫を泣き虫とな」
「僕は何にもしてないのに、僕と会っている間中、ずっと泣いていたんだ」
つい最近婚約したばかりの少女の姿が脳裏を走る。小さな、本当に小さな女の子だった。
泣いてばかりの女の子。
でもその涙には不思議な力が宿っている。マナンティアールの宝、真珠を産み出す力を持った少女。
少女が泣いている姿を見ながら、何も出来ず、ずっと居たたまれない思いをしていたのだ。愚痴のひとつもこぼしたくなる。
「真珠姫も悲しくて泣いていたわけではあるまいよ」
「じゃあ、どうしてなの?」
「さあてそれは……ファラ・ルーシャ、そなた自身で理解できるようにならねばな」
「理解なんて出来ないよ、僕」
「なんと、もうギブアップか。情けないのぅ……まあ、それでもこれだけは覚えておくとよい。真珠姫から贈られる真珠は、最高の勲章になるということをな」
「真珠が勲章に?」
「そうじゃ。ただの真珠ではないぞ。花珠と呼ばれる、真珠姫が一生に一度だけ生み出すことが出来る真珠じゃ。それを贈られたものだけがその効力を知ることができる。それは国を救う力にもなるし、病を治す力にもなる」
ファラ・ルーシャは目を丸くして、神龍の言葉を聞いた。
「知らなかった……真珠姫のことが書いてある書を何冊か読んだけど、そんなことは書いてなかった」
「そなたはとても多くの書物を読んでいるようだが、世界の不思議はとても書物だけに納まりきれるものではないのじゃ」
少年は不思議そうに首をかしげる。
「ふむ、ではヒントを一つあげようかの」
神龍は茶目っ気たっぷりに少年に向けてウィンクを飛ばした。
「ファラ・ルーシャ、わしは神龍と呼ばれておる。そなたが読んだ書物には神龍はなんとかかれておったかな?」
「美しく、また鋼のように堅い緑の鱗を持つ、至高界で命の乙女を守護する偉大なる賢者。龍族の長であり、四大と同等の力を持つもの。まさしく、この世で一番美しく、また気高く、溢れる愛情と深い造詣を持ち、もっとも勇敢な生き物」
神龍はとても楽しげな笑い声を上げた。
「おうおう、すばらしくおだてあげるものじゃのう……じゃが、これで分かったであろう、ファラ・ルーシャ。わしは神龍だが、それはわしのことではない」
なんとなくではあるが、神龍が何を言いたいのか分かった気がした。
「神龍は僕の友だちだって、書物には書いてなかった」
少年の言葉に、神龍は嬉しそうに目を細め、「ありがとう」と言った。
「だがそれでも書が知恵の宝庫であることは間違いないことじゃがの。大事なのは己の目で見ることじゃ。何を見、どう判断しどう行動するかじゃ。真珠姫に対しても、真珠姫という枠組みを一度取り払って見てみることじゃ。そうすれば、アイシャがなぜ、ずっと泣いているのか、分かるかも知れぬぞ」
神妙な表情で少年は神龍の言葉を聞き入っている。
「さりとて、その前に男女の壁が立ちはだかるかも知れぬがの」
その言葉に一抹の不安を覚えた少年はとても複雑そうに顔をしかめた。
「ねぇ、神龍。至高界ってどんなところ?」
神龍に背を預け、ファラ・ルーシャは岩場にそのまま座り込んでいた。
背中に感じる鱗はとても堅かったけれど、温かかった。その温もりが少年を安心させる。穏やかに、知的好奇心を刺激する神龍との時間。共有する時間はファラ・ルーシャにとって何よりも替えがたいものになっていた。
とても大きな存在。書物でしか知らなかった偉大なる存在が今は己の友として接してくれている。あまりの幸運にめまいでも起こしそうだ。
鱗に刻まれた数多くの傷跡が目立つ。
それは至高界で幾度も女神を守ってきた証。いつか大人になって水神となれば、ファラ・ルーシャは至高界の門を守護する役目を担う。水神の他に風神と雷神が門の守護につくのだ。まだ見ぬ地への憧れは強い。
「とても美しいところじゃ」
神龍は瞼を閉じて、遠い記憶を探るように長いひげを揺らした。
「澄み渡った空、清浄な空気、緑豊かな大地、豊かな湖、まばゆいばかりの生命の輝きに満ち溢れておる。……そう、世界の中心にとても大きな樹がある。世界樹と呼ばれておる天にも届かんばかりに大きい樹じゃ」
「世界樹、生命の樹を守っているのが、女神・命の乙女だと父上がおっしゃっていた。でも命の乙女はまだ生まれたばかりで水晶宮にいらっしゃるって?」
「さよう。水晶宮の守りには龍族と地神に加えて火神。いまだ幼い女神を守るには大げさでもなんでもない布陣じゃ」
戦闘能力では四大のなかでも最強を誇る火神に加え、四大の長たる地神、そして龍族が自ら盾になる。
神龍の傷だらけの姿がその戦闘の激しさを物語っている。
「僕が大きくなったら、今度は父上の代わりにこの水界と至高界の門を守らないといけないんだね」
「そうじゃ。じゃが、一人ではない。未来の長妃と力をあわせねば守護の力は現れんのじゃ。精霊王のみでは精霊界は十年と保たずに消滅するであろう。逆もまたしかりじゃ。長妃一人では世界を支えきれぬ。どちらが欠けても世界は成り立たんのじゃよ。四大の治める精霊界は至高界ととても深く結びついておる。精霊界が傾けば、至高界にも影が落ちる。闇が生まれる。闇は世界を蝕む力を持っている。命の乙女が戦っているのはそういう存在なのじゃ」
マナンティアールが平和なのは、父である水神と母の長妃の尽力の賜物なのだ。
重い使命だと子供心に恐ろしく思った。それでも己に課せられた運命なのだとファラ・ルーシャは悟っていた。
「何かを愛しいと思う気持ちを大事にすることじゃ。そうすれば、それを強さに変えることも出来る」
「神龍も、そうだったの? 何かを愛しいって思っていたの?」
「……そうじゃな。わしにもかけがえのない存在はいた。命すら投げ打ってもかまわぬと思ったときもあった。じゃが、そんな激しい想いはもうどこかに行ってしまった」
神龍はそっと長い息を吐く。
「今はただ穏やかに、すべてが愛しい……」
緩やかに、だが確実に、神龍を永遠の眠りへと誘う時間の流れ。
決して途切れることのないそれは、マナンティアールの水の流れにも似ている。
それが世界の理なのだと、ファラ・ルーシャはやるせない思いを抱えながら、納得せざるを得なかった。
神龍に背中を預けて、同じように目を閉じる。
失われていくものに対して、何も出来ないことの無力感と寂寥感にただただ打ちひしがれていた。
「ほら、気をつけて」
小さく柔らかな手を引いて、洞窟の奥へと歩を進めていく。
かなり足場も悪く、下手をすれば怪我をしそうな道でも少女は文句一つ言わない。
「大丈夫かい?」
問いかければ明るい笑顔で頷く。だがさすがに息は上がっているようだった。
アイシャのような深窓の姫君にはとてもこの道のりは無理だと宮殿の者たちに言われていたこともあって、ファラ・ルーシャも不安があった。だが根気強くついてくる。彼女のこのがんばりを意外に思った。
「もうすぐ着くよ」
上気した顔がわずかに安堵に輝いた。
愛らしい笑顔に何故か嬉しくなって、ファラ・ルーシャは少女と手を握り合って歩くことに苦を覚えなくなっていた。そうすることが当たり前のような気になってくるのが不思議だった。この先もずっと彼女と手を取り合って歩いていくのだろうとふと思った。
この手を取ったことはたぶん間違いじゃないと何かが教えてくれている、そんな気がした。
しばらくすると湖に半身を沈めた神龍の姿が見えてきた。
神龍は眠っているようだった。静まり返った湖に眠る龍の姿は一枚の絵画のように美しく、自然に周囲の風景に溶け込んでいた。
静かに神龍の元に近付いていくと、ゆらゆらと風に揺れていた神龍のひげが大きく揺らいだ。数回まばたきをした後、神龍は目を覚ました。
「こんにちは、神龍。今日はアイシャを連れてき……」
神龍の双眸を覗き込んだファラ・ルーシャはその後の言葉を失った。
神龍の深い緑だった瞳の中心が白濁している。宙をさまよう眼差しを受けて、体が震えるのが分かった。
アイシャが神龍の鼻先に覆いかぶさるように抱きついた。
「はじめまして、神龍様。お会い出来て嬉しく思います」
「おお、真珠姫か。はじめまして、じゃ。わしも会えて嬉しい」
神龍は相好を崩し、嬉しそうにひげを躍らせた。アイシャが気付いているかどうかは分からない。彼女はまっすぐに優しく神龍を見つめている。
言葉を発することも出来ず、ファラ・ルーシャはアイシャと同じように神龍の鼻先にしがみついた。神龍は無言で瞳を閉じて、受け止めてくれていた。
タイムリミットが近付いている。もうすぐこの幸せなひと時が終わってしまうのだ。
怖かった。とても怖くて、アイシャの前なのに泣きそうになった。
「さて……」
短くひとこと言い置いて、神龍が身じろぎした。びくりと体が震えたのが分かった。
「神龍っ」
大きな体を動かすことがとても億劫に見えた。
どこに行くのかと問うことはすでに出来なかった。神龍の行動をただ見守ることしか出来ない。
神龍はゆっくりと体を反転させた。
彼が終焉の地と定めた湖へ。
老いてもなお美しい神龍の巨躯がゆっくりと水面下に沈んでいく。
水界マナンティアールの誇る聖なる湖に透明化した鱗が光をはじいて輝く。
「……神龍」
光のまぶしさに涙がにじんだ。
気がつくと駆け出していた。何の迷いもなく、湖に飛び込む。
いくつもの気泡が浮かび上がっては消えていく。その先に、神龍の姿が見えた。その側に付き添うように、一人の男の姿が見て取れた。ファラ・ルーシャは目を見開いて、その人物を見た。
「……父上」
長い金色の髪が水の流れと同じように揺れる。痩身でありながら威風堂々とした水神が自ら神龍を導く。
一度も振り返ることなく、湖のさらに奥底へと沈んでいく神龍をファラ・ルーシャはただ見送ることしか出来ない。
『ファラ(水)・ルーシャ(照らす者)……小さな友よ。会えて嬉しかったよ』
届いた言葉は空耳だったのか。己の都合の良い夢だったのか。
否、確かに聞いた。
古き言葉で名を呼んでくれた。
それだけで胸がいっぱいになった。あふれ出すものをとめることができなくて、大きく息を吸ったとたん嗚咽がこぼれた。
ちいさな手が頬に触れる。
アイシャの優しくて温かなぬくもりが心地よかった。
今のファラ・ルーシャは始めて会ったときのアイシャよりも泣いていたかもしれない。でもその涙は真珠に変わることもなく、ただ周りの水と混じって溶けていくだけ。アイシャがじっと涙の行方を見つめているのが分かった。どうして真珠に変わらないのか不思議がっているようにも見えた。
アイシャが瞼を閉じて、祈るように両手を組み合わせる。彼女の眦から光るものが生まれて零れ落ちていく。
それは紛れもなく、真珠だった。
薄紅色の光沢を放つ小さな真珠をアイシャは差し出す。
「代わりに……」
ファラ・ルーシャは頷き、アイシャの手に添えるようにして、一緒に真珠を解き放った。
「あなたの眠りを妨げることがないように……この真珠があなたの守護となりますように……」
水界を統べる水神の後継者として、この湖の奥底にいる友の眠りが永久に脅かされることがないように、全力を尽くすことを少年は強く心に誓った。
「さようなら、神龍……どうか、安らかに」
一粒の真珠は神龍の後を追うように、たゆたいながら沈んでいった。
終
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