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永遠の光・前編
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これは夢だ。
そう思うのだけれど、怖くて身動き一つできなかった。
声を上げることもできなくて、ただ震えながら立ち尽くしているだけ。
空は黒い雲が厚く立ち込め、辺りは真っ暗だった。大粒の雨が容赦なく降り注いでくる。ずぶ濡れになりながらもシェーンはその場から動けずにいた。
荒れ狂う湖には、いつもの穏やかで美しい姿はどこにもなく、今にもシェーンを飲み込もうと大きくうねりを上げていた。
『早くそこから逃げて!』
『花園に帰ってきなさい!』
『いまならまだ間に合うから!』
光の向こう側からかつての友人たちが叫んでいる。だが、差し伸べる腕は遠く、薄く消えかかった光は危うい点滅を繰り返す。
差し伸べられた手にすがることもできず、シェーンは途方にくれる。
「フェルン!」
目の前のこの異様な光景が、どうしても信じられなかった。これではまるで湖が消滅する前の嵐のように見える。
花園へと続く扉がある場所には、それぞれ力場を固定させ安定させるために管理人が置かれる。その管理人であるフェルンがちゃんといるのに、どうして湖は制御を失っているのだろう。
「フェルン!!」
返事はない。
怪訝けげんに思い、振り返ってみると、さっきまですぐそばにいたはずのフェルンの姿がなかった。
「どうして……?」
不安が一気に押し寄せてくる。
世界にたった一人取り残されたような孤独と恐怖にシェーンは立ち尽くす。
「シェーン」
静かだがはっきりとした声が届く。聞きなれた低い声。
フェルンだ。
その声の出所を探して、シェーンは急いで辺りを見渡す。
湖の中央、湖面に浮かび上がるようにフェルンが立っているのを見つけた。ほっとしたのもつかの間、荒れ狂う波に彼がいつ飲まれてしまうかと気が気でなかった。
フェルンを包む青い光が、暗い湖の中で一際美しく、彼の姿を浮かび上がらせている。湖の突然の異変を収めるために力を尽くしている彼を置いて逃げることなどできない。
たとえ何の力になれなくても、彼のそばを離れるつもりはなかった。
しかし、彼の静かな言葉がシェーンを打ちのめす。
「シェーン、逃げろ。湖は失われる」
有り得ないほどの大津波がフェルンを飲み込む。最後の瞬間までシェーンを見つめる、フェルンの静かな瞳が目に焼きついて離れない。
シェーンの悲鳴が湖に響き渡った。
「……っ!」
自分の上げた悲鳴に驚いて、シェーンは飛び起きた。心臓が早鐘を打っている。体中が汗でびっしょり濡れていた。夢だと悟るのにそれほど時間はかからなかったが、喪失感と恐怖の感覚は夢であるのにひどく生々しく、体中に纏わりついてくるようで、吐き気すら覚えた。
屋敷はまだ寝静まっていて、物音ひとつしない。実際に声は出していなかったらしい。
シェーンはその静寂にいくらかほっとして、息をゆっくりと整えた。
窓の外を見ると、空はうっすらと明るみだしている。もしかしたらフェルンはすでに湖へ見回りに行ったのかもしれない。
シェーンは起き上がって、窓から湖を覗いてみた。湖はいつもと変わりなく、穏やかで静かだった。
「嫌な、夢……」
からからに渇いたのどに声が引っかかって、さらに嫌な気分になった。
どうしてあんな夢を見なければいけなかったのだろう。
管理人であるフェルンがいるのに、湖に異変が起こるなんてありえない。
ありえないのに不安は消えてくれない。
夢の中での彼の言葉が木霊のように響いている。
湖が失われる、と。
それが何を示すのか考えるだけでも恐ろしい。いてもたってもいられなくなって、シェーンは部屋を飛び出した。
静かな湖畔に人の気配はなく、相変わらずひっそりとしていた。
澄んだ水の美しさと穏やかさに癒されて、普段なら心は落ち着いていくのに、今日ばかりはその静けさが逆に不安を掻き立てる。
「フェルン!」
前方を歩く背の高い黒髪の青年を視界に捉えた。
呼びかけて駆け出す。
フェルンは怪訝けげんそうな顔でこちらを振り返った。
「どうした、シェーン?」
本当はそのまま駆け寄って抱きつきたかったのだが、フェルンの青い瞳に静かに見つめられて、今まで抱いていた不安がなんだかとても子供じみたものに思えてきて、できなくなってしまった。
行き場を失った手をフェルンの外套へと伸ばして、ぎゅっと握る。
「あ、あのね……ちょっと、怖い夢を見て……それで……」
「夢?」
「うん……すごく怖くて目が覚めて……」
「どんな夢だ?」
びくりと手が震えた。
「えっと……忘れちゃった」
シェーンは笑顔を作ってそう言った。本当は忘れてはいない。忘れられない。けれど口にするのは躊躇われた。
こうやって、毎日欠かさずフェルンは湖を見守っている。穏やかで美しい湖はそのままフェルンの心を映しているようで、シェーンは湖を眺めるのが好きだった。その湖があれほどまでに荒れて失われてしまうなど考えたくもない。世界の中心である花園へと通じる扉がこの湖にあり、湖を守るフェルンには、その扉を守る役目も担っている。扉の守護者は、永遠の命を持ち、扉とともに長い時を過ごす。扉が失われるときは、湖が失われるときであり、そしてそれは、守護者であるフェルンの命も失われるときなのだ。
「シェーン……」
呆れたようにため息をつきながらフェルンは肩をすくめる。
「でも、本当に怖かったの」
「幼い子供でもあるまいに」
笑いを含んだ声に顔を上げると、穏やかにフェルンが微笑んでいた。いつのころからか、こんな風に笑うようになったし、柔らかな物言いをしてくれるようになった。
出会った当初は感情の起伏すらないのではないかと思えるほどの無表情と冷ややかな口調で取り付く島もないほどだったのに。そのころを思い出すと今現在のフェルンの変わり様に感動さえしてしまう。
「子どもでも大人でも怖い夢をみたら、怖いって思うの、当然でしょ……っくしゅ」
びっと指を突き立てて力説しようとしたところでくしゃみが出た。そういえば、起きてそのまま飛び出してきたのだと思い出した。フェルンも呆れ顔でそっと視線を外す。
「そんな格好で外に出るからだ」
「だって」
さすがに薄着で飛び出してきたので冷えたらしい。鳥肌のたった腕を擦っていると、ふわりと温かい上着が掛けられた。フェルンが自分の外套を貸してくれたのだ。
「着ていろ、風邪を引く」
「ありがとう。でもこれじゃあフェルンが寒いでしょう?」
「私はいい」
フェルンは横を向いたまま、そっけなく答える。
「それってやせ我慢って言わない?」
「……言わぬ」
「だって寒いよ?」
フェルンは答えず、すたすたと歩き出してしまう。背中が怒っているような気がして、慌てて追いかけて、横に並んだ。
「じゃあ、二人で着ようか」
ぎょっとしてフェルンは立ち止まった。疲れ果てたように額に手をやり、大仰にため息をつく。かと思うと、突然のどを鳴らして笑った。
「まったく、お前はビックリ箱のようだな」
「ビックリ箱って?」
「子供のおもちゃだ。何が出てくるか分からない」
シェーンはそのおもちゃを見たことはなかったが、なんとなく想像がついた。フェルンも子供のころ、そのおもちゃで遊んだのだろうか。あまり感情を表に出さないフェルンだが、子供のころはどうだったのだろう。
「フェルンもそれで遊んだの?」
「……いや、私ではなく、友人の子が……」
フェルンは言いかけて、何かに気がついたように背後を振り返った。その視線の先をシェーンも追いかける。すると、水辺に人影が小さく見て取れた。その人物はぼんやりと湖を眺めているようで、シェーンたちに気づいた様子はない。まだ若く、フェルンと同じくらいに見える。短い金髪はクセが強く、あっちこっちにはねている。細身でひょろりとした青年のようだ。
「あれは……」
フェルンは絶句して、自らの手を見る。そこに現れる水晶はない。それはまだ青年が湖に入っていないことを示す。フェルンが安堵したのが、横にいたシェーンにも伝わってきた。
「ヴィント!」
大きな声を出さなくてもフェルンの声はよく通り、響く。その呼びかけは確かに青年に届いたようで、ヴィントと呼ばれた青年はフェルンの姿を認めると破顔した。
「よう、久しぶり」
大きな青い瞳がくるくると動き、表情を変える。
シェーンは青年と会うのは初めてだったが、ヴィントという名には聞き覚えがあった。彼もまた扉の守護者であり、風の峡谷の管理人なのだ。花園はある意味閉鎖された空間であるから、外界との接点である扉の守護者たちは花園の住人たち主にシェーンのような若い娘たちにとってアイドルさながら、格好の興味の対象でもある。
シェーンもここに来る前はそんな風に、無邪気にはしゃいでいたものだった。当然、彼の話題も出たし、フェルンの話題も出ていた。
「元気そうだな」
「お前もな」
ヴィントは苦笑で答える。
「どうしたんだ、いったい?」
「ああ、そりゃあ当然、お前の顔を見に来たんだよ」
フェルンが怪訝そうに眉をひそめる。
「お前が花園の花を連れてきたって聞いたからさ。ようやくお前もその気になったのかと思ってさ、ちょいとその顔を拝みに……」
肘でフェルンを小突きながら、ヴィントはシェーンに向けてにやりと笑った。親しみのこもった笑顔に悪意はない。興味深くシェーンを見る目は軽めの態度とは違って真摯だ。花園の花というのがシェーンのことであると察したフェルンの頬にかすかな赤みがさす。
「別に私が連れてきたわけではない」
ふいと横を向いて、ヴィントの肘を払いのける。それにもめげず、ヴィントは強引にフェルンの頭を抱えるように腕を回した。されるがままのフェルンの顔は迷惑そうでもあり、しかしそれほど嫌がっているようにも見えなかった。
「あーあ、照れちゃって、まあ。かわいいねぇ、こいつは」
ぐりぐりとフェルンの頭を小突き回しているヴィントはすごく嬉しそうで楽しそうだ。
「なあ、もったいぶる気持ちもわかるけどさ、俺には紹介もしてくれないわけ?」
「いつ、そんな暇があった?」
不機嫌を露にしてフェルンはヴィントの腕を振り解くと軽く睨み付けた。
ヴィントは悪びれずに笑って一歩下がる。二人の意外なほどの仲の良さにシェーンはあっけにとられていた。極まり悪げにシェーンを窺い見るフェルンをはじめて見た気がした。
「シェーン、こちらは私の友人で、峡谷の管理をしているヴィントだ」
「訂正、訂正。友人じゃなくて、フェルンの親友も親友、大親友のヴィントって覚えてくれ!」
なんとも調子のいい人物だ。シェーンはくすくすと笑いながら、差し出されたヴィントの手を握り返す。
「ヴィントさん、ようこそ、湖へ。シェーンです」
「あー、ヴィントで結構。堅苦しいのはナシで」
満面の笑みを浮かべているヴィントとは対照的にフェルンの表情は浮かない。何かに対して緊張しているようにも見えた。
「ヴィント、そろそろ良いだろう」
「相変わらず気が短いな」
「お前ほどではない」
「ごもっとも」
目を伏せたまま肩をすくめるヴィントは飄々とした態度を崩しはしなかったが、どこか深いところで張り詰めた糸のような緊張を感じさせた。
「そろそろ本題に、てね」
扉の守護者が管理する力場から離れることはない。召喚されて花園へ赴くときか、世界各地の扉がある場所しか行くことはない。しかしそれさえも滅多にあることではない。何かあったことは容易に想像できる。
ヴィントは伏せていた目を上げた。綺麗な青い瞳がまっすぐにフェルンに向けられた。
いままで散々迷ったのだろう。わずかに残った躊躇いも打ち消して、はっきりと言葉にした。
「花園に異変が起こっている」
ヴィントの言葉にフェルンは眉をひそめたが何も言わなかった。
シェーンの脳裏に、はっきりと今朝見た夢の映像が浮かび上がった。
シェーンも言葉を失って、ただフェルンの気難しい横顔を見上げていた。
「花園に異変ってどんな?」
暖炉の前に座って寛ぐヴィントにお茶を煎れながらシェーンは尋ねた。
「詳しいことは分からないんだ。だけど、世界各地にある扉のポイントでありえないことが起こっている」
どきりとシェーンの心臓が跳ね上がった。
「ここはまだ大丈夫のようだが、ウチも凪ぎと嵐が両方来た」
ソファーに身を沈めているフェルンは厳しい表情で床の絨毯を見つめている。絨毯の柄を見ているわけではないと分かっているのだが、あまりにも凝視しているのでそこに何かあるのかと勘ぐってしまいそうだ。
「管理人がいても、か」
もともと扉があるポイントは力場が不安定で、さまざまな弊害が起こりやすい。人によっては幻覚を見たりすることもあるらしい。地震や嵐なども頻繁ひんぱんに起こると聞く。扉を開くには花園との道を固定しなければならず、管理人は力場を安定させ、花園と人の世界を結ぶ中継となっているのだ。
シェーンが見た夢もまさしく異変そのもので、フェルンがそこにいるのに湖は荒れ狂い、力場は制御を失っていた。
自分に予知夢の能力などないはずだ。そう言い聞かせてみるのだが、あまりにも夢の内容と一致する現状に不安ばかりが募っていく。
「こちらには何の変化もないが……」
湖は穏やかで安定している。扉もまだ開かれている。異変が起こる要素は見当たらない。ここは、まだ、ということなのだろう。
花園で何かが起こっている。その余波でこちらの世界を揺るがすほどの何かが。
「まず、何が起きる?」
先ほど風の峡谷には凪ぎと嵐が来たとヴィントは言った。前触れが何かあったのかもしれない。それを知っていてヴィントは警告に来てくれたのだろう。けれど、管理人のヴィントがいても異変を食い止められなかったのなら、先に知ることが何の意味を持つのだろう。夢を見たことが異変への警告ならば、管理人であるフェルンに夢の内容を伝えなければならない。けれど、シェーンは言えずにいる。
あんなことがあるはずがない。フェルンが湖に飲み込まれてしまうなんて考えたくもない。だって、ヴィントは峡谷に異変が起きても、無事にここにいる。だから、きっと大丈夫。あれはただの夢なのだ、と。
「まず?」
ヴィントは問い返しながら、何故か自嘲気味に笑った。
「何もない。突然だ」
窓の外をカッと稲光が走る。
屋敷中の明かりがいっせいに落ち、辺りは夜のように暗くなった。
そう思うのだけれど、怖くて身動き一つできなかった。
声を上げることもできなくて、ただ震えながら立ち尽くしているだけ。
空は黒い雲が厚く立ち込め、辺りは真っ暗だった。大粒の雨が容赦なく降り注いでくる。ずぶ濡れになりながらもシェーンはその場から動けずにいた。
荒れ狂う湖には、いつもの穏やかで美しい姿はどこにもなく、今にもシェーンを飲み込もうと大きくうねりを上げていた。
『早くそこから逃げて!』
『花園に帰ってきなさい!』
『いまならまだ間に合うから!』
光の向こう側からかつての友人たちが叫んでいる。だが、差し伸べる腕は遠く、薄く消えかかった光は危うい点滅を繰り返す。
差し伸べられた手にすがることもできず、シェーンは途方にくれる。
「フェルン!」
目の前のこの異様な光景が、どうしても信じられなかった。これではまるで湖が消滅する前の嵐のように見える。
花園へと続く扉がある場所には、それぞれ力場を固定させ安定させるために管理人が置かれる。その管理人であるフェルンがちゃんといるのに、どうして湖は制御を失っているのだろう。
「フェルン!!」
返事はない。
怪訝けげんに思い、振り返ってみると、さっきまですぐそばにいたはずのフェルンの姿がなかった。
「どうして……?」
不安が一気に押し寄せてくる。
世界にたった一人取り残されたような孤独と恐怖にシェーンは立ち尽くす。
「シェーン」
静かだがはっきりとした声が届く。聞きなれた低い声。
フェルンだ。
その声の出所を探して、シェーンは急いで辺りを見渡す。
湖の中央、湖面に浮かび上がるようにフェルンが立っているのを見つけた。ほっとしたのもつかの間、荒れ狂う波に彼がいつ飲まれてしまうかと気が気でなかった。
フェルンを包む青い光が、暗い湖の中で一際美しく、彼の姿を浮かび上がらせている。湖の突然の異変を収めるために力を尽くしている彼を置いて逃げることなどできない。
たとえ何の力になれなくても、彼のそばを離れるつもりはなかった。
しかし、彼の静かな言葉がシェーンを打ちのめす。
「シェーン、逃げろ。湖は失われる」
有り得ないほどの大津波がフェルンを飲み込む。最後の瞬間までシェーンを見つめる、フェルンの静かな瞳が目に焼きついて離れない。
シェーンの悲鳴が湖に響き渡った。
「……っ!」
自分の上げた悲鳴に驚いて、シェーンは飛び起きた。心臓が早鐘を打っている。体中が汗でびっしょり濡れていた。夢だと悟るのにそれほど時間はかからなかったが、喪失感と恐怖の感覚は夢であるのにひどく生々しく、体中に纏わりついてくるようで、吐き気すら覚えた。
屋敷はまだ寝静まっていて、物音ひとつしない。実際に声は出していなかったらしい。
シェーンはその静寂にいくらかほっとして、息をゆっくりと整えた。
窓の外を見ると、空はうっすらと明るみだしている。もしかしたらフェルンはすでに湖へ見回りに行ったのかもしれない。
シェーンは起き上がって、窓から湖を覗いてみた。湖はいつもと変わりなく、穏やかで静かだった。
「嫌な、夢……」
からからに渇いたのどに声が引っかかって、さらに嫌な気分になった。
どうしてあんな夢を見なければいけなかったのだろう。
管理人であるフェルンがいるのに、湖に異変が起こるなんてありえない。
ありえないのに不安は消えてくれない。
夢の中での彼の言葉が木霊のように響いている。
湖が失われる、と。
それが何を示すのか考えるだけでも恐ろしい。いてもたってもいられなくなって、シェーンは部屋を飛び出した。
静かな湖畔に人の気配はなく、相変わらずひっそりとしていた。
澄んだ水の美しさと穏やかさに癒されて、普段なら心は落ち着いていくのに、今日ばかりはその静けさが逆に不安を掻き立てる。
「フェルン!」
前方を歩く背の高い黒髪の青年を視界に捉えた。
呼びかけて駆け出す。
フェルンは怪訝けげんそうな顔でこちらを振り返った。
「どうした、シェーン?」
本当はそのまま駆け寄って抱きつきたかったのだが、フェルンの青い瞳に静かに見つめられて、今まで抱いていた不安がなんだかとても子供じみたものに思えてきて、できなくなってしまった。
行き場を失った手をフェルンの外套へと伸ばして、ぎゅっと握る。
「あ、あのね……ちょっと、怖い夢を見て……それで……」
「夢?」
「うん……すごく怖くて目が覚めて……」
「どんな夢だ?」
びくりと手が震えた。
「えっと……忘れちゃった」
シェーンは笑顔を作ってそう言った。本当は忘れてはいない。忘れられない。けれど口にするのは躊躇われた。
こうやって、毎日欠かさずフェルンは湖を見守っている。穏やかで美しい湖はそのままフェルンの心を映しているようで、シェーンは湖を眺めるのが好きだった。その湖があれほどまでに荒れて失われてしまうなど考えたくもない。世界の中心である花園へと通じる扉がこの湖にあり、湖を守るフェルンには、その扉を守る役目も担っている。扉の守護者は、永遠の命を持ち、扉とともに長い時を過ごす。扉が失われるときは、湖が失われるときであり、そしてそれは、守護者であるフェルンの命も失われるときなのだ。
「シェーン……」
呆れたようにため息をつきながらフェルンは肩をすくめる。
「でも、本当に怖かったの」
「幼い子供でもあるまいに」
笑いを含んだ声に顔を上げると、穏やかにフェルンが微笑んでいた。いつのころからか、こんな風に笑うようになったし、柔らかな物言いをしてくれるようになった。
出会った当初は感情の起伏すらないのではないかと思えるほどの無表情と冷ややかな口調で取り付く島もないほどだったのに。そのころを思い出すと今現在のフェルンの変わり様に感動さえしてしまう。
「子どもでも大人でも怖い夢をみたら、怖いって思うの、当然でしょ……っくしゅ」
びっと指を突き立てて力説しようとしたところでくしゃみが出た。そういえば、起きてそのまま飛び出してきたのだと思い出した。フェルンも呆れ顔でそっと視線を外す。
「そんな格好で外に出るからだ」
「だって」
さすがに薄着で飛び出してきたので冷えたらしい。鳥肌のたった腕を擦っていると、ふわりと温かい上着が掛けられた。フェルンが自分の外套を貸してくれたのだ。
「着ていろ、風邪を引く」
「ありがとう。でもこれじゃあフェルンが寒いでしょう?」
「私はいい」
フェルンは横を向いたまま、そっけなく答える。
「それってやせ我慢って言わない?」
「……言わぬ」
「だって寒いよ?」
フェルンは答えず、すたすたと歩き出してしまう。背中が怒っているような気がして、慌てて追いかけて、横に並んだ。
「じゃあ、二人で着ようか」
ぎょっとしてフェルンは立ち止まった。疲れ果てたように額に手をやり、大仰にため息をつく。かと思うと、突然のどを鳴らして笑った。
「まったく、お前はビックリ箱のようだな」
「ビックリ箱って?」
「子供のおもちゃだ。何が出てくるか分からない」
シェーンはそのおもちゃを見たことはなかったが、なんとなく想像がついた。フェルンも子供のころ、そのおもちゃで遊んだのだろうか。あまり感情を表に出さないフェルンだが、子供のころはどうだったのだろう。
「フェルンもそれで遊んだの?」
「……いや、私ではなく、友人の子が……」
フェルンは言いかけて、何かに気がついたように背後を振り返った。その視線の先をシェーンも追いかける。すると、水辺に人影が小さく見て取れた。その人物はぼんやりと湖を眺めているようで、シェーンたちに気づいた様子はない。まだ若く、フェルンと同じくらいに見える。短い金髪はクセが強く、あっちこっちにはねている。細身でひょろりとした青年のようだ。
「あれは……」
フェルンは絶句して、自らの手を見る。そこに現れる水晶はない。それはまだ青年が湖に入っていないことを示す。フェルンが安堵したのが、横にいたシェーンにも伝わってきた。
「ヴィント!」
大きな声を出さなくてもフェルンの声はよく通り、響く。その呼びかけは確かに青年に届いたようで、ヴィントと呼ばれた青年はフェルンの姿を認めると破顔した。
「よう、久しぶり」
大きな青い瞳がくるくると動き、表情を変える。
シェーンは青年と会うのは初めてだったが、ヴィントという名には聞き覚えがあった。彼もまた扉の守護者であり、風の峡谷の管理人なのだ。花園はある意味閉鎖された空間であるから、外界との接点である扉の守護者たちは花園の住人たち主にシェーンのような若い娘たちにとってアイドルさながら、格好の興味の対象でもある。
シェーンもここに来る前はそんな風に、無邪気にはしゃいでいたものだった。当然、彼の話題も出たし、フェルンの話題も出ていた。
「元気そうだな」
「お前もな」
ヴィントは苦笑で答える。
「どうしたんだ、いったい?」
「ああ、そりゃあ当然、お前の顔を見に来たんだよ」
フェルンが怪訝そうに眉をひそめる。
「お前が花園の花を連れてきたって聞いたからさ。ようやくお前もその気になったのかと思ってさ、ちょいとその顔を拝みに……」
肘でフェルンを小突きながら、ヴィントはシェーンに向けてにやりと笑った。親しみのこもった笑顔に悪意はない。興味深くシェーンを見る目は軽めの態度とは違って真摯だ。花園の花というのがシェーンのことであると察したフェルンの頬にかすかな赤みがさす。
「別に私が連れてきたわけではない」
ふいと横を向いて、ヴィントの肘を払いのける。それにもめげず、ヴィントは強引にフェルンの頭を抱えるように腕を回した。されるがままのフェルンの顔は迷惑そうでもあり、しかしそれほど嫌がっているようにも見えなかった。
「あーあ、照れちゃって、まあ。かわいいねぇ、こいつは」
ぐりぐりとフェルンの頭を小突き回しているヴィントはすごく嬉しそうで楽しそうだ。
「なあ、もったいぶる気持ちもわかるけどさ、俺には紹介もしてくれないわけ?」
「いつ、そんな暇があった?」
不機嫌を露にしてフェルンはヴィントの腕を振り解くと軽く睨み付けた。
ヴィントは悪びれずに笑って一歩下がる。二人の意外なほどの仲の良さにシェーンはあっけにとられていた。極まり悪げにシェーンを窺い見るフェルンをはじめて見た気がした。
「シェーン、こちらは私の友人で、峡谷の管理をしているヴィントだ」
「訂正、訂正。友人じゃなくて、フェルンの親友も親友、大親友のヴィントって覚えてくれ!」
なんとも調子のいい人物だ。シェーンはくすくすと笑いながら、差し出されたヴィントの手を握り返す。
「ヴィントさん、ようこそ、湖へ。シェーンです」
「あー、ヴィントで結構。堅苦しいのはナシで」
満面の笑みを浮かべているヴィントとは対照的にフェルンの表情は浮かない。何かに対して緊張しているようにも見えた。
「ヴィント、そろそろ良いだろう」
「相変わらず気が短いな」
「お前ほどではない」
「ごもっとも」
目を伏せたまま肩をすくめるヴィントは飄々とした態度を崩しはしなかったが、どこか深いところで張り詰めた糸のような緊張を感じさせた。
「そろそろ本題に、てね」
扉の守護者が管理する力場から離れることはない。召喚されて花園へ赴くときか、世界各地の扉がある場所しか行くことはない。しかしそれさえも滅多にあることではない。何かあったことは容易に想像できる。
ヴィントは伏せていた目を上げた。綺麗な青い瞳がまっすぐにフェルンに向けられた。
いままで散々迷ったのだろう。わずかに残った躊躇いも打ち消して、はっきりと言葉にした。
「花園に異変が起こっている」
ヴィントの言葉にフェルンは眉をひそめたが何も言わなかった。
シェーンの脳裏に、はっきりと今朝見た夢の映像が浮かび上がった。
シェーンも言葉を失って、ただフェルンの気難しい横顔を見上げていた。
「花園に異変ってどんな?」
暖炉の前に座って寛ぐヴィントにお茶を煎れながらシェーンは尋ねた。
「詳しいことは分からないんだ。だけど、世界各地にある扉のポイントでありえないことが起こっている」
どきりとシェーンの心臓が跳ね上がった。
「ここはまだ大丈夫のようだが、ウチも凪ぎと嵐が両方来た」
ソファーに身を沈めているフェルンは厳しい表情で床の絨毯を見つめている。絨毯の柄を見ているわけではないと分かっているのだが、あまりにも凝視しているのでそこに何かあるのかと勘ぐってしまいそうだ。
「管理人がいても、か」
もともと扉があるポイントは力場が不安定で、さまざまな弊害が起こりやすい。人によっては幻覚を見たりすることもあるらしい。地震や嵐なども頻繁ひんぱんに起こると聞く。扉を開くには花園との道を固定しなければならず、管理人は力場を安定させ、花園と人の世界を結ぶ中継となっているのだ。
シェーンが見た夢もまさしく異変そのもので、フェルンがそこにいるのに湖は荒れ狂い、力場は制御を失っていた。
自分に予知夢の能力などないはずだ。そう言い聞かせてみるのだが、あまりにも夢の内容と一致する現状に不安ばかりが募っていく。
「こちらには何の変化もないが……」
湖は穏やかで安定している。扉もまだ開かれている。異変が起こる要素は見当たらない。ここは、まだ、ということなのだろう。
花園で何かが起こっている。その余波でこちらの世界を揺るがすほどの何かが。
「まず、何が起きる?」
先ほど風の峡谷には凪ぎと嵐が来たとヴィントは言った。前触れが何かあったのかもしれない。それを知っていてヴィントは警告に来てくれたのだろう。けれど、管理人のヴィントがいても異変を食い止められなかったのなら、先に知ることが何の意味を持つのだろう。夢を見たことが異変への警告ならば、管理人であるフェルンに夢の内容を伝えなければならない。けれど、シェーンは言えずにいる。
あんなことがあるはずがない。フェルンが湖に飲み込まれてしまうなんて考えたくもない。だって、ヴィントは峡谷に異変が起きても、無事にここにいる。だから、きっと大丈夫。あれはただの夢なのだ、と。
「まず?」
ヴィントは問い返しながら、何故か自嘲気味に笑った。
「何もない。突然だ」
窓の外をカッと稲光が走る。
屋敷中の明かりがいっせいに落ち、辺りは夜のように暗くなった。
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そんな中で、国王肝入りで魔術研究チームが組まれる事になったのだとか。そしてその編成されたチームメイトの中に、夫の別れた元妻がいて………
相も変わらずご都合主義、ノーリアリティなお話です。
不治の誤字脱字病患者の作品です。
作中に誤字脱字が有ったら「こうかな?」と脳内変換を余儀なくさせられる恐れが多々ある事をご了承下さいませ。
性描写はありませんがそれを連想させるワードが出てくる恐れがありますので、破廉恥がお嫌いな方はご自衛下さい。
小説家になろうさんでも投稿します。
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