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第一部 水の精霊王
第三話 水鏡
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その日、泉は夢を見た。
遠く懐かしい過去の夢を。
アクアマリンに彩られた美しく澄んだ水の世界。どこまでも静かで、どこまでも穏やかな美しい故郷。
麗しい水神が治める水界の名は、マナン・ティアール。
壁からさわさわと水が流れ落ち、水路を巡る涼やかな音が心地よく響く小さな部屋に彼女はいた。
部屋の中心には花の意匠の美しい石台が一つ置かれている。
その上には大きな石の器があり、なみなみと水が張ってあった。ただの水ではない。中に光源はないのに、ぼんやりと光を灯す。
聖水と呼ばれるこの水は、誰かが汲んできているわけでもなく、器にこんこんと湧き出てくる。
枯れることもなく、また溢れることもない。
長妃がそっと水面に映る己の姿を覗き込む。
まるで主の心を現しているかのように、頼りなく揺れる。
そっと手を触れれば、幾重にも生まれる波紋。
かき消えるのは、己の不安そうな顔だ。
外が騒がしくなって、アイシャの侍女が慌てて部屋に入ってきた。
「ああ、こちらにおいででしたか」
「マーシャ?」
アイシャはゆっくりと顔を上げて、侍女を振り返る。その後ろに数人の部下を引き連れて入ってきた水神の姿に驚く。マーシャはいそいそと後ろに下がって、頭を下げた。
「ファラ・ルーシャ」
「支度は済んだと聞いて半刻、なかなかお出ましにならないから迎えに来た。そろそろ出なければ間に合わなくなる」
「あ、はい。申し訳ありません」
美しく着飾った妻の姿を満足そうに微笑み、ファラ・ルーシャは手を差し伸べる。
アイシャが聖水を見るのはいつものことで、王は不思議にも思わない。
「今日は何を見ていたんだい?」
優しく柔らかな口調で尋ねてくるので、アイシャはどう答えようか悩んでしまった。
「…わたくし…」
朝から一生懸命支度をしてくれた侍女たちの努力を無下にする気はない。美しく、失礼のないように身なりを整えるのは義務でもある。だが、今日、これからお会いするのは至高の存在なのだ。少しでも欠けがあってはならない。
ファラ・ルーシャは白を基調として、長衣にベストを重ねている。綾織の青い肩掛けはアイシャとお揃いであつらえたものだ。華美な宝飾品は控えているが、肩掛けを留める大きなアクアマリンと真珠のブローチが彼の優美な姿をさらに引き立てていた。
「どうしようもなく、緊張してしまって…」
アイシャは俯きながら、震える手をさする。指先が冷え切ってしまってよく動かせないのだ。そんなアイシャの手を包み込むようにして握り、ファラ・ルーシャは細い指先にそっと口づけする。
「何も問題はないよ。今日もとても美しい。濃い青も似合っている」
「まぁ…」
普段淡い色をばかり着ていたアイシャだったから、濃い色も似合うと言われて驚いた。自分の持つ色ではこの濃い色は負けてしまうと思っていたのに。
「瞳の色によく合う。あつらえて正解だったな」
後ろで静かに控えていたマーシャが力強く同意し頷いている。
「何でもお似合いになるファラ・ルーシャが羨ましいです」
「君の話をしていたのに」
アイシャが小首をかしげると、ファラ・ルーシャはくすくすと笑いを漏らした。
「さあ、拗ねていないで。出発しよう。アイシャは至高界は初めてだったね」
「はい、だから緊張しているのです」
「大丈夫だ。とても美しい場所だから、きっと君も気に入るはずだ」
そう言ってファラ・ルーシャは柔らかく笑う。
場所ではなく、これから会わなくてはならない方を思うと緊張するのだと、ファラ・ルーシャは分かっていないようだった。アイシャはそっと息を吐く。
水神の妻として、初めて女神にお目通りするのだ。
どれだけ緊張しても、し足りない。
足が震える。
ファラ・ルーシャに手を引かれながら、アイシャは歩を進める。
眩しいばかりの美しい世界へ。
はっと目が覚めた。
外はもう明るく、カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいる。
「…あぁ…」
今朝もまた鮮明な夢を見てしまったようだ。
ファラ・ルーシャとの結婚の報告をしに至高界へ訪れるときだったと思う。
緊張して、緊張して仕方がなかった。
失敗などしませんように、と不安から水鏡で占おうかと思っていたように思う。
だが、水占いでなにかよくない兆しが出てしまうのも嫌で、自分のひきつった顔を眺めていただけだった気がする。
結局、あの後は美しい至高界に圧倒されて、夢見心地で失敗も何もなかったけれど。
女神にお会いしたあの時の衝撃をはっきりと思い出すことができる。
世界樹に抱かれて生まれ、神龍の守護の元、至高界にただ一人住んでいる有翼の女神。
美しく輝く金の髪。瞳の色は世界樹と同じ深い緑。
この世界のありとあらゆる美を集め凝縮させたような麗しき乙女。
まだ大人になりきらない少女の体で、すでに成熟した深みのある慈愛に満ちた微笑みをたたえる。
そのアンバランスさも魅力の一つなのか。雄大かつ美しい至高界の自然に守られた命の乙女。
目の前に存在するのは唯一無二なのだと理解した。
だからこそ。
「世界樹が、枯れている…」
その言葉を紡いだ時、血の気が引いた。
永遠の命を象徴する世界樹。天と地を支え、世界を形作る。
この世界の根幹。
だからこそ世界樹が枯れることなんてあってはならない。
あの美しい世界が失われるなんて、ありえないことだった。
どうしてそんな映像が見えたのか分からない。淳も信じられないくらい血の気が引いていた。
無意識に、淳から誕生日プレゼントとしてもらった胸元のネックレスを引き上げ、雫型のアクアマリンを握り締める。
心臓が不安で早鐘を打つ。
夢の景色で見た通り、記憶にある至高界はとても美しく、その中でも世界樹は女神同様、神聖不可侵の場所とされていた。
出入りできるのは四神たちだけ。その妻である長妃ですら、召喚されなくては立ち入ることができない。
ただ一人の女神を護るための場所だからだ。
その世界樹が枯れるだなんてことがもし本当なら、この世界までもが崩壊してしまうかもしれない。
泉は自らの体をかき抱いた。
怖い。
水界が滅ぶ瞬間を覚えている。身を引き裂き、凍えるほどの恐怖を忘れることができない。
また、同じことが起こるのか。
「ファラ・ルーシャ…っ…淳くん…淳くん」
怖い。助けて。
「たすけ…て…」
泉は震えながら体を丸めて布団の中に潜り込んで呻く。
その時、枕元に置いてあったスマートフォンが震えて、泉の手元に滑り込んできた。
画面に表示されているのは、呼び続けた彼の名だった。
試験を終えて、教室を出た泉はそのまま昇降口へと向かった。
日直当番の仕事を終えてから来ると約束をしていた淳を待つためである。
試験期間は短縮日課のため、午前中で学校はおしまい。
どこかでお昼を済ませてから、試験お疲れ様デートの予定だ。
今朝は動揺しまくっていた泉だったが、あの後、淳の声を聞いて落ち着いた。
あんなにいいタイミングで電話をくれたのは奇跡だと思った。
夢の話を少しだけして、そこから世界樹の異変に言及した後、今日の約束をしたのだ。
教室でも気を配ってくれたけれど、試験中なのに申し訳なかったなと思ってしまう。
泉自身、よく試験を受けられたと思う。結果はもう考えないことにした。終わってしまったことは仕方がないのだ。五十番以内が目標は二学期でがんばるしかない。
三年生の下駄箱で知った顔を見つけ、泉は立ち止まる。
クラスメイトと何やら楽し気に話しているのは拓海だった。
つい先日、ファルーク将軍だと挨拶されたばかりだ。三年の名札を付けていたし、そう名乗ったから当たり前なのだが、本当に学校で会うとは思わなかった。
彼の前世を認識した瞬間、言い知れぬ恐怖に陥った。動揺してパニックを起こしてしまった泉を優しく介抱してくれたのは淳だ。あの時、彼の背後に見えた戦の気配を否応なしに感じてしまい、心が悲鳴を上げ、拒絶した。
おそらく、拓海は感じ取ったのだろうと思う。だからあっさりと姿を消したのだ。残ったのは罪悪感だ。
こんなに普通の、日常の景色の中に、拓海もまたちゃんと存在している。
ズキンと胸が痛かった。
泉に気が付いた拓海がクラスメイトとの話を切り上げ、明るい笑顔で手を上げて近付いてきた。
「泉ちゃんじゃん」
人懐っこい笑顔で、気さくに声をかけられた泉はびっくりしたまま固まってしまった。
「淳と待ち合わせ?」
「あ、うん…そうです」
前世がどうであれ、今は彼の方が先輩だ。言葉使いを直した泉に、拓海は面白そうに笑う。
「そんなに警戒しないでほしいな。学校では俺は清水拓海」
拓海先輩、さよなら~。
女生徒の声があっちこっちから聞こえてくる。
拓海は顔を上げ、声のする方に向かって手を振って応える。
屈託のない笑顔。どうやら人気のある先輩なのだと認識するのに時間はかからなかった。
呼び方に困ったが、みんなが呼んでいる「拓海先輩」がちょうどいいのかもしれないと泉は思った。
「あの…はい、じゃあ、拓海先輩って呼んでも…いいですか?」
「もちろん」
「本当に三年の先輩だったんだなぁってちょっとびっくりしてしまって…」
「ま、そりゃそうだなぁ」
「あ、あのこの間はごめんなさい。私…動揺しちゃって」
泉は俯いて、言いよどむ。なんて言葉にしていいのか分からなかった。
「いやいや、あれは俺がお邪魔虫だっただけで。こっちこそごめんな」
拓海はあっけらかんとしている。逆に謝られて、泉は居たたまれなくなってしまった。
泉の方が失礼なことをしたのに、拓海の方が悪者になってくれようとしている。
「突然割り込んだら、そりゃびっくりするよな。それに思い出したばかりだろ?」
重ねて言われて、それ以上言えなくなってしまう。
「そうですけど、でも…やっぱり、ごめんなさい」
「泉ちゃんは真面目だね。大丈夫。俺は怒られ慣れているから、俺のせいにしておきなさい」
「…どうして、拓海先輩のせいに?」
「あれ?淳から言われてない?不用意に近付くなって俺には怒ってきたけど」
「そ、そんなこと…」
確かにファルーク将軍の存在に引きずられてアイシャの感情が爆発してしまったけれど。
自分がもっと上手に整理できていれば良かった話だ。
「拓海先輩に近付くな、なんて言わなかった」
「ああ、そう。泉ちゃんから来てくれる分には良いってことね」
にやりといたずらっ子のような顔で拓海が笑う。後半は小声だったせいで、泉には聞こえなかった。
「あの、拓海先輩はいつ思い出したんですか?いとこ同士なら小さいころからずっと会っていたでしょ?」
「ああ、俺は結構早かったと思う。ガキの頃にすっと思い出して、淳を見て気が付いた。あ、王だ、って」
子供の頃に思い出したこともびっくりだが、そんなにすんなり受け止めたことにも驚く。
「あいつがいつ思い出したのかまでは知らないけど、俺がうっかり、王よって呼びかけたら、普通に名前呼んで返してきたからな。それが嬉しくて、そのまんま来てる。不遜の一言だけどな。前世では君主と臣下の関係だったが、今生はいとこ同士だからって許してくれたのはあいつなんだ。あいつは俺をファルークとして縛る気はないと言った。だから、俺はあいつに再び仕えることを決めたんだ」
拓海の真摯なまなざしは嘘偽りのない気持ちなのだと示している。
新しい生を与えられているのに、再び臣下として仕えることに抵抗があっても不思議はないと思う。でも拓海はだからこそ前世と同じように主君に仕える決意をしたというのか。それは何故だろう。泉は純粋に興味を持った。
「それは…どうして?」
拓海はびっくりしたように体を震わせ、静かに微笑んだ。十六、七歳の少年がする微笑みではない。深い情のこもった笑み。
「あなたと同じ理由だと思いますよ」
目の前にいるのは拓海のはずなのに、ファルークがいるような錯覚がした。
目をしばたつかせている泉に、拓海はほんの少し照れたように笑いながら、片眼を瞑って内緒のポーズを作る。
「内緒にしておいて」
今度は年相応の少年らしい悪戯な笑顔だ。
淳とは種類の違う端正な顔で、そんなお願いポーズは破壊力抜群だ。思わず泉は後ずさってしまった。
「そろそろ淳が来るから、この話はここでおしまい、な」
「え?」
泉は慌てて後ろを振り返る。階段を下りてくる淳と目が合った。
泉を見つけた淳がにこやかに微笑み、手を上げる。
「本当だ…あ、あれ?」
拓海の言った通り淳が姿を見せたことに驚いて振り返るが、さっきまでいたはずの拓海の姿は消えていた。
「え、えっ?」
きょろきょろ、辺りを見渡しても、どこにもいなかった。
淳が涼やかな笑顔で駆け寄ってくる。さわやかな清涼感のある風が吹いたような、そんな空気に一瞬にして包まれた。
「お待たせ。…どうしたの?」
「あ、あのね、拓海先輩と話していたんだけど…いなくなっちゃった」
少しだけ眉を顰め、淳は状況を把握したように頷いた。カバンを持ったまま腕を組んで、「ふむ」と鼻を鳴らす。
「拓海先輩ね。泉の中の壁が消えたなら、それはそれでいいけど…」
「え?」
声音に宿る硬質な何かを泉は敏感に感じ取って、淳を窺いみる。いつものにこやかな笑顔とは違う、ひきつった笑みを浮かべていて、思わず泉は身を引く。
麗しく目を細めて、泉に顔を近付けてささやく。それが妙に色っぽくて、泉はたじたじになってしまう。
「あんまり仲良くされると、僕はヤキモチを焼いてしまいそうだなぁ」
「ええぇ…」
言われていることはとても嬉しいと思うし、そんな心配はしないでほしいと思うのだが、なによりも女の自分よりも綺麗な流し目を決めるのはやめてほしかった。
「な、仲良くって…挨拶してちょっと話しただけだよ」
「うん、それでもね。やっぱり、嫌かな」
「そ、ソウデスカ…」
思わず片言になってしまったが、拓海先輩はファルーク将軍ではないか。ファラ・ルーシャの腹心なのに。
「ファルークは信用できる部下だけど、拓海は従兄だから」
泉の考えていることがわかったのか淳は憮然として答えるが、何が違うのだろうかと泉は首をかしげてしまう。
「まあ、そこは僕のこだわりだから、気にしないで」
じいっと淳を見上げていると少しだけ頬を赤くさせて淳は頭をかいた。
「あ、そうそう。さっき先生に聞いたんだけど、転入生がくるらしいよ」
あからさまに話題を変えた淳だったが、泉も転入生のワードにびっくりした。
「え?この時期に?」
「試験期間だからちょっとずれ込んだみたいだけど、夏休み直前の転入になるね」
「二学期から、にはならなかったのね」
「半月、宙ぶらりんになるよりはってことらしい」
「えっと、もしかして…」
「うん、帰国子女だね」
海外からの転入生かぁ。ほうっと泉は息を吐いた。
男子かな、女子かな?と妄想を膨らませていたら、淳がほっとした顔で見ていた。
「落ち着いたようで安心した。試験はどうだった?」
「う、うん。ありがとう。試験は、まあ、それなりに、なんとか。次回頑張る」
淳のように上位に食い込むことは無理だろうことははっきりしているが、朝のひどい精神状態で臨んだ試験にしてはまともだったはずだ。
「拓海にはあまり近付かないようにって言ったんだ」
淳はやっぱり泉の動揺が拓海にあると思っているのだ。それは違う気がして泉は首を振る。
「ねえ、それ。私が不安定なだけだから。拓海先輩に申し訳ないし」
「不安定だって認めるんだね。じゃあ原因となりうるものは排除したほうがいい」
「淳くん。同じ学校の先輩だよ。排除とかやめて」
むっと口を引き結んだ淳だったが、泉の次の一言で崩れ落ちた。
「私は、淳くんがいれば大丈夫だもの」
くっと言葉を飲みこんだのが分かった。真っ赤な顔を片手で覆うようにして、淳は顔を伏せる。
動揺してる。あんな顔、初めて見た!
泉は内心でガッツポーズした。いつもいつも言われてばかりで、動揺させられているのは泉の方で。いつかやり返したいと思っていたのだ。
「ちょ…ちょっと泉、反則すぎっ…」
「うん、だからね。淳くんには手伝ってほしいの。私、水鏡で世界樹を見てみたい」
真っ赤になって悶えていた淳の動きが止まった。
「水鏡なら覗けると思うの。いま、世界樹がどうなっているのか。本当にあの時見えた映像のように枯れ始めているのか。確かめたいの」
「でも水鏡は…失われて」
「新しく作るわ。綺麗な水のある所なら、きっと大丈夫」
「新しく…作れるのか?」
「分からないけど、やってみる。城にあったような大きなものは無理だけど、アイシャはいろんな水鏡を作っていたもの」
泉の提案に呆然としながらもしばらく何かを考えていた淳だったが、小さく息を吐きだすと頷いた。
「分かった。やってみよう」
泉は嬉しくなって手をたたいて喜んだ。淳の助けになりたいと思っていたし、自分ができることを考えたとき、水鏡を思い出したのだ。そして何よりも淳が、無理だと止めることはせず、それを認めてくれたことが嬉しかった。
簡単にお昼を済ませて、淳に連れられて電車に乗った泉は、目の前に広がる景色に唖然とした。
電車で一時間。終点ではなかったが、かなり奥まで来たように思う。無人駅ではなかったからそれなりに人は住んでいるのだろう。駅を出て、タクシーに乗った。慣れた口調で、淳はとある住所を告げる。
走り出して十分ほどで、山の奥のコテージの前に到着した。かなり本格的なログハウスだ。綺麗に手入れもされた庭の芝生が眩しい。
「えっと、ここは?」
表札には「SHIMIZU」とある。まさか、と思った。
「うちの別荘だよ。おいで」
さらっととんでもないことを言ったような気がする。別荘を持ってるってどういうお家なんだろう。
淳は玄関の鍵を開け、すたすたと中に入っていく。慌ててついていく泉は、玄関に入って立ち尽くした。
家の中に入ってすぐ、木の匂いに包まれた。上を見上げれば吹き抜けの天井が高く、大きなファンが回っている。
目の前には大きなブラウンの布地のソファがあり、同じデザインで二人掛けと一人掛けが配置されている。そしてやっぱり薪ストーブがその存在感を示す様に鎮座していた。
リビングの奥にキッチンがあるようで、一段高くなった部屋にダイニングがあった。
淳は奥の部屋に行ったようで、パチパチとスイッチを入れる音が聞こえてくる。
その音に合わせて部屋に電気が灯る。
淳がキッチンの辺りからひょいっと顔を出す。
「泉、こっちにおいで」
「あ、うん。お邪魔します」
慌てて靴を脱いで、スリッパを借りた。ぱたぱたと軽い音をさせながら、泉は部屋の奥へと入っていく。
リビングを抜けて、キッチンの脇を通ると、ガラス張りの部屋に招かれた。
床は白く塗装された木の床だったが、壁も天井も全部ガラスでできたサンルームのようだ。位置的には家の北側のようで、夏の暑い日差しも気にすることなく、過ごせそうな部屋だった。大きな木製のテーブルが真ん中にドンと置いてあって、椅子は部屋の片隅に片づけられてあった。
淳はいくつかの窓を開けて、外の風を招き入れる。湿気を含んだ涼しい風が頬に触れた。
ガラスの向こうには外の景色が見えているが、まるで外にいるかのように感じてしまうほど、自然がすぐそこにあった。
高い木々の向こうに山と湖が見える。
「わぁ、すごい。素敵!」
「湖の反対側は観光地化していて、人も多いんだけど、こちら側は私有地だから静かだよ」
言われてみれば対岸には建物が多く、人がにぎわって見える。だが、それも遠目でしか確認できないくらいだ。
「日帰りもできる距離だから、僕もよくここには来るんだ」
「とってもいいところね。…でもこの湖でするの?」
水鏡を作るには綺麗な水が必要だ。景色は確かに綺麗だけれども、観光地化している湖では難しい気がした。
「ちょっと待ってて」
そう言ってサンルームの扉を開けて、淳は外に出ていった。しばらくして、大きな器を片手に抱え、もう片方の手にはバケツに水をたたえて帰ってきた。
白い陶器をテーブルに置き、そこに汲んできた水をなみなみと注いでいく。
「この別荘のすぐ近くに湧き水が出ているんだ。それがとても綺麗なんだよ。どうかな?」
促されて、泉は器に注がれた水にそっと手を伸ばしてみる。穏やかに波打ち、日の光をきらきらと反射させている。確かに透明感があって美しい。
少し硬質な水が泉の指に触れると、ぼんやりと明かりをともしたように光りだした。
「あっ」
泉は思わず声を上げた。
透明だった水は金色に輝きだし、触れてもいないのに幾重もの波紋を作り出していた。
どこからかリンっと美しい音が響いてくる。
聞き覚えのある音に泉も淳も息を飲む。
「聖水…?」
かすれた声で、淳がつぶやいた。
水占いには聖水を使うとされている。でも、失われた聖水を再び得ることが叶うとは思っていなかったから、淳はこの土地の水を選んでくれたのだ。淳の知る限り、穢れのない水はここしかなかったのだろう。
だが今、目の前にあるのは紛れもなく聖水だ。優しく穏やかな力を宿しているのが分かる。
泉が触れたからなのか。
淳がバケツに残っている水を確認するが、光を宿していない普通の水だった。
「泉、バケツの水も触れてみて」
「う、うん」
泉がおずおずと手を伸ばし、水面に触れる。波紋が広がるのと同時にまたも淡く光を発して揺らめいた。
「やっぱり!泉が触れると聖水に変化するみたいだ」
「信じられない。どうして…?」
呆然と手を見つめてみるが、何がどうなって聖水に変わったのか、泉自身もわからない。
「でも、これで道具は揃った。水鏡は作れるよ」
泉は頷き、ゆっくり器の中の聖水を見つめる。
淡く光を灯したまま、聖水は静かにたゆたっていた。
これで、至高界に在る世界樹の様子を見ることができる。あの美しい、女神のおわす光に溢れた世界を。
どうか無事でありますように。
そう祈りながら、泉はじっと水面を見つめ、指先で軽く触れる。
リン。
軽やかな音を響かせて、波紋が広がった。
浮かび上がってくる映像を泉は目を細めて見定めようとした。
まばゆいばかりの光が視界いっぱいに広がっていく。
さわさわと風に揺れる緑の葉。雄大に幹を伸ばす世界樹は昔一度だけみた美しい姿そのままにそこに在る。
「あっ!?」
水面の先に人影が見えたと思ったその時、泉の手を掴む何かが水鏡の向こう側から伸びた。
「泉!!」
淳の驚愕の声を耳の端に捕えたが、腕を引っ張られ、アッと思ったときには泉は水鏡の内側に引きずり込まれていた。
「きゃああああっ」
冷たい水の感触。
人が入れるほどの大きさはなかったはずの器から、泉は滑るように水の中へと落ちていく。
確かに水の中なのに、息はできる。
いくつもの水泡が上に上がっていく。泉は、もっと下の、光の中心へと視線を移した。
誰かがいる。
手を伸ばしているのが分かる。
輪郭はあいまいで、眩しくてよく分からない。
細い肢体。長く揺らめくのは髪の毛だろうか。
白い光がその人物を包み込んでいるかのように見えた。
手を伸ばしている。
何かを話している。
だが言葉は届いてこない。
何かを強く訴えかけているのは分かるのに、何を言っているのか分からなくてもどかしい。
「あなたは、誰?」
泉の問いかけに呼応するかのように、突然、それははっきりと像を結んだ。
「タ、ス、ケ、テ!!」
美しい少女が泣きながら手を伸ばす。
少女の背後から黒く蠢くものが噴出した。
「泉!!」
黒く蠢くものが泉をとらえようとした瞬間、背後から泉を護るように抱きしめる腕が、泉をその脅威から間一髪で引き離した。
振り返って仰ぎ見る。厳しい顔つきで、淳が黒く蠢くものを一瞥する。
「淳くん…」
「脱出する」
「え、でもっ…」
まだあの場には女の子がいる。
「ダメだ」
有無を言わせぬ口調で、淳は短く言い放つ。泉の腰を抱いたまま、水を大きく蹴って、上昇していく。
ちらりと振り返れば、黒い触手が二人に向かって伸びてきていた。
思わず泉は悲鳴を上げて淳にしがみつく。
「しっかりつかまっていて」
そういうと、淳はさらにスピードを上げて上昇した。触手はすぐそこまで追いかけてきている。
「もう少しだ」
目の前に小さな光が見えている。出口の光だ。
淳と泉は勢いよくその光の中に飛び込んだ。
現実の世界に放り出されたと分かったのは、体に纏う水の抵抗がなくなったからだ。
泉を抱きかかえたまま、くるりと体を回転させ、淳は膝をついて着地する。泉はしがみついているだけで精一杯だ。
二人へ目がけて、器からあふれ出した黒い水が襲いかかってくる。
「きゃっ」
短く悲鳴を上げる泉の体を引き寄せて、淳はもう片方の手を伸ばし、鋭く一閃する。
音を立てて黒い水は霧散した。
ぐらぐらと水鏡の器が大きく揺れ、震える。
しばらくして、器も動かなくなり、静寂が訪れた。ずぶ濡れの状態のまま、泉は恐怖に震え、淳の腕にしがみついていた。いったい何が起こったのか分からなかった。
水の中で、あんなことが起こるなんて。
「…ごめん」
絞り出すような、泣きそうな声だった。
「僕の判断が甘かった。水鏡なら、大丈夫だろうと思ってしまった。ごめん」
ぎゅっと後ろから抱きしめる腕を、泉は震えながら抱きしめ返した。ファラ・ルーシャの力が完全じゃないことは分かっていたはずだった。水の中も安全ではないと予想して当然だったはずなのに、前世と同じだと勘違いしてしまった。
謝るのは自分の方なのに、淳に謝らせてしまった。
「私が考えなしだったの。危険があるなんて考えもしなかった」
「その判断をするのは僕だ。怖い思いをさせてごめん」
泉は力いっぱい首を振る。確かに怖かったけど、それは淳のせいでは、決してない!!
一緒にいると誓った以上、危険があるのは当然なのだ。
足手まといにしかならないのに、一緒にいたいと願ってしまった。淳もそれでいいと認めてくれた。だったら、淳の助けになるようにならなければならない。怖がってなんていられないのだ。
「怖かった。怖かったけど…」
けれど、気がついてしまった。
聖水の中にも魔は潜み、蠢いている。
水界は失われたまま。
世界のバランスは崩れて、世界樹はやはり枯れ始めているのだ。
あのときの女の子は女神だ。
幼い少女の姿をとり、泣きながら訴えていた。
助けて、と。
あの言葉は少女自身ではなく、世界樹を助けてほしいと言ったのだ。
そして、言葉と一緒に泉に向けて送ってきた映像。
あれが女神のご意思。
「…泉?」
おずおずと体の向きを変え、淳と向き合う。彼の瞳を覗き込むように視線を合わせ、額同士をくっつけた。
「命の乙女から賜った命を伝えます」
ビクッと淳の肩が震え、息を飲むのが分かった。吐息がかかるほどの距離。泉は目を閉じて、手を淳の頬から首にと回した。
命の乙女から長妃へ、そして長妃から長へと、伝わっていくものがある。
女神から託されたもの。
それは懇願でもあり、命令でもあった。
鮮やかすぎるほどの映像に震えが走った。
否応なしに見せつけられる真実。
それは、槍のようなものだった。
黒く禍々しい気を全体に纏っていた。たった一本。細く長い槍のような楔。
それが世界樹に穿たれ、周辺を腐らせている。
世界樹が枯れ始めた理由はそれに間違いない。
泉の額から光が、力となって、水神である淳に還っていく。
これが女神から、命の乙女から託されたもの。
ファラ・ルーシャとアイシャが微笑みながら見つめ合う。懐かしい切なさと愛しさとを感じながら。
だがそれは一瞬のことで、美しいけれどまだ少年の淳と華奢な少女の泉がそこにいる。
泉は陶然と淳を見つめる。
かつてのファラ・ルーシャのように、ふわりと淳の髪が長く伸びた。思わずその姿に見惚れた。
「淳くん、髪の毛…」
「泉も、だよ…」
黒髪は変わらなかったけれど、泉の髪もアイシャのように長く緩やかにうねって背を覆っていた。
「目の色も!」
「え?」
淳の瞳の色も綺麗な青に変わったが、しばらくするとまた元の色に戻っていた。
「光の加減だったのかな。綺麗な青に変わってた」
まじまじと瞳を覗き込むと、淳はたじろいだ。
「ちょ、ちょっと泉…そんなふうにされると…」
「え?」
淳は咳払いをしてごまかす。
「キスしたくなる」
「うきゃっ!?」
自分がまだ淳の首に腕を回していたことを思い出して、慌てて離れたときに変な声を上げてしまった。
「ご、ご、ごめんなさいっ」
自分から抱きつくなんて、なんて恥ずかしいことをしてるのか。
泉は顔を隠してうつむいた。
女神のご意思を伝えなくては!と、そればかり思っていた。いまさらながらに恥ずかしくなって、我に返った後は居たたまれない気持ちになった。お互いびしょ濡れで、制服が肌に張り付いている。うっすらと肌が透けて見えて、目のやり場に困る。
「さすがにこれは…まずいか」
くすくすと淳が笑っている。淳は立ち上がるとパチンと指を鳴らした。
その音が合図になって、濡れていたはずの衣服から水分が抜けていく。淳は得意げに笑みを浮かべながら、手を広げる。広げた掌の少し上に水泡がいくつも集まってきた。
「え、え?」
きょとんとしている間に、制服も髪も体もすっかり元通り乾いていた。
掌に集まっていた水泡をそのまま器に移す。音を立てて、器の中に水が収まるのを泉は呆然と見ていた。
「淳くん…」
淳は泉に手を差し出し、立たせるとふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「力がだいぶ戻ったみたいだ。泉のおかげだね」
「ううん、違うと思う。あれは女神さまが…」
いまだ呆然としながら泉は淳を仰ぎ見る。優しい笑顔は相変わらずで、胸が苦しくなる。
「でも泉が水鏡で世界樹を見てくれたからだよ。命の乙女とつながることが出来たんだから。泉のおかげだよ。ありがとう」
優しく引き寄せられ、そのままぎゅっと抱きしめられた。淳がほうっと息を吐く。
明確なビジョンが示されて、泉も淳もどこかホッとしていた。
お互いの存在や記憶だけがあり、力は戻ったけれど、転生した理由が見つけられなくて、どこか中途半端だった。
「でもこれで本当に、引き返すことはできなくなった…」
「うん」
「四神を集めて、至高界へ行く」
「うん」
泉はぎゅっと抱きしめ返した。その意図を淳は受け取って、小さく笑う。
置いていかないで。一緒に戦いたいから。
再会したときに伝えた唯一の願い。
「…泉って、ホント…かなわないなぁ」
よしよしとあやす様に頭を撫でられる。なんだかちょっと子ども扱いされているような気がして釈然としない。
けれど。この手を放すつもりはなかった。
「約束だもん!」
顔を上げ、まっすぐ淳を見上げながら宣言すると、一瞬虚を突かれたように目を見開いたが、嬉しそうに相好を崩し、頷いた。
「そうだね」
そうして再び、お互いの額と額をくっつき合わせて、笑いあった。
第三話、終。
遠く懐かしい過去の夢を。
アクアマリンに彩られた美しく澄んだ水の世界。どこまでも静かで、どこまでも穏やかな美しい故郷。
麗しい水神が治める水界の名は、マナン・ティアール。
壁からさわさわと水が流れ落ち、水路を巡る涼やかな音が心地よく響く小さな部屋に彼女はいた。
部屋の中心には花の意匠の美しい石台が一つ置かれている。
その上には大きな石の器があり、なみなみと水が張ってあった。ただの水ではない。中に光源はないのに、ぼんやりと光を灯す。
聖水と呼ばれるこの水は、誰かが汲んできているわけでもなく、器にこんこんと湧き出てくる。
枯れることもなく、また溢れることもない。
長妃がそっと水面に映る己の姿を覗き込む。
まるで主の心を現しているかのように、頼りなく揺れる。
そっと手を触れれば、幾重にも生まれる波紋。
かき消えるのは、己の不安そうな顔だ。
外が騒がしくなって、アイシャの侍女が慌てて部屋に入ってきた。
「ああ、こちらにおいででしたか」
「マーシャ?」
アイシャはゆっくりと顔を上げて、侍女を振り返る。その後ろに数人の部下を引き連れて入ってきた水神の姿に驚く。マーシャはいそいそと後ろに下がって、頭を下げた。
「ファラ・ルーシャ」
「支度は済んだと聞いて半刻、なかなかお出ましにならないから迎えに来た。そろそろ出なければ間に合わなくなる」
「あ、はい。申し訳ありません」
美しく着飾った妻の姿を満足そうに微笑み、ファラ・ルーシャは手を差し伸べる。
アイシャが聖水を見るのはいつものことで、王は不思議にも思わない。
「今日は何を見ていたんだい?」
優しく柔らかな口調で尋ねてくるので、アイシャはどう答えようか悩んでしまった。
「…わたくし…」
朝から一生懸命支度をしてくれた侍女たちの努力を無下にする気はない。美しく、失礼のないように身なりを整えるのは義務でもある。だが、今日、これからお会いするのは至高の存在なのだ。少しでも欠けがあってはならない。
ファラ・ルーシャは白を基調として、長衣にベストを重ねている。綾織の青い肩掛けはアイシャとお揃いであつらえたものだ。華美な宝飾品は控えているが、肩掛けを留める大きなアクアマリンと真珠のブローチが彼の優美な姿をさらに引き立てていた。
「どうしようもなく、緊張してしまって…」
アイシャは俯きながら、震える手をさする。指先が冷え切ってしまってよく動かせないのだ。そんなアイシャの手を包み込むようにして握り、ファラ・ルーシャは細い指先にそっと口づけする。
「何も問題はないよ。今日もとても美しい。濃い青も似合っている」
「まぁ…」
普段淡い色をばかり着ていたアイシャだったから、濃い色も似合うと言われて驚いた。自分の持つ色ではこの濃い色は負けてしまうと思っていたのに。
「瞳の色によく合う。あつらえて正解だったな」
後ろで静かに控えていたマーシャが力強く同意し頷いている。
「何でもお似合いになるファラ・ルーシャが羨ましいです」
「君の話をしていたのに」
アイシャが小首をかしげると、ファラ・ルーシャはくすくすと笑いを漏らした。
「さあ、拗ねていないで。出発しよう。アイシャは至高界は初めてだったね」
「はい、だから緊張しているのです」
「大丈夫だ。とても美しい場所だから、きっと君も気に入るはずだ」
そう言ってファラ・ルーシャは柔らかく笑う。
場所ではなく、これから会わなくてはならない方を思うと緊張するのだと、ファラ・ルーシャは分かっていないようだった。アイシャはそっと息を吐く。
水神の妻として、初めて女神にお目通りするのだ。
どれだけ緊張しても、し足りない。
足が震える。
ファラ・ルーシャに手を引かれながら、アイシャは歩を進める。
眩しいばかりの美しい世界へ。
はっと目が覚めた。
外はもう明るく、カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいる。
「…あぁ…」
今朝もまた鮮明な夢を見てしまったようだ。
ファラ・ルーシャとの結婚の報告をしに至高界へ訪れるときだったと思う。
緊張して、緊張して仕方がなかった。
失敗などしませんように、と不安から水鏡で占おうかと思っていたように思う。
だが、水占いでなにかよくない兆しが出てしまうのも嫌で、自分のひきつった顔を眺めていただけだった気がする。
結局、あの後は美しい至高界に圧倒されて、夢見心地で失敗も何もなかったけれど。
女神にお会いしたあの時の衝撃をはっきりと思い出すことができる。
世界樹に抱かれて生まれ、神龍の守護の元、至高界にただ一人住んでいる有翼の女神。
美しく輝く金の髪。瞳の色は世界樹と同じ深い緑。
この世界のありとあらゆる美を集め凝縮させたような麗しき乙女。
まだ大人になりきらない少女の体で、すでに成熟した深みのある慈愛に満ちた微笑みをたたえる。
そのアンバランスさも魅力の一つなのか。雄大かつ美しい至高界の自然に守られた命の乙女。
目の前に存在するのは唯一無二なのだと理解した。
だからこそ。
「世界樹が、枯れている…」
その言葉を紡いだ時、血の気が引いた。
永遠の命を象徴する世界樹。天と地を支え、世界を形作る。
この世界の根幹。
だからこそ世界樹が枯れることなんてあってはならない。
あの美しい世界が失われるなんて、ありえないことだった。
どうしてそんな映像が見えたのか分からない。淳も信じられないくらい血の気が引いていた。
無意識に、淳から誕生日プレゼントとしてもらった胸元のネックレスを引き上げ、雫型のアクアマリンを握り締める。
心臓が不安で早鐘を打つ。
夢の景色で見た通り、記憶にある至高界はとても美しく、その中でも世界樹は女神同様、神聖不可侵の場所とされていた。
出入りできるのは四神たちだけ。その妻である長妃ですら、召喚されなくては立ち入ることができない。
ただ一人の女神を護るための場所だからだ。
その世界樹が枯れるだなんてことがもし本当なら、この世界までもが崩壊してしまうかもしれない。
泉は自らの体をかき抱いた。
怖い。
水界が滅ぶ瞬間を覚えている。身を引き裂き、凍えるほどの恐怖を忘れることができない。
また、同じことが起こるのか。
「ファラ・ルーシャ…っ…淳くん…淳くん」
怖い。助けて。
「たすけ…て…」
泉は震えながら体を丸めて布団の中に潜り込んで呻く。
その時、枕元に置いてあったスマートフォンが震えて、泉の手元に滑り込んできた。
画面に表示されているのは、呼び続けた彼の名だった。
試験を終えて、教室を出た泉はそのまま昇降口へと向かった。
日直当番の仕事を終えてから来ると約束をしていた淳を待つためである。
試験期間は短縮日課のため、午前中で学校はおしまい。
どこかでお昼を済ませてから、試験お疲れ様デートの予定だ。
今朝は動揺しまくっていた泉だったが、あの後、淳の声を聞いて落ち着いた。
あんなにいいタイミングで電話をくれたのは奇跡だと思った。
夢の話を少しだけして、そこから世界樹の異変に言及した後、今日の約束をしたのだ。
教室でも気を配ってくれたけれど、試験中なのに申し訳なかったなと思ってしまう。
泉自身、よく試験を受けられたと思う。結果はもう考えないことにした。終わってしまったことは仕方がないのだ。五十番以内が目標は二学期でがんばるしかない。
三年生の下駄箱で知った顔を見つけ、泉は立ち止まる。
クラスメイトと何やら楽し気に話しているのは拓海だった。
つい先日、ファルーク将軍だと挨拶されたばかりだ。三年の名札を付けていたし、そう名乗ったから当たり前なのだが、本当に学校で会うとは思わなかった。
彼の前世を認識した瞬間、言い知れぬ恐怖に陥った。動揺してパニックを起こしてしまった泉を優しく介抱してくれたのは淳だ。あの時、彼の背後に見えた戦の気配を否応なしに感じてしまい、心が悲鳴を上げ、拒絶した。
おそらく、拓海は感じ取ったのだろうと思う。だからあっさりと姿を消したのだ。残ったのは罪悪感だ。
こんなに普通の、日常の景色の中に、拓海もまたちゃんと存在している。
ズキンと胸が痛かった。
泉に気が付いた拓海がクラスメイトとの話を切り上げ、明るい笑顔で手を上げて近付いてきた。
「泉ちゃんじゃん」
人懐っこい笑顔で、気さくに声をかけられた泉はびっくりしたまま固まってしまった。
「淳と待ち合わせ?」
「あ、うん…そうです」
前世がどうであれ、今は彼の方が先輩だ。言葉使いを直した泉に、拓海は面白そうに笑う。
「そんなに警戒しないでほしいな。学校では俺は清水拓海」
拓海先輩、さよなら~。
女生徒の声があっちこっちから聞こえてくる。
拓海は顔を上げ、声のする方に向かって手を振って応える。
屈託のない笑顔。どうやら人気のある先輩なのだと認識するのに時間はかからなかった。
呼び方に困ったが、みんなが呼んでいる「拓海先輩」がちょうどいいのかもしれないと泉は思った。
「あの…はい、じゃあ、拓海先輩って呼んでも…いいですか?」
「もちろん」
「本当に三年の先輩だったんだなぁってちょっとびっくりしてしまって…」
「ま、そりゃそうだなぁ」
「あ、あのこの間はごめんなさい。私…動揺しちゃって」
泉は俯いて、言いよどむ。なんて言葉にしていいのか分からなかった。
「いやいや、あれは俺がお邪魔虫だっただけで。こっちこそごめんな」
拓海はあっけらかんとしている。逆に謝られて、泉は居たたまれなくなってしまった。
泉の方が失礼なことをしたのに、拓海の方が悪者になってくれようとしている。
「突然割り込んだら、そりゃびっくりするよな。それに思い出したばかりだろ?」
重ねて言われて、それ以上言えなくなってしまう。
「そうですけど、でも…やっぱり、ごめんなさい」
「泉ちゃんは真面目だね。大丈夫。俺は怒られ慣れているから、俺のせいにしておきなさい」
「…どうして、拓海先輩のせいに?」
「あれ?淳から言われてない?不用意に近付くなって俺には怒ってきたけど」
「そ、そんなこと…」
確かにファルーク将軍の存在に引きずられてアイシャの感情が爆発してしまったけれど。
自分がもっと上手に整理できていれば良かった話だ。
「拓海先輩に近付くな、なんて言わなかった」
「ああ、そう。泉ちゃんから来てくれる分には良いってことね」
にやりといたずらっ子のような顔で拓海が笑う。後半は小声だったせいで、泉には聞こえなかった。
「あの、拓海先輩はいつ思い出したんですか?いとこ同士なら小さいころからずっと会っていたでしょ?」
「ああ、俺は結構早かったと思う。ガキの頃にすっと思い出して、淳を見て気が付いた。あ、王だ、って」
子供の頃に思い出したこともびっくりだが、そんなにすんなり受け止めたことにも驚く。
「あいつがいつ思い出したのかまでは知らないけど、俺がうっかり、王よって呼びかけたら、普通に名前呼んで返してきたからな。それが嬉しくて、そのまんま来てる。不遜の一言だけどな。前世では君主と臣下の関係だったが、今生はいとこ同士だからって許してくれたのはあいつなんだ。あいつは俺をファルークとして縛る気はないと言った。だから、俺はあいつに再び仕えることを決めたんだ」
拓海の真摯なまなざしは嘘偽りのない気持ちなのだと示している。
新しい生を与えられているのに、再び臣下として仕えることに抵抗があっても不思議はないと思う。でも拓海はだからこそ前世と同じように主君に仕える決意をしたというのか。それは何故だろう。泉は純粋に興味を持った。
「それは…どうして?」
拓海はびっくりしたように体を震わせ、静かに微笑んだ。十六、七歳の少年がする微笑みではない。深い情のこもった笑み。
「あなたと同じ理由だと思いますよ」
目の前にいるのは拓海のはずなのに、ファルークがいるような錯覚がした。
目をしばたつかせている泉に、拓海はほんの少し照れたように笑いながら、片眼を瞑って内緒のポーズを作る。
「内緒にしておいて」
今度は年相応の少年らしい悪戯な笑顔だ。
淳とは種類の違う端正な顔で、そんなお願いポーズは破壊力抜群だ。思わず泉は後ずさってしまった。
「そろそろ淳が来るから、この話はここでおしまい、な」
「え?」
泉は慌てて後ろを振り返る。階段を下りてくる淳と目が合った。
泉を見つけた淳がにこやかに微笑み、手を上げる。
「本当だ…あ、あれ?」
拓海の言った通り淳が姿を見せたことに驚いて振り返るが、さっきまでいたはずの拓海の姿は消えていた。
「え、えっ?」
きょろきょろ、辺りを見渡しても、どこにもいなかった。
淳が涼やかな笑顔で駆け寄ってくる。さわやかな清涼感のある風が吹いたような、そんな空気に一瞬にして包まれた。
「お待たせ。…どうしたの?」
「あ、あのね、拓海先輩と話していたんだけど…いなくなっちゃった」
少しだけ眉を顰め、淳は状況を把握したように頷いた。カバンを持ったまま腕を組んで、「ふむ」と鼻を鳴らす。
「拓海先輩ね。泉の中の壁が消えたなら、それはそれでいいけど…」
「え?」
声音に宿る硬質な何かを泉は敏感に感じ取って、淳を窺いみる。いつものにこやかな笑顔とは違う、ひきつった笑みを浮かべていて、思わず泉は身を引く。
麗しく目を細めて、泉に顔を近付けてささやく。それが妙に色っぽくて、泉はたじたじになってしまう。
「あんまり仲良くされると、僕はヤキモチを焼いてしまいそうだなぁ」
「ええぇ…」
言われていることはとても嬉しいと思うし、そんな心配はしないでほしいと思うのだが、なによりも女の自分よりも綺麗な流し目を決めるのはやめてほしかった。
「な、仲良くって…挨拶してちょっと話しただけだよ」
「うん、それでもね。やっぱり、嫌かな」
「そ、ソウデスカ…」
思わず片言になってしまったが、拓海先輩はファルーク将軍ではないか。ファラ・ルーシャの腹心なのに。
「ファルークは信用できる部下だけど、拓海は従兄だから」
泉の考えていることがわかったのか淳は憮然として答えるが、何が違うのだろうかと泉は首をかしげてしまう。
「まあ、そこは僕のこだわりだから、気にしないで」
じいっと淳を見上げていると少しだけ頬を赤くさせて淳は頭をかいた。
「あ、そうそう。さっき先生に聞いたんだけど、転入生がくるらしいよ」
あからさまに話題を変えた淳だったが、泉も転入生のワードにびっくりした。
「え?この時期に?」
「試験期間だからちょっとずれ込んだみたいだけど、夏休み直前の転入になるね」
「二学期から、にはならなかったのね」
「半月、宙ぶらりんになるよりはってことらしい」
「えっと、もしかして…」
「うん、帰国子女だね」
海外からの転入生かぁ。ほうっと泉は息を吐いた。
男子かな、女子かな?と妄想を膨らませていたら、淳がほっとした顔で見ていた。
「落ち着いたようで安心した。試験はどうだった?」
「う、うん。ありがとう。試験は、まあ、それなりに、なんとか。次回頑張る」
淳のように上位に食い込むことは無理だろうことははっきりしているが、朝のひどい精神状態で臨んだ試験にしてはまともだったはずだ。
「拓海にはあまり近付かないようにって言ったんだ」
淳はやっぱり泉の動揺が拓海にあると思っているのだ。それは違う気がして泉は首を振る。
「ねえ、それ。私が不安定なだけだから。拓海先輩に申し訳ないし」
「不安定だって認めるんだね。じゃあ原因となりうるものは排除したほうがいい」
「淳くん。同じ学校の先輩だよ。排除とかやめて」
むっと口を引き結んだ淳だったが、泉の次の一言で崩れ落ちた。
「私は、淳くんがいれば大丈夫だもの」
くっと言葉を飲みこんだのが分かった。真っ赤な顔を片手で覆うようにして、淳は顔を伏せる。
動揺してる。あんな顔、初めて見た!
泉は内心でガッツポーズした。いつもいつも言われてばかりで、動揺させられているのは泉の方で。いつかやり返したいと思っていたのだ。
「ちょ…ちょっと泉、反則すぎっ…」
「うん、だからね。淳くんには手伝ってほしいの。私、水鏡で世界樹を見てみたい」
真っ赤になって悶えていた淳の動きが止まった。
「水鏡なら覗けると思うの。いま、世界樹がどうなっているのか。本当にあの時見えた映像のように枯れ始めているのか。確かめたいの」
「でも水鏡は…失われて」
「新しく作るわ。綺麗な水のある所なら、きっと大丈夫」
「新しく…作れるのか?」
「分からないけど、やってみる。城にあったような大きなものは無理だけど、アイシャはいろんな水鏡を作っていたもの」
泉の提案に呆然としながらもしばらく何かを考えていた淳だったが、小さく息を吐きだすと頷いた。
「分かった。やってみよう」
泉は嬉しくなって手をたたいて喜んだ。淳の助けになりたいと思っていたし、自分ができることを考えたとき、水鏡を思い出したのだ。そして何よりも淳が、無理だと止めることはせず、それを認めてくれたことが嬉しかった。
簡単にお昼を済ませて、淳に連れられて電車に乗った泉は、目の前に広がる景色に唖然とした。
電車で一時間。終点ではなかったが、かなり奥まで来たように思う。無人駅ではなかったからそれなりに人は住んでいるのだろう。駅を出て、タクシーに乗った。慣れた口調で、淳はとある住所を告げる。
走り出して十分ほどで、山の奥のコテージの前に到着した。かなり本格的なログハウスだ。綺麗に手入れもされた庭の芝生が眩しい。
「えっと、ここは?」
表札には「SHIMIZU」とある。まさか、と思った。
「うちの別荘だよ。おいで」
さらっととんでもないことを言ったような気がする。別荘を持ってるってどういうお家なんだろう。
淳は玄関の鍵を開け、すたすたと中に入っていく。慌ててついていく泉は、玄関に入って立ち尽くした。
家の中に入ってすぐ、木の匂いに包まれた。上を見上げれば吹き抜けの天井が高く、大きなファンが回っている。
目の前には大きなブラウンの布地のソファがあり、同じデザインで二人掛けと一人掛けが配置されている。そしてやっぱり薪ストーブがその存在感を示す様に鎮座していた。
リビングの奥にキッチンがあるようで、一段高くなった部屋にダイニングがあった。
淳は奥の部屋に行ったようで、パチパチとスイッチを入れる音が聞こえてくる。
その音に合わせて部屋に電気が灯る。
淳がキッチンの辺りからひょいっと顔を出す。
「泉、こっちにおいで」
「あ、うん。お邪魔します」
慌てて靴を脱いで、スリッパを借りた。ぱたぱたと軽い音をさせながら、泉は部屋の奥へと入っていく。
リビングを抜けて、キッチンの脇を通ると、ガラス張りの部屋に招かれた。
床は白く塗装された木の床だったが、壁も天井も全部ガラスでできたサンルームのようだ。位置的には家の北側のようで、夏の暑い日差しも気にすることなく、過ごせそうな部屋だった。大きな木製のテーブルが真ん中にドンと置いてあって、椅子は部屋の片隅に片づけられてあった。
淳はいくつかの窓を開けて、外の風を招き入れる。湿気を含んだ涼しい風が頬に触れた。
ガラスの向こうには外の景色が見えているが、まるで外にいるかのように感じてしまうほど、自然がすぐそこにあった。
高い木々の向こうに山と湖が見える。
「わぁ、すごい。素敵!」
「湖の反対側は観光地化していて、人も多いんだけど、こちら側は私有地だから静かだよ」
言われてみれば対岸には建物が多く、人がにぎわって見える。だが、それも遠目でしか確認できないくらいだ。
「日帰りもできる距離だから、僕もよくここには来るんだ」
「とってもいいところね。…でもこの湖でするの?」
水鏡を作るには綺麗な水が必要だ。景色は確かに綺麗だけれども、観光地化している湖では難しい気がした。
「ちょっと待ってて」
そう言ってサンルームの扉を開けて、淳は外に出ていった。しばらくして、大きな器を片手に抱え、もう片方の手にはバケツに水をたたえて帰ってきた。
白い陶器をテーブルに置き、そこに汲んできた水をなみなみと注いでいく。
「この別荘のすぐ近くに湧き水が出ているんだ。それがとても綺麗なんだよ。どうかな?」
促されて、泉は器に注がれた水にそっと手を伸ばしてみる。穏やかに波打ち、日の光をきらきらと反射させている。確かに透明感があって美しい。
少し硬質な水が泉の指に触れると、ぼんやりと明かりをともしたように光りだした。
「あっ」
泉は思わず声を上げた。
透明だった水は金色に輝きだし、触れてもいないのに幾重もの波紋を作り出していた。
どこからかリンっと美しい音が響いてくる。
聞き覚えのある音に泉も淳も息を飲む。
「聖水…?」
かすれた声で、淳がつぶやいた。
水占いには聖水を使うとされている。でも、失われた聖水を再び得ることが叶うとは思っていなかったから、淳はこの土地の水を選んでくれたのだ。淳の知る限り、穢れのない水はここしかなかったのだろう。
だが今、目の前にあるのは紛れもなく聖水だ。優しく穏やかな力を宿しているのが分かる。
泉が触れたからなのか。
淳がバケツに残っている水を確認するが、光を宿していない普通の水だった。
「泉、バケツの水も触れてみて」
「う、うん」
泉がおずおずと手を伸ばし、水面に触れる。波紋が広がるのと同時にまたも淡く光を発して揺らめいた。
「やっぱり!泉が触れると聖水に変化するみたいだ」
「信じられない。どうして…?」
呆然と手を見つめてみるが、何がどうなって聖水に変わったのか、泉自身もわからない。
「でも、これで道具は揃った。水鏡は作れるよ」
泉は頷き、ゆっくり器の中の聖水を見つめる。
淡く光を灯したまま、聖水は静かにたゆたっていた。
これで、至高界に在る世界樹の様子を見ることができる。あの美しい、女神のおわす光に溢れた世界を。
どうか無事でありますように。
そう祈りながら、泉はじっと水面を見つめ、指先で軽く触れる。
リン。
軽やかな音を響かせて、波紋が広がった。
浮かび上がってくる映像を泉は目を細めて見定めようとした。
まばゆいばかりの光が視界いっぱいに広がっていく。
さわさわと風に揺れる緑の葉。雄大に幹を伸ばす世界樹は昔一度だけみた美しい姿そのままにそこに在る。
「あっ!?」
水面の先に人影が見えたと思ったその時、泉の手を掴む何かが水鏡の向こう側から伸びた。
「泉!!」
淳の驚愕の声を耳の端に捕えたが、腕を引っ張られ、アッと思ったときには泉は水鏡の内側に引きずり込まれていた。
「きゃああああっ」
冷たい水の感触。
人が入れるほどの大きさはなかったはずの器から、泉は滑るように水の中へと落ちていく。
確かに水の中なのに、息はできる。
いくつもの水泡が上に上がっていく。泉は、もっと下の、光の中心へと視線を移した。
誰かがいる。
手を伸ばしているのが分かる。
輪郭はあいまいで、眩しくてよく分からない。
細い肢体。長く揺らめくのは髪の毛だろうか。
白い光がその人物を包み込んでいるかのように見えた。
手を伸ばしている。
何かを話している。
だが言葉は届いてこない。
何かを強く訴えかけているのは分かるのに、何を言っているのか分からなくてもどかしい。
「あなたは、誰?」
泉の問いかけに呼応するかのように、突然、それははっきりと像を結んだ。
「タ、ス、ケ、テ!!」
美しい少女が泣きながら手を伸ばす。
少女の背後から黒く蠢くものが噴出した。
「泉!!」
黒く蠢くものが泉をとらえようとした瞬間、背後から泉を護るように抱きしめる腕が、泉をその脅威から間一髪で引き離した。
振り返って仰ぎ見る。厳しい顔つきで、淳が黒く蠢くものを一瞥する。
「淳くん…」
「脱出する」
「え、でもっ…」
まだあの場には女の子がいる。
「ダメだ」
有無を言わせぬ口調で、淳は短く言い放つ。泉の腰を抱いたまま、水を大きく蹴って、上昇していく。
ちらりと振り返れば、黒い触手が二人に向かって伸びてきていた。
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「しっかりつかまっていて」
そういうと、淳はさらにスピードを上げて上昇した。触手はすぐそこまで追いかけてきている。
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目の前に小さな光が見えている。出口の光だ。
淳と泉は勢いよくその光の中に飛び込んだ。
現実の世界に放り出されたと分かったのは、体に纏う水の抵抗がなくなったからだ。
泉を抱きかかえたまま、くるりと体を回転させ、淳は膝をついて着地する。泉はしがみついているだけで精一杯だ。
二人へ目がけて、器からあふれ出した黒い水が襲いかかってくる。
「きゃっ」
短く悲鳴を上げる泉の体を引き寄せて、淳はもう片方の手を伸ばし、鋭く一閃する。
音を立てて黒い水は霧散した。
ぐらぐらと水鏡の器が大きく揺れ、震える。
しばらくして、器も動かなくなり、静寂が訪れた。ずぶ濡れの状態のまま、泉は恐怖に震え、淳の腕にしがみついていた。いったい何が起こったのか分からなかった。
水の中で、あんなことが起こるなんて。
「…ごめん」
絞り出すような、泣きそうな声だった。
「僕の判断が甘かった。水鏡なら、大丈夫だろうと思ってしまった。ごめん」
ぎゅっと後ろから抱きしめる腕を、泉は震えながら抱きしめ返した。ファラ・ルーシャの力が完全じゃないことは分かっていたはずだった。水の中も安全ではないと予想して当然だったはずなのに、前世と同じだと勘違いしてしまった。
謝るのは自分の方なのに、淳に謝らせてしまった。
「私が考えなしだったの。危険があるなんて考えもしなかった」
「その判断をするのは僕だ。怖い思いをさせてごめん」
泉は力いっぱい首を振る。確かに怖かったけど、それは淳のせいでは、決してない!!
一緒にいると誓った以上、危険があるのは当然なのだ。
足手まといにしかならないのに、一緒にいたいと願ってしまった。淳もそれでいいと認めてくれた。だったら、淳の助けになるようにならなければならない。怖がってなんていられないのだ。
「怖かった。怖かったけど…」
けれど、気がついてしまった。
聖水の中にも魔は潜み、蠢いている。
水界は失われたまま。
世界のバランスは崩れて、世界樹はやはり枯れ始めているのだ。
あのときの女の子は女神だ。
幼い少女の姿をとり、泣きながら訴えていた。
助けて、と。
あの言葉は少女自身ではなく、世界樹を助けてほしいと言ったのだ。
そして、言葉と一緒に泉に向けて送ってきた映像。
あれが女神のご意思。
「…泉?」
おずおずと体の向きを変え、淳と向き合う。彼の瞳を覗き込むように視線を合わせ、額同士をくっつけた。
「命の乙女から賜った命を伝えます」
ビクッと淳の肩が震え、息を飲むのが分かった。吐息がかかるほどの距離。泉は目を閉じて、手を淳の頬から首にと回した。
命の乙女から長妃へ、そして長妃から長へと、伝わっていくものがある。
女神から託されたもの。
それは懇願でもあり、命令でもあった。
鮮やかすぎるほどの映像に震えが走った。
否応なしに見せつけられる真実。
それは、槍のようなものだった。
黒く禍々しい気を全体に纏っていた。たった一本。細く長い槍のような楔。
それが世界樹に穿たれ、周辺を腐らせている。
世界樹が枯れ始めた理由はそれに間違いない。
泉の額から光が、力となって、水神である淳に還っていく。
これが女神から、命の乙女から託されたもの。
ファラ・ルーシャとアイシャが微笑みながら見つめ合う。懐かしい切なさと愛しさとを感じながら。
だがそれは一瞬のことで、美しいけれどまだ少年の淳と華奢な少女の泉がそこにいる。
泉は陶然と淳を見つめる。
かつてのファラ・ルーシャのように、ふわりと淳の髪が長く伸びた。思わずその姿に見惚れた。
「淳くん、髪の毛…」
「泉も、だよ…」
黒髪は変わらなかったけれど、泉の髪もアイシャのように長く緩やかにうねって背を覆っていた。
「目の色も!」
「え?」
淳の瞳の色も綺麗な青に変わったが、しばらくするとまた元の色に戻っていた。
「光の加減だったのかな。綺麗な青に変わってた」
まじまじと瞳を覗き込むと、淳はたじろいだ。
「ちょ、ちょっと泉…そんなふうにされると…」
「え?」
淳は咳払いをしてごまかす。
「キスしたくなる」
「うきゃっ!?」
自分がまだ淳の首に腕を回していたことを思い出して、慌てて離れたときに変な声を上げてしまった。
「ご、ご、ごめんなさいっ」
自分から抱きつくなんて、なんて恥ずかしいことをしてるのか。
泉は顔を隠してうつむいた。
女神のご意思を伝えなくては!と、そればかり思っていた。いまさらながらに恥ずかしくなって、我に返った後は居たたまれない気持ちになった。お互いびしょ濡れで、制服が肌に張り付いている。うっすらと肌が透けて見えて、目のやり場に困る。
「さすがにこれは…まずいか」
くすくすと淳が笑っている。淳は立ち上がるとパチンと指を鳴らした。
その音が合図になって、濡れていたはずの衣服から水分が抜けていく。淳は得意げに笑みを浮かべながら、手を広げる。広げた掌の少し上に水泡がいくつも集まってきた。
「え、え?」
きょとんとしている間に、制服も髪も体もすっかり元通り乾いていた。
掌に集まっていた水泡をそのまま器に移す。音を立てて、器の中に水が収まるのを泉は呆然と見ていた。
「淳くん…」
淳は泉に手を差し出し、立たせるとふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「力がだいぶ戻ったみたいだ。泉のおかげだね」
「ううん、違うと思う。あれは女神さまが…」
いまだ呆然としながら泉は淳を仰ぎ見る。優しい笑顔は相変わらずで、胸が苦しくなる。
「でも泉が水鏡で世界樹を見てくれたからだよ。命の乙女とつながることが出来たんだから。泉のおかげだよ。ありがとう」
優しく引き寄せられ、そのままぎゅっと抱きしめられた。淳がほうっと息を吐く。
明確なビジョンが示されて、泉も淳もどこかホッとしていた。
お互いの存在や記憶だけがあり、力は戻ったけれど、転生した理由が見つけられなくて、どこか中途半端だった。
「でもこれで本当に、引き返すことはできなくなった…」
「うん」
「四神を集めて、至高界へ行く」
「うん」
泉はぎゅっと抱きしめ返した。その意図を淳は受け取って、小さく笑う。
置いていかないで。一緒に戦いたいから。
再会したときに伝えた唯一の願い。
「…泉って、ホント…かなわないなぁ」
よしよしとあやす様に頭を撫でられる。なんだかちょっと子ども扱いされているような気がして釈然としない。
けれど。この手を放すつもりはなかった。
「約束だもん!」
顔を上げ、まっすぐ淳を見上げながら宣言すると、一瞬虚を突かれたように目を見開いたが、嬉しそうに相好を崩し、頷いた。
「そうだね」
そうして再び、お互いの額と額をくっつき合わせて、笑いあった。
第三話、終。
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