だがしかし

帽子屋

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 少年に誘われるまま川の水に足をつける。ひんやりとした温度と、皮膚を撫でては過ぎ去っていく水の感触が心地よかった。少年は慣れたもので、足場の悪いところや急な深みを器用に避けながら、滝の近くまで川の中を歩いて行った。俺は少年の後を追った。
 滝のから少し離れた脇に出来た緩やかな浅瀬では、むき出しの岩盤から幾筋かの細い水が湧き出しては、ほんの小さな滝のように川に落ちていた。少年は手で水を掬うとさも美味そうに何度も飲んだ。
「ここの水、冷たくて美味いんだ! お前も飲んでみろよ」
 笑顔の少年に誘われるまま、俺は両手を合わせて椀を作ると落ちてくる水を溜めて喉へと流し込んだ。
 うまい、と少年に声を出して伝えたかった。声が出ないのをもどかしく思うほど、その水は美味かった。だが、この冷たく清涼な水、どこかで飲んだ気がする。俺はそれがどこだったか思い出せない。
 そうだ。俺はどうしてここにいるんだろう。俺は一体何ものなんだろう。俺を鬼だと言った獣の言葉が蘇る。『今の君は、自分がなにものであるか、君自身覚えていないのだろうけどね』俺は何も覚えていない。確かに覚えているのは、この空腹感だけだ。獣は、今もどこかで俺たちを見ているのだろうか。
 俺は無意識に腹に手を当てたまま、ぐるりと辺りを見回したが風が木々を揺すり葉のこすれる音と、水の音、そして小さな囁き以外何も聴こえはしなかった。
 それからしばらくの間、俺と少年は川に泳ぐ魚を獲るのに夢中になったが、俺があまり役に立たないことを早々に悟った少年は「これ持って岩の上で休んでろ。落とすなよ!」と虫取り網を寄越しながら言ってきた。俺はその言葉に甘えて、大きな岩の上へと上って座り込み少年の奮闘する姿を見ていることにした。
 少年は真剣に川を覗き込んだり、浅瀬へ追い込んだりして魚を何匹か捕まえていた。捕まえたときは、それはそれは嬉しそうな顔をして俺の方を向き手を振るので、俺も笑いながら手を振り返した。
“この山から早く出ろってボウズに伝えてくれ”
 うさぎは最期にそう言って旅立っていった。
『もうあの子に近寄ってはいけないよ』
 獣はそう言って俺に釘を刺した。
 なんだ。何が起きるんだ? 俺には皆目検討もつかないが、何か少年の身に良くない何かが起きると言う事なんだろう。だが声の出ない俺は、どうやって少年に伝えればいいんだろう。急ぐ話なら、今すぐにでも伝えたいと言うのに。俺には、あの獣のように姿を変えて、力ずくで彼をこの山の外へ連れ出すことも出来ない。俺は川の中の少年から目を離さずに、どうすればと思案した。
 俺が真剣に悩んでいると、突然腹の虫が鳴った。ああ。確かに腹は減ってるけど……。
 俺は俺の耐え難い空腹に、忸怩たる思いで溜息をついて肩を落とした。
 耳元で「喰ってしまえ」と獣が笑う声が聴こえた気がした。
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