だがしかし

帽子屋

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 おじさんは俺たちが玄関土間から家に上がるのを見届けると「んじゃ、俺はここまでだから。ああ。茶と菓子はいつものとこに置いとくって言ってたぞ。もし飯が必要なら言ってくれ。ばーさんたちに伝えとくから」
と声を上げた。
「ありがとうございます~ あとで行こうかな~」
神田がその声にひょこりと顔を出すと、おじさんは「にーちゃん、あんたもまあ気楽になあ」と俺にひとこと告げると背中を向け「まあ気楽にって言ってもなあ、最後だしなあ……」と最後は独り言のようにつぶやきながら玄関を出て行った。おじさんのごましお頭が玄関の先に消えていく。

え? 最後? すみません。ちょっと最後の言葉が聞き取れなかったんですけど、聞き捨てならない感じじゃない? 最後って何が?

俺はおじさんを追いかけようかと思ったが、広く吹き抜けとなった部屋の奥の方、それも上の方から超がつくほどマイペースな声が聞こえてきた。
「お~い きみの部屋はここでいいかな~ 僕は向こうの部屋を使うよ~」
神田、お前はいつでもどこでも通常運転だな……。俺はもういろいろそれどころじゃない感じなんだけど。俺はここまでの疲れがどっと押し寄せてくる感覚に意味深なおじさんを追うのはやめ、ややがっくりとしながら通常運転を見に行くことにした。もうここまできてしまったからには、この通常運転から振り落とされないように開き直るしかないのかなと。
ああ、なんでこいつの助手席になんか乗っちまったんだよ、俺。

木がきしむ音のする階段を上がると、廊下の向こうから荷物を置いた神田がやってきて手前の部屋の障子のところで止まった。
「僕、あっちの部屋使うから~ きみはここでいいかな~」
いやだと言っても神田的決定事項は絶対にひっくり返らない気がしてならないので――だいたい良いも何もお前は自分の荷物をすでに自分の部屋と決めた場所に置いてきてるだろうが――「ハイハイ」と俺は溜息混じりの返事を返しながら、ここ、といわれた部屋に入った。

8畳ほどの和室は、畳をする足の感触もイグサの匂いもとても懐かしい感じがした。開かれた窓の外には山の風景が広がる。俺は丸いちゃぶ台の脇に荷物をどさりと置いて窓に向かった。
「ここでいい~?」
「ああ。うん。いい……」
窓枠に手をかけ目の前の風景を眺める。遠く先まで高い緑に囲まれて、田んぼにでも陽射しが反射しているのか細かなきらきらとした光が踊るのが見える。流れる風にのって水の匂いがした。
「どしたの~」
「いやなんか、忘れているものを思い出させるような、ついぞそんな感覚さえ忘れていたものが帰ってくる感じがするな……」
これはノスタルジックだ。俺って詩人だったのかもしれない。
「え~ 忘れていたことすら忘れて、忘れてた感覚もないって、認知症じゃないの~」
こら。神田。
俺の心地よく浸った深い感覚を一瞬でぶち壊すな。お前の通常運転は交通事故か。
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