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Ch.2

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 僕は死ぬ。箱の中に入ったまま。
 だけど、僕の魂は生きてその箱を出る。
 その箱の蓋を開けるのは、猫だ。
 なぜって、あいまいな世界の蓋を開けるのは猫だってことぐらい誰でも知っている。


 暗い箱の中から、そっと蓋を押し開ける間隔。薄く空いた隙間から、白い光の筋が長く伸びてくる。光の中を滑るようにその先を目指す。
 枕元に置いてあった眼鏡をかけて部屋を出る。妻はいつでも早起きだ。階下におりていくと、毎朝の子供番組の音が聴こえてくる。それから妻の声も。リビングへ通じるドアは開いている。その理由は。
「ニャア」
 一声、僕をちらりと見たところどころまだらの猫が足をすり抜けて先に中へ入っていった。長く一緒にいるこの猫に野苺と名付けたのは随分と昔に思う。どうして野苺と名付けたんだろう。古い映画の影響だろうか。それとも、灰とも黒ともつかない、複雑なまだら模様が、数百種類と亜種があるキイチゴの複雑困難な分類にでも思えたのだろうか。
「おはよう」
 猫に遅れること数歩、僕がキッチンに顔をのぞかせると妻は猫の牛乳を片手に「おはよう」と笑った。リビングでは幼い娘が宙空に投影された番組のキャラクターと一緒になって遊んでいる。立体的に映し出されている兎や猫を丸く柔らかくデフォルメして2足歩行で歩く彼らに触れることは叶わないが、質感さえも感じられるそのリアルな投影に興じている。もう少し大きくなれば、専用のミクスト・リアリティグローブを付けて投影された彼らに触れ、そのフワフワとした感触を感じることも出来るだろう。だが今、彼女は抱きつこうとした映像を突き抜けて背中側に出てしまっても、それはそれで楽しいらしい。夢中になっていて僕にはまだ気付いていない。僕はそっと近寄りツンと優しく小さな背中をつつくと本当にびっくりしたようにワッと声を上げ「パパ! おはよう!」と抱きついてきた。
「朝ご飯はもう食べたかい?」
「パパを待っていたの!」
「そうか」
 僕は娘を抱き上げ食卓へと向かった。
 3人と1匹での朝食を終え、仕事へ出掛ける準備の為に僕が部屋に戻ると足元に野苺がすり寄ってきてどこへ行くのかと尋ねるように見上げてきた。


 地下鉄の改札を出ると、地下水の如く人波の流れにのるようにして地下通路をその先へと進む。地下と言っても天井はそれなりに高く、空の様子をリアルタイムで頭上に映し出す宙空投影と時間によって明度を変える人工光の照明効果で閉塞感はあまり感じない。浄化した外気を循環させ意外にも澄んだ空気が流れる地下道を進むと、広く開けた何本もの動く歩道が乗り入れるターミナルエリアに出た。人はそれぞれ行く先別の歩道に乗り、僕も会社方面へ向かう一つに乗った。急ぐ必要はないので歩道の左側に立ち止まり、手すりに身体を預ける様にして歩道の進行速度のまま運ばれることにした。その右側を多くの人々がモバイル片手にイヤホンやヘッドホンに耳を傾けながら、時には何かをマイクに向かって喋り足早に歩き去っていく。無数の動く歩道は交差点とターミナルを経て都心の地下街を網羅し、今僕のいるこの中心部から郊外に向けての歩道線もかなりの線が繋がった。
 人は移動する時に地上を歩かない。地上は車両のレイヤーだ。人が地上のを歩くのは、車両の立ち入らない専用区域か、地上での作業や地下に直結していない建物や店舗に出入りする為にその玄関と地下への出入り口とを往復するぐらいのものだ。
 車と同じレイヤーを人が動こうとするから事故が起こる。車両と人間は移動階層を分ければ良い。人間と車両、鉄道、全てのレイヤーを分けることで、より管理しやすく効率的に人も物も流れることが出来ると、大災害後の首都復興当初より管制AIの導入と人と物流の移動レイヤー、階層分離は不可欠と計画された。
 僕は会社へ向かう途中、歩道を乗り換える交差点で一度下りると、お気に入りのカフェに寄った。丸くつるりとしたフォルムに店のエプロンを付けたロボットが僕を見つけて店内から出てきた。様々な場所に進出したロボットたちは安定した2足歩行の出来る人型や滑らかな動作に人工の毛皮を身に付けた本物そっくりの動物型ロボットもいるが、僕はこのロボット黎明期からあるようなローラーを転がして移動するロボットが好きだった。
ロボットは僕の前に立つと違和感の無い合成音声で「いらっしゃいませ。いつも有難う御座います」と挨拶した。この、は営業ではなく客の顔や好みを全て記憶しているからこその挨拶だ。誰でもがすぐに常連になれる。だからこのロボットが宙空に投影するメニューのトップには僕が今までに注文した頻度の高いメニューと、そして店の推奨である期間限定メニューが表示された。僕は持ち帰りを選択し、いつものコーヒーとおススメと記載された“産地直上サラダ”のセットを注文した。産地を直上と謳っているのは、このカフェがテナントとして入っているビルの地上に聳え立つ部分で栽培された野菜を使っているから。
 僕は「こちらで少々お待ち下さい」と言われた席に座りながら店の前の光景を眺めた。地上で大きな会社がいくつも軒を並べているこのエリアでは地下のビルエントランスへ向けて多層構造になっている動く歩道が何本も立体的に交差して各階の大きな入り口へと向かう。無数の人々が次々と運ばれ大きな口へと吸い込まれていくのを見るのはとても楽しかった。
 店を出た僕はまた歩道に乗り、今度はその上を歩いて一区画先にある会社のエントランスへと向かう。地下に埋められた動く歩道は人の歩く場所を集中させ、発電床となっているこの道は効率的に発電することが出来る。環境を整え、滞りの無い流れを作ることでエネルギー効率も向上する。まるで大昔の日本、江戸の土地を踏み固めるために仕向けられた歓楽街の仕組みのようだ。
 会社のエントランスをくぐった僕はエレベーターの列に並ぶ。モバイルで移動場所の集中予測を聞いている人たちは、むやみやたらと混雑を作り出さずエレベーターは最低限の上下運動でやってきた。僕を乗せた高速エレベーターは瞬く間に地上を突き出て空へ向けて昇っていく。その目の前には巨大な緑の壁が広がり、更に昇れば、青々とした森の間を走る地上の車が見える。地上80階近く迄昇ると、そこには見事なまでの緑の風景が広がった。東京の中央に林立する無機質な大廈高楼は全て機械植物(マシンプラント)、ハイブリッドなツタで覆われたうず高い森が居並ぶ姿となり、その偉観の中では何千もの人々が働いているが、その姿は見えず、最上階まで到達すればそこは青い空と緑の頂が混じった静謐な空間で、時折、鳥の飛んでいく姿が同じ高さで見える深山幽谷の光景だった。
 僕が生まれる前の東京からはとても想像出来ないと、過去を知る人たちは皆そう語った。東京と緑という色は相容れないものだったと言う。大災害で灰色の廃墟となった東京は植物の芽吹きと共に復興し、深緑の都市となった。
エレベーターホールの先にあるスペースで外の景色をリアルタイムで映し出す壁に立つ僕の前を一群の鳥たちが飛んでいく。美しいフォーメーションを保ったまま群飛はカメラの視界から消えていった。
「日向くん」
 顔を動かして鳥の群れを追った僕の背後から声がした。振り向けばこの緑の世界の功労者がそこにいた。落ち着いた色合いの服を身につけ白髪混じりの頭はこざっぱりと短く整えられている。東京が灰色の頃、彼の頭には白いものは混じっておらず、ぼさぼさの髪は伸び放題だったと思い出し小さな笑みが浮かんだ。緑の正体である機械植物のツタは彼の発明だ。彼が身骨を砕いて研究し実現にこぎつけた。発電素子を持つ葉は太陽光発電と植物そのものの光合成でエネルギーを作り出し、二酸化炭素を減らして酸素を供給する。厚く覆われたツタの葉によりビルへの直射日光の照りつけ、壁面反射による光と熱を緩和した。ツタの道管を流れる水が断熱材として熱移動を防ぎ冷暖房エネルギーの効率を高め、冷暖房設備の削減と利用頻度の軽減はエネルギー利用負担を軽くするだけでなく都市部の気温上昇を抑え、ビルの屋根は展望台と言うだけでなく野菜栽培迄も可能にした。そして何より強靭なツタはビルの倒壊を防ぐ命綱となっていた。
「おはようございます、緑川さん」
「ああ、おはよう」
 彼は僕がちょっとした笑いを浮かべて挨拶したことに戸惑いを見せた顔をして僕の隣に並んだ。彼は僕と同じ目の前の世界を眺め、そして一呼吸置いてから話し始めた。
「日向君、連絡を有難う」
「いいえ」
 彼が何を言わんとしているのか僕にはわかっていた。
「君のことだから何かの間違いではないんだろうね」
「ええ。僕はもう長くない」
「……そうか。僕に何か出来ることはあるかな?」
「出来ればあの話を実現させてください」
「歌う草花?」
「そうです。是非彼らの歌を聴いてみたい。機械と融合した彼らの歌を」
「聴くに堪えないかもしれないよ」
「そうかもしれない」
 僕たちは壁面を流れる雲を見てひとしきり笑った。
「日向君、僕は一度、君とうまい酒が呑みたかったよ」
「僕もです」
「おっと……」
 手にしていたモバイルから宙に小さく飛び出たメッセージを見て、緑川さんは「ごめん。会議が始まる。そろそろ行かないと」と言った。
「僕もそろそろ仕事を始めないと」
「そうだね。そう言えば相変わらず君の職場では君のことを、新人社員だと思っているのかな」
「もう何度目かの」
「誰も君の本当の姿を知らない」
「そうですね。でも、他人の本当の姿なんてどんな人間だってわかりはしない。もしかしたら、本人だって本当の自分を知らないのかもしれない。それを知るのはモバイルたちぐらいですよ」
「そうだね。そうかもしれない」
 緑川さんは、手にしたモバイルを見て何度か頷くと、真っ直ぐに僕を見て「出来れば僕は長年一緒にプロジェクトに携わってきた君に会いたいよ。君はここにいるのだから」
「……有難うございます」
 緑川さんは「じゃあ」と言って踵を返し、フロアの角を曲がって消えた。僕の外耳に密着したインイヤーモニター(IEM)から「ニャア」と野苺の声が聞こえた。
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