雪原脳花

帽子屋

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間奏曲

lamentazione(13)

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「いたわ!こっちよ!」
 背中に大きくEMTと書かれ、腕には杖に巻きつく蛇をあしらった刺繍が施された上着の救急救命士は、大声で叫んだ。その呼び声に少し離れた場所で呼応した声は担架を持ってくるように近くにいた部下へ伝えると傷病者の元へ走った。
「どうだ?」
「呼吸、脈、あります」
 グレンの脇で膝をついていた救命士は上から降ってきた問いに答えると声を上げてグレンに呼びかけた。
「私の声が聴こえますか!」
 何度目かの呼びかけに横たわるグレンが薄っすらと目を開く。
「私の声が聴こえますか?名前を言えますか?」
『俺、生きてんのか……?』
 白くぼんやりとした視界に、人の顔らしきものが浮かんでいる。口を開いてなにかを話しているようにも見えるが音は聴こえてこない。
『やっぱ死んだのかな。こいつら天国にいる天使だったりして……いや、違うな、俺、本物の天使を見たよ。天使ってのはこんなんじゃない……ってことは地獄なのかな……だから何も聴こえないのか……』
 突然視界に眩い光が迷い込んできては左右に揺れ出した。
『ああ。また……キラキラだ……キャロル……』
「瞳孔不同はないな」
「はい」
「上出来だ。赤にして運べ」
「了解」
 男はペンライトをしまった部下に指示を出すと無線で病院へ連絡を取り始め、外に向かってその場を離れた。その姿を見とめて担架を持って走ってやってきた数人に、男は会話を中断させることなく視線で場所を示すと、救命士たちは歩みを止めることなく、だがところどころ崩れ、瓦礫が散乱する悪条件の現場の足元を確認しながら迅速に向かっていった。
 担架が到着し赤のタグが腕に付けられたグレンがその上に乗せられると、付き添っていた救命士はもう一度「聴こえますか?」と尋ね、虚ろに目を開けているだけのグレンに「これから病院に運びますからね。大丈夫ですよ」と優しく伝えると仲間に「行ってください。くれぐれも注意して」と外へと促した。
 グレンはいまだに無音の、音のない世界にいたが、灰色と白が混じったようなそして光がキラキラと舞っただけだった視界が端のほうから次第に色付きはじめた。そうして世界が色を取り戻したとき、自分が死んではおらずどうやら助かったようだと確信した。
『俺、生きてる……』
 教会の外に運び出されると離れた場所に集まった野次馬たちが見える。ぐっと近くに、マイクを手に持った女が見えた。その女には見覚えがあるような気がした。女は自分に向けて近付いてくるように見えたが、紺色とそして黒の制服を来た人間たちに阻まれたようだった。
『黒……だけど影絵じゃない……あれはおまわりだ』
 さっきみたような、もっと昔にみたようなアニメのように影絵が跳ね回る様子が脳裏をかすめると、ふとキャロルとの日常が細切れに次々と浮かんでは消えていく。それは次第にはっきりとした形を持ち、キャロルの笑顔とともに今まで思い出すことも、あったことすら忘れていた記憶がはっきりと溢れ出した。
生まれてから今日までの時間が目の前に映し出される。そして歌が聴こえてきた。まるで記憶のスライドムービーのBGMのように。
 この歌、俺、知ってる……あいつの歌だ。
 記憶が蘇る。フラッシュバックの向こうに道端にギターケースを開いて、アコースティックギターを抱えて座るアジア系の痩せた男が見える。いったいいつからそこで歌っていたのか、寂れた一角の舗装のはがれた荒れた道端でギターを抱えて歌う男。どこの国の人間かもわからない、尋ねたこともないのでアジア系とだけしかわからなかった。だが自分と同じく“普通”とか“一般”とか呼ばれる社会からはじき出された人間に思えた。だがその音は知らず教会に通うようになったグレンを惹きつけた。話しかける勇気はなかったが、教会へ行くときは必ずそこを通るようにして、その歌を聴いた。いつだってギターケースの中はほとんど空だったが、むしろそれは、その歌が自分だけの演奏に聴こえ、ちょっとした優越感に浸る半分、もっと誰かに聴かせてやりたいとも思った。
 あいつ、いつもあそこで歌ってるアジア系。いつからいたのかな。俺がここに出入りするようになってからだっけ。それとももっと前からいたのかな。全然わかんねぇ、理由も……わかんねぇ。だけど俺、なんかあいつの歌が好きで通るたびに小銭を投げた。でも今日は家に金を忘れちまって……だから代わりにボスからもらった煙草を、あいつが吸うかどうかなんてわかんなかったけど、なにか渡したくてギターケースに入れようと近寄ったら……あいつ突然変なことを言った。「この先には行かない方がいい」そう言った。
 そしてグレンは思い出す。「この先には行くな」と言ったとき、ギターを弾く手を止め、煙草をギターケースへ放ろうとした自分の手を掴んだ男の目を初めてはっきりと見たことを。いつもボサボサに伸びた前髪で隠れほとんど見えなかったその両目は、吸い込まれるような黒い瞳だった。まっすぐに自分を見つめる眼差しは、気圧されるほど強く、“行かなければ“と言う自分の感情と“行くな“と押し入ってきた相手の感情の板挟みにされ軽くパニックを起こし腕が震えたが、相手はまだしっかりと自分の腕をつかんでいた。腕に力を入れてもびくともしない。小柄で貧相なアジア系の男に片手でつかまれているだけなのに。
「は、は、は、はなせよ」
 小さく呟くように口からでた音に、相手は自分から視線をはずすことなくもう一度「行くな」と言った。そのときまっすぐに自分を見つめていた、やせこけて無精ひげだらけのみすぼらしい相貌には不釣合いな透き通った黒い瞳の中に一瞬青白い雷光が走ったように見えた。軽いパニックにおそわれ、くわえてその光にぎょっとしたグレンはありったけの力で身をひくと、男はつかんでいた腕を放した。
「な、な、な、な、なんだよ。お、お、お、おれ、行かなきゃなんねーんだ。し、仕事だ。おれ、ボスに言われて、すげえ大事な仕事まかされてんだよ。じゃ、じゃ、邪魔すんな」
 グレンはしどろもどろになりながら言い訳のように言葉をつぐと足早にその場を離れた。早足はやがて駆け足になり、数百メートル離れてようやく足を止めた。息が荒いのは走ったことだけが原因じゃない気がしていた。
 なんなんだよ……なんなんだ、あの目玉……光……なんだったんだ……。
『なんだったんだろう……』
 担架で運ばれるゆらゆらとした浮遊感の中でまた思い出す。記憶を取り戻したと、奇跡が、歌が聴こえてきたと言った男の言葉を。
 おっさん。俺、この曲聴いたことあるんだ。俺、思い出したよ。今、聴こえてるこの曲、知ってたんだ。俺にも奇跡ってやつが来てたんだ……。
 グレンの意識は曲に吸い込まれるように落ちていった。
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