雪原脳花

帽子屋

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第一楽章

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 双子を見送ったジムはメイン・エリアの外側に出るとまずはぐるりとその外周を視察することにした。エリア内からは機材チェックや本番を前にリハーサルを行うミュージシャンたちの音が時折聴こえてくる。会場の裏手にまわったジムはまた桜並木に出くわした。
 日本人は本当に桜が好きだな。
 ここと同じように街路に並ぶほとんどの桜はソメイヨシノと言う品種で、母をエドヒガン、父をオオシマザクラとするクローン体だとロンが口を開き始めたのを思い出す。クローンである桜たちは個の集合からなる大きな一つの思念を増幅させテレパスを使い人を惑わす。だからこのクローン植物で囲まれた土地日本では、古来より桜が人をさらう、幻覚を見せられているのだと驚くほど真剣な眼差しでロンは語り続け、同意を求めてくるロンとそして話に取り込まれたフレッドに、クローンだからと言って同一意識とは限らんだろう、と返す前にロンがホリーにどつかれてクローン桜テレパス談は終了した。
 その人を惑わすテレパスだか幻覚やらのおかげでソメイヨシノが日本のそこかしこに生息し日本人に愛されているのかはわからないが、少なくとも大きく育った樹のおかげで日差しは和らぎ涼しい風が通り抜けていく。木漏れ日の先には高層ビル群がつくる巨大な緑の森が見える。首都陥落以前の日本に来たときに比べれば、格段に過ごしやすく心地よい場所となっていた。
 そよぐ風に乗ってあの曲がふと脳裏に蘇る。この曲を最初に聴いたのは戦闘から戻ったわずかな休息の時間、生き残った仲間と囲んだ野営の夜だった。終わりはないのかと尋ねたその男の背後の空に月が浮かんでいたのを思い出す。記憶の中、砂漠の月に猫のにんまりとした顔が映り、ジムは古い記憶の再生を即やめた。
 今朝、双子に起こされたあと手紙が届いた。上質の紙にはまた謎々が書かれてあった。

“聴いてごらん。きっと音が聴こえるはず。それから君たちの獲物にまとわりつく音にも気を付けて。ブージャムの足音が聞こえるかもしれないよ”

 今度こそジムは煙草の火で手紙を焼いてやった。だいたい幽霊がわざわざ人間を偽装して厄介な現世に出張っているというのに手紙を寄越すとはどういう了見だ、と文句の一つも言ってやりたがったが、変人猫は変人大佐に貸しがあるようだし、そんな変態どもを相手にしたところで時間の無駄だと瞬時に判断したジムはベッドに戻ろうとした。だが馬鹿でかい口で笑うにやけた猫の顔がまとわりつき眠りに戻れば悪夢を見そうな気配がしたので、仕方なくブライアンの部屋へと向かったのだった。
 気付けば終わりのない歌を口ずみながら巨大なステージの裏側を眺めジムは歩いていた。ふと、ジムの前を一人の男が桜に誘われるように歩いているのが目に留まった。キャップを深くかぶった男は歩道ではなく、土の感触でも確かめるように歩道脇を歩いていた。ジムはその男の足取りをしばらく見つめると、やはり小さく口ずさみながらその後ろを歩くことにした。風や光、時折木々に触れながらゆっくりと歩く男だったが、距離が近くなったジムの方を突然振り返ると、その拍子にうねった根の一つに足をとられよろめき倒れかけたが、その体をジムがつかんだ。
「あ、りがとうございます。助かりました」
 男は驚いた様子でジムの顔を見た。
「……」
「日本のかたですか」
「いや……」
 皮下の血液が透けるほど色素のない肌、キャップからのぞく白金の髪、よろめいたはずみに落ちたサングラスから露となった自分を見つめる瞳は精巧に出来たバイオニック・アイだった。ジムに引き上げられ男は立ち上がると「すみません」と言ってすぐに自分の足を確認した。すそからのぞいた足は、ネオジーン製の義足だとジムは気付いた。
「脚を壊したら怒られてしまう。だが、あなたのおかげで問題ないようです」
 男はサングラスを拾い上げたがそれをかけることはせず手の中にそっと握った。
「……」
「……以前。どこかでお会いしたことがありますでしょうか」
 男はまっすぐジムをみつめ、どこまでも透明で消えることのない振動を続ける音なのではと感じさせる声でジムにたずねた。
「いや」
「さきほど、風にのって曲が聴こえたのですが、あなたですか」
「いや」
 男は周りを見渡すが自分とそしてジム以外の姿は見えなかった。だがジムの変わらない表情と短い言葉にそれ以上尋ね続けることはしなかった。
「そうですか。では気のせいかもしれませんね。しかし、あなたはどこからやってきたのですか? 突然現れたように。まるで桜に攫われてきたようだ」
「ただ歩いていただけだ」
「よろしければ、ほんの少しだけお話出来ませんか」
 男はそう言って近くのベンチへと向かい、歌うときとはまた違う音だな、と思いながらも玲瓏たる声音に誘われるようにジムはそれに続いた。
「てっきり桜が私の願いを聞いてくれたのかと思いました。さっき聴こえた曲が……そしてあなたの声が、私の会いたい人にとてもよく似ていたものですから。桜が攫ってきてくれたのかと。桜にはそう言う話があると日本の友人に聞いたことがあるんです」
「……」
「ここはいいですね。平和で。緑が多くて。こうして蒼々とした樹木たちが日差しを遮ってくれるので、私のように日光に弱い人間でも光を感じながら歩くことが出来る。他ではいくら遮光クリームを厚塗りしても、こうはいきませんから」
「……そうか」
 ぼそりと返したジムの表情からはなにも見て取れなかったが、男は微笑み、手に持っていたサングラスをジャケットにしまうと正面に立つメインステージの背面セットを見ながら静かに話し始めた。
「昔、ある人が闇にのまれ死の淵に横たわった私を救ってくれました。そのとき私はあるはずのない光を見ました。感じたと言ったほうがいいかもしれません。朦朧とした意識の中でその人は私に『生きてくれ 歌ってくれ』と言っていました。その声を光と感じたのかもしれません。そしてその光の声を忘れたことはありません」
 風に揺られた葉の音にでも耳を貸すようにほんの少し男は口を閉じた。
「けれど病院で目覚めた私の前にその人はおらず、その時の誰に尋ねてもそんな人間はいないと言うのです。ある時一人の男がやってきて歌を聴かせてほしいと言いました。私が歌い終わると『素晴らしい。君は生かされるべきだ。僕は君に光を与えよう。そして自らの力で立ち上がり生きるための足も』と言って男は去って行きました。それからしばらくして、今度は深い声の男がやってきて私に言いました。私が聴いた声の主を尋ねることも、私に起きたことも、私が瞳を失う前、生まれ育ち見聞きした全ての過去を忘れるならば光の世界に迎えようと、新たな人生を与えようと言うのです。私は命の恩人を探すどころか、闇に葬ることによって生かされ、そして私はそれを選択してここにいる。私は過去を捨て、名前を捨て、国を捨て、語るべき真実を捨て、恩人を捨てて生きています。私は恐らくあの地獄の唯一の証人なのでしょうが、彼らは私が口を閉ざしている限りは私を生かしておくことにしたようです。私は失った自分の瞳の色さえ思い出せない。あのときあそこにいた同胞の痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、無念の全てを過去とともに忘却してしまった。ただ一つだけ。『生きてくれ 歌ってくれ』 と言った声だけを残して」
 美しい声は、だが悲しみと深い悔悟に満ちた懺悔にもにた男の語りは静かにジムの耳に届いた。

 抉り取られたばかりの眼球にあった虹彩の色は。
 夜明けの市民薄明の空、闇から光へと移り変わる希望を待つ静かな空。安息の静けさと生命の躍動を感じさせる青と赤が混在する朝焼けの美しい空の色だった。
 出来ることなら回収してやりたいと思った。

「……忘れることが出来るなら、忘れてしまえばいい。過去に耳を傾けても幽霊は何も語らない。現在いまと未来だけを見て、光の中を歩いて行けばいい」
 ジムの言葉に隣に座っていた男の目から涙がこぼれた。
「私は……彼らが隠そうとするかぎり、彼はどこかで生きていると信じています。私は彼に感謝を……あなたは幻影などではなく、たしかにそこにいて私を救い、闇に葬られるべき人間ではなく、心からの感謝を受け取るべき人間であると。万人に向けた歌で伝えるのではなく、たった一人の彼にそう言って伝えたいのです」  
 涙の止まらない男のジャケットから振動音が聞こえた。
「ああいけない。抜け出したことがバレてしまったようだ。大騒ぎにならないうちに戻らなくては」
 ハンカチを目にあて、服の涙を払った男はモバイルを確認すると立ち上がった。
「宜しかったらあなたの名前を教えていただけませんか?」
「……ジム」
「もう会えませんか」
「会うことはないだろう」
 立ち上がったジムを男はじっと見つめ、手を差し出した。
「ありがとう。ジム」
 ジムは差し出された手を握り返し、広く自由な空の青をした男の人工の瞳をのぞいた。
「……マジックアワーを知っているか? 太陽が昇り始めるほんの束の間、黎明の空が、光が闇を覆うように美しい紫に染まる時がある。それが……君の瞳の色だ」
 にわかに風がいたずらに舞って男のキャップを飛ばそうとしたがジムの腕はふわりと浮いたそれをつかみ、男は握られた手を離すとジムを強く抱きしめた。
「ありがとう。そして……さようなら。私の天使」
 そう告げると、男は体を離しサングラスをかけた。
「そのキャップもらってください」
 ジムが手にしたキャップを見てそれだけ言うと、男はもうジムに振り返ることはなく遠くから走って来るスタッフに手を挙げて向かっていった。その背中をジムはしばらく見つめていたが、吹き抜ける風に促されハミングを再開すると踵を返し歩き始めた。

 Avian(アヴィアン)
 天使は君だろう。闇など忘れてしまえ。光の中をどこまでも高く飛べばいい。

 その風が通りぬける離れた先で。もう一人、男が風に乗る終わりのない曲に耳を傾けていた。
 お前か。
 お前なのか、ジム。
 お前はまだ犬のままか。
 そうか。お前はその曲の最後を知らないんだな。
 ……もしお前が俺に牙を剥くのなら、お前の最期にその曲の最後を聴かせてやるよ。
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