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第一楽章
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しおりを挟むジムはパナガリスのオフィスのドアの前に立っていた。センサーが自分を確認している気配を感じるところまではいつも通りだったが、その後開かれるべきドアが開かない。ドア近くのカメラのレンズと目を合わせても、うんともすんとも反応がない。
ジムはドアをノックしようとして遮音であることを思い出し手を止め、カメラ近くのパネルに手を翳すと表示された幾つかのアイコンからベルマークに触れた。
パネルには、“ding-dong(ピンポン)” と数回表示されたが返答はない。
ジムは自分たちの部屋でブライアンが目の前の差し出したタブレットから浮かび上がっていた呼出時間を思い出す。ここまでの距離と歩速を考えるとタイムリミットはもう僅かだ。残り時間表示が赤く点滅するのが見える。遅刻などとくだらないペナルティでマイナスポイントをつけたくはなかった。
「失礼します」
ジムは中には聞こえないことは百も承知で一声掛けると今度はベルではなくドアオープンのアイコンを選択した。
なんてことはなく普段通りスライドしたドアの向こうからは、なんともにぎやかな普段とはおよそ毛色の違う音が流れて来た。
Marry the Night(♪)……ガガ?
ジムが鳴り響く曲に耳を傾けながら入室しデスクまで進むと、その上には最近では珍しい紙の書類やファイルの山が連なり、呼び出した主はその盆地で腕を枕にして(恐らく)寝ている。睡魔に勝てず落ちたのか、気絶したのか、ただただ寝たのかそれはわからなかったが、ジムは聳え立つ紙の山々が机の揺れによって雪崩を起こし、不幸にも上官が紙に埋もれて遭難する姿を予見した。――検討の結果、ジムは山に刺激を与えないよう静かに机を数回ノックした。机の振動にはっと気付いて顔を上げ、部下の姿を認めたパナガリスの顔にはありありと疲労の色が伺えたがジムは知らないふりをした。パナガリスの首元で普段は制服の内側にしまってあるクロスが揺れる。
「パナガリス少佐、ご用件は?」
相手が気まずい雰囲気を醸し出す前に、ジムは事務的に処理を開始することにした。
「た、大佐から大量の資料精査を言い渡されて、これはその一部です!だけど、紙には慣れなくて、検索は出来ないし、煩雑でフォーマットは整ってないし、スペルミスは可愛いもので、そもそも文章構成以前に何を言っているのか理解不能。手書きに至っては文字なのかすら判読不能な状態で、そもそも読めた内容も荒唐無稽な気がします。ページをめくり続けたら皮膚の水分は吸われるし指は切るし……徹夜続きで朦朧としてきたので曲を……」
当のパナガリスはジムの気遣いなどことごとく吹き飛ばす勢いでテンパっていた。
「!」
自室にけたたましく流れる曲に気付いたのかパナガリスは慌ててタブレットを叩いて再生を止める。
……ヘイルストーム
ジムはぼんやりとガガの次に流れはじめ、そして盛り上がりを見せるその直前に断ち切られた曲のサビを頭の中で再生してみた。
「わ、私が、バッハやヘンデル以外を聴くのがおかしいですか?」
「いや(俺は何も言ってない)」
「私はピンクもビヨンセも好きですしMJだって聴きます!」
「……(俺は何も訊いてないだろう?)」
息を荒くして矢継ぎ早に捲くし立てる今まで見たことのない上官をジムは静かに見下ろし、静かなジムを見上げたパナガリスはその凪いだ表情に長い息を吐くとようやく落ち着きを取り戻したのか自席の惨状を眺めミーティングテーブルを指差し「向こうへ座って」と命令した。
マグカップになみなみとコーヒー、それから砂糖を入れて混ぜ、最後に豆乳を注いだパナガリスはジムの前に座った。クマのできた目で重たそうな目蓋を支えていることから、お気に入りのソイラテももうあまり役に立っていないことが伺える。
支給される砂糖の代わりに、100%グルコースでもそのマグに入れれば少しはマシになるんじゃないかと、半ばボーッとしながらタブレットを机に置き、ヨレヨレとファイルを開き始めたパナガリスを見てジムは思った。
「ジム、あなたはこの後、部屋に戻ったらすぐに出発を。行く先は招待状の差出人のところ。大佐からは “遅刻をするな” とのことです。私はこの件については伝令のみですが大佐は『ジムに質問はないはずだ』と仰っていました。本当?」
ジムを覗き込むように確認するパナガリスは、テンパるだけでなく徹夜の勢いでどうやら少しハイになっているらしい。そこまで追い詰められる資料とはいかなるものなのかと、ジムはパナガリスには無言で頷きならがらファイルと紙の山の端々からのぞいていた書類の一部を思い返していた。
「ブライアンとロンとホリーには、明日からの準備を開始させ、2時間後にセンターへ出発するよう指示を。あなたはお茶会?……お茶会? のあと彼らと合流してエリックとフレッドを迎えに。チームでこちらに戻り次第、引き続き明日からの準備を行うように。ではこれから作戦を説明します」
なんとも纏まりのない散らばった喋りのままパナガリスが机の上に広げた宙空のファイルを展開すると、次のターゲットらしい男が宙に浮かび上がった。
「ターゲットは、タケシ・ヤング。日系人らしいですが個人特定情報は無く、詳細不明。この映像も、年代不明の僅かなデータから作られた合成です。現在、更に姿形を変えている可能性もあり、対象特定の高い確度が取れていません。今回の作戦、ステップ1、偵察及びデータ取得。双子をこの男に接触させ情報を取得。取得データを元にこちらで検証、次段階への判断を行います。捕獲対象と判断された場合、ステップ2、生け捕りに」
「クリア条件は “Alive(生け捕り)” か」
「そうです。但し、命があっても脳に重大な損壊を与えたり、データの引き出しが出来なくなるダメージがあるようではクリアにはならない。可能な限り傷のないきれいな状態でとの命令です」
ジムは宙に浮く男を手を振って回転させてみた。
一体こいつが何だと言うのだ。難易度、面倒を高く引き上げる理由は。
確かにアジア人には見えるがこれと言った目を引く特徴がまるで無い。どこにでもいそうな男。まるで意図して平均の中の平均の姿にすら見える。
「場所は日本、LIVE BAND AID? これが貴重な情報を手に入れたあの男の作戦か?」
「いいえ。ジョーンズはもうここには居ない。詳しいことは私も知らされていない。ジョーンズは転がるように消え私には大量の資料精査が課された、それだけです」
パナガリスはジムが何を言わんとしているのかに気付いて視線を落とした後、今度はジムの目を真っ直ぐに見て答えた。ジムは疲れ切った相手の目の中に疲労とは別の影を見た気がした。
「この会場じゃないとダメなのか? 偵察にしろ捕獲にしろ他にも方法がいくらでもあるだろう」
「全て指定です。この命令指示書にある状況が偵察及び捕獲に最適だと計算されたようです。ジム、この人間には固有パターンがほとんど無いそうよ」
パナガリスは宙に浮いたファイルの一箇所に赤丸を付けてジムに示した。
「そして確認するまでもありませんが、あなた方は、見えず、聞こえず、存在せず。そこにあってはいけない。それは我が国の軍や大使館が相手だったとしてもです。わかっているでしょうが、日本では、武器、特に銃器の使用にはいつも以上に注意を。日本の、それも東京の監視体制には注意が必要です。本当に、ハヤマのせいでやりづらい……」
仕事モードを繕う余裕もすでに無いのか、素でブツブツ文句を呟くパナガリスはソイカフェでそれを何とか飲み込んだ。
「現地サポートは捕獲後の脱出ポイントのみです。くれぐれも注意を。今回の作戦、あなた方はあくまで一般旅行客、イベントスタッフとして存在するのです」
ジムは、酔狂な変人を飴玉男以外にもう一人知っていることに気付いた。この作戦をオーダーしたのは変人レスター大佐だろう。今度から奴のことは変人と呼んでやろうと思った。
命令書のデータを受け取り部屋を出て行こうとしたジムが気付かれないように小さく振り向くと、自席に戻ってハンドクリームを指に塗り込み、フンと鼻から息を吐いて紙と取っ組み合いを再開しようとするパナガリスが見えた。
廊下に出ると定期巡回中の兵士の横にロボット軍犬がピタリとついて歩いてきた。使用用途から考えれば犬の姿をしている必要もないだろうに、配備されているロボット犬はわかりやすく犬の姿を模していた。犬だけじゃない。虫、鼠、猫、犬、虎、どれも自然界の動物の姿に似せて造られている。それだけ自然の姿は理に叶っていると言うことなのだろうか。それとも。人間はやはり自身が存在する世界以外のなにものも、存在を許すことはないのだろうか。
どうせならドラゴンにでもすればいい。
ジムは自分の脇を目を輝かせた双子が乗るドラゴンが歩く姿を描き出す。その後ろを、ロンとホリーとブライアンが笑いながらついていく。
ドラゴン……?
馬鹿だな俺は。何を考えている。
……スナーク……ビースト……。
自嘲したものの、ジムは脳裏に何度も写真のように記録された記憶を広げていた。パナガリスを生き埋めにしようとしていたファイルの隙間からのぞく書類、そこに書かれていたのはどれも怪物の名前だった。
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