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恋華繚乱

93.

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 風呂場での打ち身の痛みは、さいわい長引くことなく。
 新たに入った使用人達のおかげで、まさにその翌日から、冬乃の掃除の持ち回りもかかる時間も大幅に減って、
 さらには、彼らが厨房の仕事にも慣れてくるにしたがい、冬乃はこのところ、以前より増して昼さがりの休憩を満喫できるようになっていた。


 沖田のほうはあいかわらず忙しそうで、あれからも一日一度くらいは食事時に顔を合わせるものの、あの夜に何か言いかけた内容について言ってくることはなく。
 
 気になり続けてはいても、沖田から何も言わないのに冬乃から聞くべきでもないように思われて、冬乃は黙っている。
 
 (ていうより忘れられてる?)
 元々たいした内容ではなかったのかもしれない。
 
 沖田と何であれ会話ができたら、それでひとまず満足な冬乃にとっては、
 食事の席で隣合わせた時に、沖田がとくに前ほど距離を置くようでもなく適当な世間話をしてくれることだけで有難く。
 冬乃は今も、今朝の朝餉の席で沖田がしてくれた話を想い出してくすりと笑ってしまいながら。畳に横たえた身を障子側へ向き直して。
 
 
 そういえばこの使用人部屋の、真新しい畳の匂いもだいぶ和らいだように思う。
 
 (もう引越ししてきて一か月以上たってるんだよね・・)
 
 ものすごくあっという間だった気がする。
 あと少しもすれば、土方たちが藤堂と共に帰ってくる。藤堂と長らく会っていない冬乃は、その日が待ち遠しくもあり。どんな顔で会えばいいのか、少し怖くもあった。
 
 (ごめんなさい)
 山南と再会させてあげられないこと。彼の運命を知っていながら、その死を避けるすべが無かった自分の非力さに。
 昨年に江戸へ立つ時の藤堂が、もう二度と山南と会えなくなることを一体どう想像できただろう。
 
 
 冬乃は、今なお滲みはじめる涙を手の甲で抑え、起き上がった。
 
 そろそろ掃除に出なくてはならない。
 
 晩春の穏やかな気候に、
 少し開けたままの障子の外からは、暖かい日差しと、気持ちのいい風が時おり舞い込んでくる。できるならこのまま昼寝でもしたいものの。
 さすがに今日はお孝が休みなので、あまり長すぎる休憩はとれないだろうと。

 
 
 
 (でもやっぱちょっとだるい・・)
 
 空は、こんなにも澄み渡っているのに。
 箒を手に、今日の持ち回り箇所へと移動しながら。冬乃は溜息をついた。
 
 
 隊士部屋へ滞在する時間を含め、掃除で屯所各所を動き回る時間は、総じて短くなったとはいえ、
 
 あいかわらず隊士たちは例の競争に励んでいるらしく、掃除中の冬乃の前に出没しては、冬乃を煩わせているのだ。
 
 しかも使用人が増えたことで、冬乃に時間の余裕ができていることは判然たるわけで、
 もう休みまで忙しいはずがないだろうと、却って以前よりもしつこくなっていて。
 
 いいかげんに。冬乃の、愛想を保って波風たたせぬそんな努力は、限界にきていた。
 
 正直、掃除の時間は憂鬱ですらあり。
 
 
 冬乃は今も、さっそく冬乃を見つけてこちらへ向かってくる数人の隊士を視界に、つい顔を強張らせた。
 
 
 何度断ろうと、こりもせず再び誘ってくる。その根性とすら呼べる彼らのしつこさには、最初の頃はむしろ感心すらしてしまったものだが、
 そんな感心など当然、長くは続かず、今や心労でしかなく。
 
 
 (・・・いいかげん、態度悪く接してみたら止めてくれるのかな)
 
 時間に余裕ができている今、たいして仕事の進捗に差し支えるわけでもないのだから、自分さえ我慢していれば済む話だと。
 彼らも日々の厳しい隊務の合間で、一種の道楽として楽しんでいる様子で。まして、悪気があるわけでもないのだからと。
 そんなどこか変な自己犠牲のうえに、ここまでずっと、冬乃は粘り強く対応してきたが。
 
 
 「冬乃さーん」
 
 (もう、限界かも)
 
 
 「そろそろいいでしょ?俺もうお願い何度目かなあー」
 にやにやした顔が、冬乃を覗き込む。
 
 (こっちが聞きたいです)
 
 周囲の男達も、「今夜こそどうよ」と冬乃を取り囲んで。
 
 「すみません、本当に何度お誘いいただいても、お断りいたしますのでもう、」
 「またまたあ」
 冬乃の言葉を遮るように、目の前の男が冬乃の箒に手をかける。
 「ほんとは、そんなこと言って、誰にしようかそろそろ決めてるんじゃないのー?」
 
 「なあ。誰がいいんだ?この際、俺達に先に教えてくれよ」
 「おめーそしたら諦めるのか?」
 「いや、そいつと一緒に俺も行くだけだし」
 「だめじゃねえかよ」
 男達が勝手に話を進めてゲラゲラ笑い出す。
 
 「本当に、どなたともご一緒する気はないんです。もうお誘いいただくのはこれで終わりに・・」
 冬乃は何度目になるかわからぬ台詞を今日もまた、口にしようとした。
 
 「お高くとまってんなよ」
 
 箒を握り込んでいる目の前の男が、声音を変えた。
 
 「ちやほやされてイイ気になってんだろうが、いいかげんにしろよな、どこまで頑ななんだよ」
 
 
 冬乃の中で、張りつめていた糸が。
 
 ぷつん、と切れた音を聞いたのは。空耳ではないだろう。
 
 
 「・・・いいかげんにするのは、貴方がたでしょ」
 
 「おい、おめえら」
 突然、背後から、これまた聞き覚えのある声が降ってきて。冬乃は振り返った。
 
 「なんで冬乃さんを怒らせるようなこと言ってんだよ、どんだけ馬鹿なんだい」
 そう、この男も、何度も何度も誘ってくるうちの一人ではないか。
 
 「全くですね、忍耐というものをわかってらっしゃらない」
 声をかけてきた男の隣には、あの池田が居て。
 例の如く、きりりと言い放った。
 
 「つまり女性の口説き方を御存じない」
 
 「んだと、てめえ」
 「あんただって今の今まで誘えてねえじゃんか」
 
 「女性がなびかないことに苛立つようでは、そのうち誘えるものも、誘えなくなるという事です。ま、貴方がたは、これで土俵を降りて、おとなしく僕たちの健闘を見守っていてください」
 
 「あの、」
 
 冬乃は割り込んだ。
 
 「すみませんけど、全員、その土俵を降りてもらえますか」
 
 冬乃の切れた糸は、とうてい戻りそうにない。
 「さっきも言いかけましたけど、いいかげんにしてください、」
 
 「すごく迷惑してるんです。何度繰り返しても私の返事は同じです。皆様全員、もう誘うのは止めてください」
 
 
 「・・・・」
 
 場は静まりかえった。冬乃は、ふうと一息つき、囲まれた輪から抜け出そうと、出口を探した時。
 「冬乃さん、」
 池田がそのきりっとした表情のまま、冬乃を見据えた。
 
 「前に僕に、どなたか懸想してるお相手がいると教えてくれましたね」
 
 池田の発言に、まわりの男は驚いたように池田と冬乃を見た。
 
 「なんだよ、それ」
 「聞いてないぞ」
 「俺、それ噂で聞いたことある。本当だったのかよ」
 「どこの野郎だよ?」
 「隊内か?」
 
 男達が口々に騒ぎ出す中。
 池田が、じっと冬乃を見詰めて尋ねた。
 
 「その方とは、どうなりましたか」
 
 
 冬乃は、この場を一刻も早く去りたかった。ならば池田に何と返せばいいのか、なんとなく想像できて。
 
 「お答えする義務はありません」
 
 一瞬の思案が、池田に生じたのを見とめ。冬乃はその隙に、箒を強く引いて、握ったままの男の手から離すと、輪の外へ出ようと身を滑らせた。
 
 が、
 「ちょっと待って」
 「待てって」
 はっと気がついたように周りの男達のほうが、冬乃の腕をそれぞれ掴んで。
 
 池田も我にかえったように、冬乃に数歩近づいた。
 
 「いいえ答えてください。少なくともこの中で僕だけは、それを聞く権利はあると思いますよ」
 
 「どういう意味だよ?」
 「なんでだよ!」
 再び周りが騒ぎ出す中、冬乃は池田が『不戦勝した』件を挙げているのだろうと思い至り、諦めて池田を向いた。
 
 「ならお答えしますが、その人とはどうにもなってません。ですが、」
 冬乃はそして、この、冬乃とそう歳の変わらなそうな男達をぐるりと見回した。
 
 「どうであっても、貴方がたに全く関係が無いことです」
 
 「関係ないわけないだろよ!」
 「大いにあるッ」
 男達はとたんに喚き出し。
 
 「そうだ、こんだけ焦らしておいて!」
 
 (焦ら・・、はあ?)
 もはや目を剥く冬乃に、
 
 「今更、あんたのそんな片恋なんかで諦めるわけにいくかよ、相思ならまだしも!」
 「だよな、ここまで俺たちを弄んでおいてよ・・!」  
 (も、)
 「弄んでなんかないけど!散々断りましたよね?!」
 
 「あんなの、気を持たせてるんだと思うだろ!」
 
 (なんでそうなるの・・?!)
 
 
 
 「何を騒いでる」 
 
 不意に輪の外から短く発された、威圧のある声音に。
 冬乃も男達も、びくりと声の主を見やった。

 
 (沖田様!・・と、茂吉さん?!)
 
 沖田の少し後ろには、何故か茂吉が畏まったふうで立っていて。
 冬乃は思わず二人を交互に見つめてしまった。珍しい組み合わせに、冬乃の周りの男達も放心した様子で沈黙し。
 
 
 「何か争い事ならば聞くが」
 
 続いた、沖田のどこか試すような問いかけに。
 
 冬乃ははっとして周りの男達に視線を奔らせた。男達は、ある者は顔を赤くし、ある者は蒼褪めた顔になって一様に首を振ると、そのまま居心地悪そうに俯いただけで。
 
 
 「何も無いなら、今すぐ仕事に戻れ」
 
 沖田の低い声が抑揚もなく命ずるのへ、そして男達は慌てて一礼すると急いで散っていった。
 
 
 「冬乃さん、話があります。来てください」
 次に向けられた、業務的な沖田の口調に、
 
 「はいっ」
 冬乃も慌てて頷いて。
 
 茂吉がちらりと冬乃を見た。その眼がこころなしか寂しそうに見えたことに驚いた冬乃へ、
 
 「で、先程のような言い争いは、これまでにも何度かあったの」
 前を歩む沖田の背が振り返らぬまま、突如そんなふうに投げかけてきて。
 
 「いいえ・・!今回が初めてです・・」
 
 そういえば沖田は一体どこから聞いていたのだろう。そう思えば、冬乃は眩暈がしてきた。
 冬乃が懸想している相手だとか、片恋だとか、そういう単語が出ていたではないか。
 
 恐々と沖田の背を見上げても、だが沖田はそれからは一言も発することはなく。
 
 
 やがてそんな沖田に連れてこられた先は、何故か幹部棟だった。
 
 冬乃がおもわず隣の茂吉に目を合わすと、茂吉は再び、やはり確かに寂しそうな眼を返してきて。
 
 二人の前で沖田がまっすぐに玄関口から中へと入ってゆく。

 
 「先生、」
 まもなく沖田は、ある部屋へと声をかけた。
 
 「おお、入ってくれ!」
 すぐに近藤の声が襖の向こうから返って。
 沖田は襖を開けた。
 
 
 「冬乃さん御足労すまないね、茂吉さんもお忙しいところ申し訳ない」
 
 沖田に続いて部屋へと入ると、近藤の優しい笑顔が見上げてきて。冬乃は深くお辞儀で返す。


 西本願寺に引っ越してからは、幹部棟も局長部屋も入るのは初めてだった。
 女使用人部屋は幹部棟に横付けされてはいるものの、壁でしっかりと仕切られており。
 
 以前に聞いた沖田の話では、各幹部に個室が割り当てられているようで、
 近藤も、局長部屋を仕事部屋、兼、寝室として利用しているとのことだ。
 
 部屋は各人が自分で掃除をしており、冬乃たちが入ることは無い。
 
 
 やはりここも真新しい緑色の畳に、冬乃たちが畏まって座ると、
 
 「じつは、」
 
 近藤がさっそく切り出した。
 
 
 「冬乃さんには、私の付き人をやってもらいたいんだ。まあ小姓のようなものだ」
 
 
 (え・・・?)
 
 「はは、驚かせてすまない。やはり総司からまだ聞いてなかったようだね」
 総司の勧めなんだがな
 と近藤が微笑い。
 
 (沖田様の?)
 さらに驚いた冬乃が、斜め前に坐す沖田を見やると、
 
 「付き人と言っても、とくに外へ私の供に出てもらうことはないよ。まずは私がここに居る間、できれば皆のぶんも含めて茶の用意だとか、軽く掃除だとかを頼まれてもらえると有難い」
 近藤がにっこりと告げて。
 
 (わ・・)
 「勿論です・・!あ、・・」
 
 「どのくらいの割合・・でしょうか?使用人の仕事と・・」
 隣に座る茂吉を一瞬見て、冬乃は尋ねていた。
 
 「冬乃さんには、今この時から、近藤局長の付き人としての仕事に専念していただきます」
 冬乃のほうへ斜めに向き直りながら沖田が、つと代わりに答えた。
 
 「え」
 
 「不服ですか」
 
 「いえ、そんな」
 冬乃は慌てて。
 
 (でも・・)
 
 茂吉のほうを見ると、彼は何かのドラマで観たような、嫁に送り出す父親のような顔をして冬乃を見返してきて。
 
 (茂吉さん)
 
 「あの、これまでお世話になりました・・」
 
 おもわず冬乃は、茂吉に手をついて礼をした。茂吉が「こちらこそおおきに」と返してくれて。
 
 「同じ屯所内なのだから、いつでも顔を合わせられますよ」
 沖田の、その淡々とした響きの中にも、どことなく温かみのある音を感じて冬乃は、こみ上げた想いに目の奥がつんと苦しくなった。
 
 「今夜の夕餉の席ででも、藤兵衛はんといったん挨拶したらええ」

 茂吉もそんなふうに気遣ってくれる。
 
 「はい・・!」
 
 「お孝さんとは尚の事、いつでも会えますね」
  
 次いだ沖田の言葉に、冬乃はほっと頷く。たしかに女使用人部屋としても兼用される冬乃の部屋だ。
 
 
 「それでは冬乃さん、これから宜しく」
 
 近藤が、再びその優しい大きな笑顔で冬乃を迎えた。
 
 
 「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
 
 冬乃は深々と手をついた。
 
 
 
 
 
 三人、近藤の部屋を後にし。玄関口で茂吉とも別れると、沖田は冬乃を手招いた。
 どきりとした冬乃に。沖田が「ついておいで」と再び中へ入ってゆく。
 
 先程の近藤の部屋の並び、玄関側の廊下の端の部屋に、沖田は入った。部屋の前で躊躇した冬乃に、「どうぞ」と沖田が振り返る。
 
 ここは沖田の部屋ということだろう。
 冬乃は、急速に襲ってきた緊張にぎくしゃくと部屋へお邪魔した。
 

 ・・・あまりの殺風景で。
 
 入って驚いた冬乃に、沖田のほうは「適当に座って」と促す。
 
 
 近藤の部屋には掛け軸も、不思議な形をした壺も置かれて、さすが局長の部屋という印象があった。
 が、此処はそういった飾りは皆無だし、文机や茶器や衣桁さえ無い。というより、全てが無い。あるのは床の間に行灯と刀置架だけだ。
 
 寝る布団や行李ならば、さすがに押し入れにあるのだろうけど。
 
 「この部屋には、帰って寝るだけだからね。先生と違って此処は接待するようなお客が来ることも無いから」
 冬乃の驚きを分かったようで、沖田が笑った。
 
 「でも文机も置かないのですか・・?」
 
 沖田なら江戸の知己に手紙を書くだけでなく、時には土方の代筆もおこなっていたはずだ、文机は必要な物ではないのだろうか。
 おもわず尋ねてしまった冬乃に、
 
 「使いたい時は、土方さんのところの文机を使う」
 だが沖田がけろりとした顔で答え。
 
 「元々あれは俺のだし」
 
 「・・え?」
 
 「京に来たばかりのころ物見遊山で出かけた帰りに、俺が、とある廃寺で拾った物」
 
 (拾った?!)
 
 「拾ってくれと云わんばかりに、あれが寺の門前に鎮座しててね。誰かが捨てていったのだろうけど、あの通りまだ使えるし、色も形も彫りも立派な物だったから拾って持ち返ったら、」
 
 「さっそく土方さんに取られた」
 笑っている沖田を前に、
 
 冬乃は息を忘れるほど、聞き入っていた。
 
 
 (沖田様の、文机だった)
 
 
 それはまるで、
 毎回冬乃が文机に戻ってくる謎の、ひとつがほどけて冬乃の前に姿を成したかのように、鮮やかに。
 冬乃の、息を奪って。
 
 「・・・冬乃さん?」
 
 
 「・・あ、・・の、驚いて・・しまって」
 
 まもなく焦って呼吸を整えだす冬乃の前。
 沖田が何か思い出したように微笑った。
 「そういえば、貴女は毎回、あの文机の上に倒れるようにして来るけど、」
 冬乃は、はっと目を瞬かせ。
 
 「この時代と貴女のいる未来とを繋ぐとんでもない物を俺は拾ってきてしまった、というところかな」
 
 
 ・・・きっと、半分正しくて、半分違います
 冬乃は胸内に小さく囁いた。
 
 拾ったのが沖田であったからこそ。冬乃がここへ来れたのではないか。
 もしかしたら、他の誰かが拾っていたなら、この奇跡は起きなかったかもしれない。
 
 (もしくは)
 沖田が拾ったことも含めて、必然な力が働いたのだとしたら。
 
 
 (わからない。だけど)
 
 冬乃に起こるこの奇跡は。やはり沖田と一番に関わりがあったのだと。
 
 それだけは、改めて、確信できて。
 
 
     
 



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