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声が聞こえた。
真っ暗闇のなかで、必死にわたしの名前を呼ぶような、男性の声。

なんだろう。体がとても軽い。ふわふわといまにも空中に浮いてしまいそうなくらいに。

手足が全部なくなったみたいな感覚。もしくは、海の上に浮かびながら寝ているような。

とても心地のよい空間だった。辺りにはなにも見えないのに、楽園にでもいるような気持ちになった。このままずっとこうして過ごしたかった。

「ーーっ」

また、声。誰かの熱量がわたしのところに降りかかってくる。

最初はなにも感じなかった。わたしはその声をずっと無視していた。遠くから聞こえているうちは、それでも良かった。

けれども、その声はやむことがなく、むしろ大きくなっていった。わたしは段々とうんざりするようになっていた。
静かにしてほしい。この空間を壊さないで欲しい。だから「もう、うるさいよ、お願いだから黙ってよ」とその誰かに言おうとした。

でも、言えなかった。思うように口が動かなかったから。もっと正確に言うと、のどに何かが詰まっているような感じだった。こうしているのには困らないのに、なぜか喉は塞がれていた。

ーー声は続いている。

わたしが何かを言わなければ、この声はやみそうもなかったけど、しばらく我慢するしかなさそう。きっと時間が経てば、諦めて黙るに違いないから、それを待つしかない。

それからどのくらいの時が経ったのか、その声は聞こえなくなった。わたしはホッとした。これで安心して眠ることができる。

眠る?

眠るのは、起きている人のすること。

でも、わたしはずっと、寝ているような気がする。だってこの心地の良さは、寒いときにベッドに入っているような感じだから。

じゃあ、どこで?ここは、わたしの部屋じゃない。真っ暗でもそのくらいわかる。
どのくらい?どのくらい寝てたの?わからない。とても長い間、こうしているような気がする。

そんな意識が芽生えたとき、わたしの耳に再びあの声が聞こえた。
前よりも弱々しい声。もうなにを言っているかもわからない。

でも、これってもしかして、わたしの耳がおかしくなっているからなんじゃ?
聞く能力が衰えて、それを声とは認識しなくなっているんじゃ。

そんな気がする。
でも、どうして?
起きて、確認してみなきゃ。

あれ?

動かない。というか、動かすべき手足がないよう感覚。頭でいくら動けと思っても、その指令は爪先まで届かない。

怖かった。わたしはその時初めて、この空間に恐怖というものを感じた。

ここは、異常な空間。人がいるべきではない場所。
どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろ。
暗闇のなかにいるのが当然だと、頭のなかで思い込んでしまっていた。

ここにいるのがとても楽で、どこかへ行こうという気力が一切生まれてこなかった。
唯一、この暗闇に入り込んでくるのが、誰かの声だけ。

その声は、わたしにとっての希望の光だった。

この声がなくなれば、きっとわたしは死んでしまう。
わたしはその声に、心の中で応答した。なんと言ったのか、自分でもよくわからなかったけど、喉の閉塞感を壊すくらいの気持ちで叫んだ。

「ーーっ」

するとその声は、とたんに大きくなり、暗闇の部屋をかすかに照らし始めた。
声が光をつれて、わたしのもとまで届いてくる。

「ーー莉子、聞こえるか、おれの声が聞こえるか!」
「……」
「そうだよ、おまえは芹沢莉子だ。わかるよな!」

海斗くん、わたしは反射的にそう言った。実際に言葉が出たのかはわからないけど、そういう意識は確かにあった。

「いいんだ、なにも答えなくていい。目を開けてくれれば、それでいいんだ。おれの声が聞こえるなら、莉子、なにか反応してくれ」

暗闇の部屋が光で満たされ、そのまぶしさがわたしのまぶたを揺るがした。光を追い出すように目を開くと、間近なところに誰かの顔があった。

「……海斗、くん」

絞り出したようなかすかな声でも、聞こえるくらいの近さだった。

「莉子、莉子!」

海斗くんが泣いている。わたしはその水滴を顔面で受け止めている。

「珍しいね、海斗くんが泣くなんて。あのときだって、涙は見せなかったのに」
「しゃべらなくていいんだ。いまは無理をせずに休まないと。おれはいますぐ先生を呼んでくるから」

先生、というのは学校の教師でないことはすぐにわかった。
医者の先生のことだ。

わたしはすでに状況を理解していた。
ここは病院で、わたしはベッドに寝ている。
電車に跳ねられ、でも、死ぬことはなかった。
きっと動けないほど全身を骨折して、でも、生きている。

また、自殺に失敗したんだ。
わかってはいた。電車への飛び込み自殺が決して確実な方法ではないことくらい。わかってはいたのに。

「莉子?」

情けなかった。同じ失敗を繰り返してしまうなんて。バカみたいに笑いたかったけど、それはできなかった。包帯で固定されているのか、表情を自由に変えるのは難しかった。

「バラバラに吹き飛んでしまえ、そう、思っていたのに」
「無理にしゃべるなって言ってるだろ。大丈夫、目覚めさせすれば、医者の先生はなんとかなるって言ってるから」
「それじゃ、ダメ、なんだよ」
「わかるだろ、莉子。目を開けたってことは、お前に生きる意思があるってことだ。お前は生きようとしてるんだよ!」

そう、なのかな。わたしは生きたいの?
生きたとしても、できることなんてなにもないのに、それでも生に執着するの?

「頼む、諦めないでくれ。お前がいなかったら、おれも生きる意味をなくしてしまうんだ」

海斗くん、そんな悲しいこと言わないでよ。わたしは、前向きに生きる海斗くんが好きなんだから。

「わかった、から、泣かないで」
「おまえが生きてくれるなら、もう泣かないよ。約束する」

どうにか声は出せるようになっていた。ほとんど唇も動かせないくらいたから、きっと海斗くんは聞き取りづらいだろうけど、わたしの意思は伝えることができる。

「ねぇ、海斗くん、いま、ひとり?」

視界は完全には戻っていなかったので、病室の様子を観察することもできなかった。近くにいる海斗くんだけをぼんやりと認識できるような状態だった。

「ああ。莉子の両親と入れ替りで見舞いに来てるんだ」
「いま、何日?」
「いまはただ寝てれば」
「いいから、教えて、お願い」
「……7月の24日だよ」

7月の24日。あの日だ。

「何時、なの」
「いまは昼だよ。莉子の両親はお昼ご飯を食べに行ってるんだ。ちなみにおれはもう済ませたから、気にしなくてもいい」
「じゃあ、もうすぐだね」
「なんのことだ?」
「なんで、もない。それより、海斗くんは、帰っていいよ。両親とでも一緒にいたほうがいい」
「なに言ってるんだよ。一人じゃ不安だろ。おれがずっとそばにいるよ。あのとき、お前がそうしてくれたように」

あのとき。
中学生のときのこと。
事故が起きた、あのとき。
だからこそ、なんだよ、海斗くん。
わたしは、あなたにそばにいてほしくない。
だって、そんな資格なんて、ないんだから。

「ごめんなさい」
「え?」
「本当に、ごめんなさい」
「なに謝ってるんだよ。もしかして、線路に間違って落ちたことか?そんなこと気にする必要ないんだよ」

海斗くんも自殺だってことはわかっているはず。だってたくさん人がいたし、わたしが電車に乗る理由もないんだから。
それでも、事故だと言ったのは、わたしを気遣ってのこと。その優しさが、いまのわたしには辛かった。

「海斗くん、最後に伝えたいことがあるの」
「最後ってなんだよ、縁起でもない」
「あの事故ね、わたしのせいで起きたんだよ」
「……え?」
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