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アップルパイ

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 母は乳がんの手術入院を皮切りに、2、3年に一度ペースで手術入院をして、70代の10年間を費やした。

 乳がんの手術からちょうど2年後の2月。「バレンタイン豪雪」などと言われる大雪が故郷を襲った時期だった。

 幸いライフラインの途絶などはなかったのと、実家のお隣の息子さんが実家周辺の雪かきを手伝ってくれたことがあり、特に不便はなかったらしい。
 予定通り、大雪の三日後に主治医のもとで診察してもらうが、そこから突如、救急車で運ばれた。自覚症状は全くなかったが、心筋梗塞の疑いがあるとみなされたのだ。
 結局ステント手術を受けることになったのだが、緊急の上に少し遠方なので、病院にすぐ行くことはできない。
 病院からの『まだ着きませんか?』と、いらだちの分かる声が電話から聞こえ、やむなく「電話で仮に同意して、正式な署名は後ほど」ということで手術してもらった。

 手術自体は何とかうまくいったものの、緊急とはいえ独断で車で移動してもらったことに関しては、妻から文句を言われた。
 あのときは入院も1カ月に及んだので、俺はいったん車だけ家に置きにいってから、改めて電車で戻り、しばらくは実家と自宅を行ったりきたりの生活だった。
 思い切って、軽自動車でもいいから車を買おうと思ったほどだが、ほかに駐車場を借りなければいけないということで、妻が難色を示した。

「一家に一台で特に今も不便もしていないじゃない。お義母さんが退院されてから、もてあますんじゃないの?」

 妻はおはぎの一件以来、母とかなり距離を取っているので、母の情報は俺を通してしか知らない。
 余計な心配をかけたくないという俺の気遣い的なものがあだになり、事の深刻さを分かっていなかったのだろう。

 正直なところ、事情さえ許せば同居か、近所に住んで面倒を看るか――俺はさすがに今回の緊急手術で、それぐらいのことを考えていた。
 とはいえ、妻に仕事というか、長年勤めた今の職場を辞めさせるわけにもいかない。
 母の年金は、はっきり言ってかなり厚いので、今のところ金銭での苦労はあまりないが、例えば医療ケア付きの高級高齢者マンションで悠々自適というまでのことは考えられない。
 体が回復すれば、自分のことは自分でできるだろうが、これから年齢が上がっていけば、いつか限界が来るのも分かっている。

◇◇◇

 しばらくはバレンタインの置き土産のような雪がしつこく残っていたが、3月になる頃には少しずつ緩みを見せ、俺はママチャリでの病院までの道中、「今日は暖かだ。もう春かな…」などと思いつつ、洗濯物を持ち帰ったりしていた。
 母はもう自転車にほとんど乗ってないというので、後ろの荷台にもかごをつけたから、意外と大きな荷物の運搬もはかどった。

 本当はやりきれないもの、満たされないものを抱えつつ、生活の中で「何かいいもの」を見つけようとしてしまう、『少女パレアナ』のような性質が、実は俺の悪いところかもしれない。

 遠い昔、父が「お前は目のつけどころが面白いな」と褒めてくれたし、ライターになってからも、着眼が面白いと評価してくれる人もぼちぼちいる。
 本来なら大切にしたい特性だが、そのせいで他人の目には、大変じゃなさそう、辛くなさそうとでも映るのか、近しい人間が俺への“いじり”や当たりが強いのを感じるとき、「ああ、だよな…」と自嘲する。

「病院周辺の自歩道が雪で覆われていたとき、気付かなかったけど、徐々に溶けてきたら、何か漫画雑誌が見えてさ。それがめちゃくちゃどエロい雑誌だったんだよ。誰がどんな状況で落としたんだろうね。しかも雪解けとともに見つかるとか(笑)」

 書き起こすと大した面白くもないのだが、例えば妙にツボってしまったこんな話。
 多分母に聞かせても、クスリともしないで呆れるだろう。

◇◇◇

 昔、実家の近くに古いアパートがあり、ひとり暮らしの大学生や高校生が住んでいた。
 まだ子供だった俺たちは、暇を持て余した彼らに、広場で三角ベースボールや缶蹴りなどをして遊んでもらった記憶もあり、悪い印象はなかった。

 しかし、いつだったかごみ集積所に、大量のエロ雑誌(写真)が出され、雨に濡れていた。
 そこで(うちの母を含む)地域の女性たちが、「こんなのを出すのはあいつらに違いない。汚らわしい」と、アパートに押しかけて大学生たちに猛抗議をした。

 俺と兄は、一度だけ大学生のうちの1人の部屋に遊びにいって、コーラを飲ませてもらったり、ダウンタウンブギウギバンドのレコードを聞かせてもらったり、ギターにさわらせてもらったりしたが、確かにその部屋には「はだかのおんなのひとの写真」が載った雑誌があった。
 俺たちが興味津々の目を向けるのに気づくと、「あー、君たちにはまだ早いね~」とあわてて隠されてしまった。

 そんな“気遣い”のできる大学生氏が、誰もが見えるようなところに雑誌を放り出すだろうか。
 冤罪だったかもしれないし、ごみ出しに対しての意識が低かっただけかもしれない。
 今思い出すとただ、雨に濡れたエロ本に郷愁ノスタルジーを感じるだけの出来事だ。
 雪解けから暴露されたエロマンガに、それと似たものを感じたのだと思う。

 父ならきっと、笑ってくれたと思う。
 兄は――そもそもエロ本騒動なんて覚えているだろうか。

◇◇◇

 母に頼まれて、病院の売店に水を買いにいった。
 ついでに何か面白いものはないか――と、狭い店内を物色していると、他県の名物菓子を売っているコーナーが少しだけあった。
 普通のチョコレートやせんべいよりも高価だが、スペシャル感があるせいか、なかなか人気があるらしい。

 その中には、家族で旅行に出かけた際によく買うアップルパイもあった。
 「シラノ・ド・ベルジュラック」に登場する菓子店に由来するという社名のもの(**下記注)で、一家そろって大ファンだ。
 スティックタイプで食べやすく、値段も手ごろ。オーブントースターで軽く焼いて、アイスクリームなどを添えると最高なのだ。
 これは妻と娘に「いい土産」ができてしまったと、軽く苦笑いをする。
 ――またまた「よかった探し」だ。
 
 母の手術は一応うまくいき、予後も悪くないようで、一安心ではある。
 しかしだからといって、いい年をしてこんなところで「よかった探し」もないだろう。

**
明記はしませんが、「シラノ」「菓子メーカー」で検索すると、実際の会社名が出てきます。

◇◇◇

「ねえ、母さん、『愛少女ポリアンナ(**下記注)』って覚えてる?」

 俺は母に、買ってきた水を渡しながら話を振った。

「ん?それなんだっけ?」
「昔やってたテレビのアニメーションだよ。「よかった探し」って遊びが出てきて」
「知らないねえ。聞いたことある気はするけど」
「そうか。じゃ、いいや。変なこと聞いてごめん」

 母は『ポリアンナ』を放送していた当時、慣れ親しんだ部署から異動になり、人間関係で少し悩んでいた。
 しかし日曜日の夜に『ポリアンナ』を見ると、「私もこの子を見習って頑張らなきゃって思うんだ」と言って、「〇〇さんは言い方はきついけど、仕事が正確で早い」「△△さんは調子いいけどムードメーカー」「最近、地下の食堂のお弁当が週1だけ味ご飯になったのがうれしい」「前の部署より残業が減った」と、自分にとって「よかった」と思うことを次々に挙げていった。
 俺は当時中学生だったが、母と一緒にこの番組を見て、やはり母と同じように「よかったさがし」をした覚えがある。

 兄や弟がこういう話題を出せば、「よく覚えてるねえ。そういえばそんなことあったっけ?」と好意的な反応かもしれないが、俺は「気色悪い」と言われるだけだろうから、話はそこでおしまいだ。

 不本意だが、まるで母に片思いをしていたような少年時代だったということか。

**

『愛少女ポリアンナ』

1986年の1月から12月まで放送されていたアニメーション
エレナ・ポーターの『少女パレアナ』を原作としており、作中登場する「よかった探し」が話題となりました。

余談ですが、「直面した問題に含まれる微細な良い面だけを見て負の側面から目を逸らすことにより、現実逃避的な自己満足に陥る心的症状」を指してポリアンナ[パレアナ]症候群(Pollyanna syndrome)と表現することがあり、単純なポジティブシンキングや楽天主義では済まされない言葉のようです。
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