短編集「なくしもの」

あおみなみ

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ピンバッジ 

感覚のズレ

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 ミドリは疲れ気味のマシロを少しでも元気づけたくて、夕飯のメニューをあれこれ考えましたが、最近は少しボリュームのあるこってりした料理は「ちょっと重いかな…」と言って受け付けなかったり、ならばとあっさりしたものを出すと、食後に「何か小腹いやすものない?」と言われたり、間が悪い状態が続いていました。

 そんな中、ミドリがちょっとした探し物をしていると、小さなクッキー缶が目に入りました。
 それは友人からのプレゼントでしたが、とても好みのデザインだったので、ちょっとしたストラップや根付などをしまうのに使っていたものです。

 最近あまり開けていなかったなと思ってふたを取ると、まん丸いピンバッジが目に飛び込んできました。
 マシロが沖縄で「自分用の土産」として買ったもののうち、布教用のうちの一つをミドリに渡してきたものです。

 ミドリは思い立って酒の量販店へと自転車を走らせ、ピンバッジにデザインされている企業の缶ビールを2本買いました。2人で飲んでもいいし、2本ともマシロが飲んでもいいし――程度の本数です。

 10時頃帰宅し、シャワーを浴びたマシロに、ミドリがつまみ兼夕飯とビールを盆に乗せて出すと、こう言われました。

「ああ、このビールの気分じゃないなあ…」
「え?」
「今日は気温低めだしさ。それにこれって何か水っぽくてイマイチっていうか…」
「そうなの?」
「沖縄で飲んだときは、すげえうまかったんだけど」
「そっか、ごめん」
「いや、こっちこそ。何か悪いな」

 「〇〇ビールにぴったり!おつまみ・料理5選」というページで見た、沖縄料理をアレンジしたレシピを、ミドリなりに工夫してつくったものばかりです。
 組み合わせマリアージュ的なものにこだわりのないマシロは、買い置きしていた缶のハイボールを飲みながら、ミドリの料理を楽しみました。

 それはそれでいつもの晩酌風景でしかないし、まだ「酒を飲む気にもなれない」というほど疲れているわけではないのでしょう。
 おいしそうに缶を傾け箸を動かしつつ、最近気に入っているアニメの最新話の録画を見ている様子は、リラックスしていて楽しそうです。

 ミドリは、自分の独断でやったこととはいえ、それを無下にされたことを残念に思いました。

 それでも「残念」という言葉が使えるうちは、まだほぼ火種がないか、せいぜい“とろ火”程度ですみました。
 しかしいくらとろ火といっても、ツマミを少し回しただけで、あっという間に弱火、中火、そして強火へと発展していくものです。

 「そういう気分じゃない」という言い方も、「前にもこれ嫌いって言ったよね?」「何度言っても覚えない」「気が利かない」に簡単に発展しますし、それに対しても「そんな言い方しなくても」「せっかくやってのに」「あなたの気分ばかり考えて準備してられないから!」的な答えが用意されています。

 マシロとミドリは、お互いに詫び合い、形だけは許し合いながらも、心中では別のことを考えてもいました。

(これぐらいで傷ついたような顔をするのって、当てこすり?)
(大体、お酒なんて酔っぱらっちゃえば、何飲んでも一緒じゃん…)
(ビールの1、2本でしようとするのがなあ…)
(あ、そうやって一口も食べないうちにしょうゆかけて!)

 ◇◇◇

 俗に売り言葉に買い言葉といいますが、お互いを少しは思い合っているうちの言葉の応酬はまだ健全と言えるかもしれません。

 それすらなくなったときは、激しい口論の割に、お互いが自分の言いたいことを一方的にぶつけ合っているだけになります。
 というより、ひどくすると「相手が呼吸をしてそこにいることが、そもそも癇に障る」状態です。

 マシロとミドリの場合、お互いの感覚がもともと近いので、そこまでに至るとは想像できませんでしたが、それでも小さなすれ違いの積み重ねで、気づけば取り返しのつかない事態に発展することはあります。

◇◇◇

 いつものように遅いマシロの帰りを待ちながら、ミドリはベランダで星を見ながら、友人と電話で話をしていました。片手にはビールを持っています。

 相手は、今は退職して子育てに専念している女性なので、ミドリとは違った悩みやうっぷんもたまっていることでしょう。人の好いミドリは聞き役に徹するつもりだったのですが、会話の流れは思わぬ方向に向かいました。
 というのは、友人は実の両親も夫の両親もたいへん協力的で、かなり負担の少ない子育てをしているというのです。
 それをいいことに、夫が仕事仕事で――みたいな文句は出るものの、肉体的にも精神的にもサポートしてくれる人がほかにいるので、「私ばかり大変」という気持ちにならずに済んでいるのだといいます。

「そうか、いいなあ」
『え、何かあった…?』
「いや、私は大丈夫なんだけど――カレが毎日疲れた疲れたって…」
『それは疲れてるんでしょ?』
「そうなんだと思うけど、正直耳障りなんだよね。何アピールだよ、一度聞けば分かるよ。こっちだって気使っていろいろしてあげてるのに、自分のことしか考えていないっていうか…」
『ああ、でも、ってそういうとこあるよね?』
「おたくも?」
『マウントっていうかさ、自分がどれだけ大変かアピールがウザいことはあるかな』
「はーん…」

 ミドリはお酒が少し入っていることで、舌が滑らかになっていたし、周りにも無防備になっていました。
 あろうことか、帰宅したマシロが、ミドリの背後で話を聞いていることに気づかなかったのです。

 マシロには当然、ミドリの言葉しか聞こえていません。
「毎日疲れた疲れたってうるさい。いったい何アピールだ。自分のことしか考えていない」

 自分が疲れているのは、ミドリとの家庭を守るために一生懸命働いているからにほかなりませんし、疲れたときに「疲れた」と言うと責められる“家庭”など、どういう地獄だという話です。

 面と向かって言われたわけではないけれど、ミドリはこんなふうに考えていたのだとショックを受けました。
 その場ですぐに糾弾する気はないものの、不信感を覚えてしまったのも事実です。

 ミドリの「口に出せない不満」とマシロの「妻へのちょっとした不信感」は、それぞれが少しずつ育ち、そのうちお互いと関わるのも煩わしいと思うようになりました。

「お互いとの生活を続けることに違和感を覚える」みたいな状態になり、離婚が決定しました。
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