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第47話 腹をくくる【夫】
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俺は最近、酒を飲んでいない。
健康を気遣ってというのも多少はあるが、もっと大きな理由がある。
食事の時間を短くするためだ。
長くダラダラと飲み食いしていると、どうしても妻との会話も長くなる。
妻は既に娘と一緒に食事を済ませ、お茶やビールを片手に話し相手になってくれるのだが、この時間を以前は心から楽しんでいた。
それなのに今になって「うるさい」「邪魔だ」「あっち行け」という言葉を使うのもはばかられる。
最近はどんな話題を振られても生返事を通しているが、そういう態度であると、妻は俺の顔色を窺うような表情を見せる。
以前もこういうことがあったな。
あれは妻(仮)のいかがわしい写真を見つけたときだった。
妻に問いただす勇気もなく、関係のありそうな義兄に真相を聞いて、何とか自分の心に決着をつけた。
もっともあの頃の俺は、妻の過去を自分の免罪符のように扱い、会社の若い女「T」と浮気をしていたのだが。
妻は多分それを知っていながら、一言も責めなかった。
そんな態度が余計に俺の態度を硬化させて…という悪循環だった気がする。
妻の妊娠がきっかけで、一応、関係は修復したわけだが。
妻の妊娠中の浮気という話はよく聞くが、俺にはむしろその発想がなかった。
彼女とお腹の子供を気遣いながら「愛し合う」という行為に幸せを感じた。
しかし、その愛の結晶である娘が、自分の子供でないとしたら?
時期的に、俺がTと浮気中だったのだろうが、妻がよその男と寝た。
一度や二度の過ちであっても子供ができることはあるが、妻とその男との関係は、どうやらもっと深く密なものだったらしい――と、妻が隠していた手紙からは読み取れた。
俺は妻と冷え切ったムードにあったときも、その気になれば妻を抱いていたから、必ずしもその男が娘の父とは言い切れない。
ただ、もし全て分かっていて托卵を図ったのだとしたら…?
これは見過ごすことはできない。
それでいて、それを表立って責めることもできずにいる。
前回は写真、今回は手紙。
たまたま見つけたのと、多少の探りを入れたという違いはあるが、俺という人間はどうしていつもこうなんだろう。
見つけた時点でピシッと真相究明できない。
◇◇◇
本人にその自覚があるかは分からないが、誘拐未遂の被害に遭った娘は、まるでこんなことなかったかのような態度で生活しているから、俺もしつこく細かい話を聞く気にはなれない。
そして妻は妻で、俺が手紙を盗み読みしたことを知らないから、涼しい顔をして日常を送っている――ように見える。
そんな俺たち3人が同じ空間で過ごしている。
娘は妻譲りの愛らしさで、クラスの男子に人気があるらしく、複数から遊びに誘われて困っている、的な話を無邪気にしていた。
「本当はM君がいちばん好きなんだけど、S君も面白いから遊びたいし、K君はシールくれたし…」
といった他愛もないもので、妻は笑いながらこう言った。
「あらま、気が多いのねえ」
(君だって――人のこと言えるのかよ!)
俺は我慢できなくなり、読んでいた週刊誌をテーブルにたたきつけた。
こういうとき、意外とその行為に一番驚いているのは自分だったりするのだが。
「急にどうしたの?」
「あ、ごめん。ちょっとな――この汚職とか金権政治ってのはどうにかなんないのかなって」
「えー、急に随分、社会派なこと言っちゃって」
「まあな…」
週刊誌の表紙に躍る「〇〇代議士、収賄容疑で逮捕へ」という見出しを鍵に、口から出まかせを言った。
◇◇◇
写真のときの二の舞になるのはごめんだ。
妻の不貞は確定として、納得ずくで托卵しているなら、俺は――どうしたい?
変な話だが、その程度で妻を完全に見限ることは、やはりできないと思う。
娘のことだって、生まれてから今まで、自分なりに愛し、かわいがってきた。
とにかくはっきりさせなければと意を決した俺は、できるだけ冷静に妻に尋ねることにした。
手紙を差し出し、「どういうこと?」と。
多分、変な表情をしていたのではないかと思う。
妻の表情には、分かりやすい驚きとおびえが浮かんでいた。
妻は一呼吸置いてから、「あの子はもう部屋で寝ているから、リビングでお茶を飲みながら話しましょう」と言った。
◇◇◇
手慣れた様子で緑茶を淹れる妻の内心が分からない。
俺にこう聞かれたらこう返す程度のシミュレーションをしているのかもしれないし、特に何も考えていないかもしれない。
事前に考えていなかったとしても、彼女なら「それっぽい」回答をするような気がする。
そんな妻のできのよさには感心するが、こういうときは先回りで余計なことを考え、何もかもが疑わしく見えてしまう。
それでも、聞くべきことは聞かなければならない。
女性からの手紙の方は、ほぼ個人的な繰り言だったので、あまり重要でない気がして、主に男からの手紙について尋ねた。
「この男は誰なんだ?」
「この間自殺した小説家の人よ」
「な…」
「地方に住んでいたって書いてあったでしょ?」
「…そうだっけ?」
「あったの。それがこの市で、あの近くの探勝路沿いの一軒家だったのよ」
妻は多分、出会いから彼の自殺までの経緯を洗いざらい話してくれたと思う。
いくら頭の回転が速くても、全てでっち上げと考えるのは、彼女というヒトを買いかぶり過ぎだろう。某映画のおしゃべり皇帝(※※下記注)じゃないんだから。
全てを真実だという前提で聞くべきだ。
「私は今のあなたたちとの生活が大切だし、守りたい。でも“おじさん”に抱かれていたときだけは、いつもあの人のことを愛していた」
到底許される言葉ではないが、率直にそう言ってくれたことが逆にうれしかった。
「あの子は俺の子か? それとも“おじさん”の子か?」
「分からないわ」
「母親の本能みたいなのはないのか?」
「そんなのは、結果が分かった上での後付けだと思うよ。少なくとも私には分からない」
「……」
結果…か。
「親子鑑定してみよう」
「鑑定?」
「多少金はかかるだろうけど、はっきりさせたいんだよ」
「はっきりしたら――あなたの子じゃなかったら、私と別れる?」
「それは…結果が出てから考えさせてくれ。今は何とも言えない」
「分かった」
結果を知ったとき、俺はどんな気持ちになるのだろう。
覚悟を決めたとしても、怖くないといったらうそになる。
だが、少なくとも、これで一歩先に進めるだろう。
※※
ネタバレが特に命とりの作品のため、タイトルは伏せさせてください。
20世紀終盤のアメリカ映画です。
ピンと来た方だけ、「あー、あれか」とニヤッとしていただけたら幸いです。
健康を気遣ってというのも多少はあるが、もっと大きな理由がある。
食事の時間を短くするためだ。
長くダラダラと飲み食いしていると、どうしても妻との会話も長くなる。
妻は既に娘と一緒に食事を済ませ、お茶やビールを片手に話し相手になってくれるのだが、この時間を以前は心から楽しんでいた。
それなのに今になって「うるさい」「邪魔だ」「あっち行け」という言葉を使うのもはばかられる。
最近はどんな話題を振られても生返事を通しているが、そういう態度であると、妻は俺の顔色を窺うような表情を見せる。
以前もこういうことがあったな。
あれは妻(仮)のいかがわしい写真を見つけたときだった。
妻に問いただす勇気もなく、関係のありそうな義兄に真相を聞いて、何とか自分の心に決着をつけた。
もっともあの頃の俺は、妻の過去を自分の免罪符のように扱い、会社の若い女「T」と浮気をしていたのだが。
妻は多分それを知っていながら、一言も責めなかった。
そんな態度が余計に俺の態度を硬化させて…という悪循環だった気がする。
妻の妊娠がきっかけで、一応、関係は修復したわけだが。
妻の妊娠中の浮気という話はよく聞くが、俺にはむしろその発想がなかった。
彼女とお腹の子供を気遣いながら「愛し合う」という行為に幸せを感じた。
しかし、その愛の結晶である娘が、自分の子供でないとしたら?
時期的に、俺がTと浮気中だったのだろうが、妻がよその男と寝た。
一度や二度の過ちであっても子供ができることはあるが、妻とその男との関係は、どうやらもっと深く密なものだったらしい――と、妻が隠していた手紙からは読み取れた。
俺は妻と冷え切ったムードにあったときも、その気になれば妻を抱いていたから、必ずしもその男が娘の父とは言い切れない。
ただ、もし全て分かっていて托卵を図ったのだとしたら…?
これは見過ごすことはできない。
それでいて、それを表立って責めることもできずにいる。
前回は写真、今回は手紙。
たまたま見つけたのと、多少の探りを入れたという違いはあるが、俺という人間はどうしていつもこうなんだろう。
見つけた時点でピシッと真相究明できない。
◇◇◇
本人にその自覚があるかは分からないが、誘拐未遂の被害に遭った娘は、まるでこんなことなかったかのような態度で生活しているから、俺もしつこく細かい話を聞く気にはなれない。
そして妻は妻で、俺が手紙を盗み読みしたことを知らないから、涼しい顔をして日常を送っている――ように見える。
そんな俺たち3人が同じ空間で過ごしている。
娘は妻譲りの愛らしさで、クラスの男子に人気があるらしく、複数から遊びに誘われて困っている、的な話を無邪気にしていた。
「本当はM君がいちばん好きなんだけど、S君も面白いから遊びたいし、K君はシールくれたし…」
といった他愛もないもので、妻は笑いながらこう言った。
「あらま、気が多いのねえ」
(君だって――人のこと言えるのかよ!)
俺は我慢できなくなり、読んでいた週刊誌をテーブルにたたきつけた。
こういうとき、意外とその行為に一番驚いているのは自分だったりするのだが。
「急にどうしたの?」
「あ、ごめん。ちょっとな――この汚職とか金権政治ってのはどうにかなんないのかなって」
「えー、急に随分、社会派なこと言っちゃって」
「まあな…」
週刊誌の表紙に躍る「〇〇代議士、収賄容疑で逮捕へ」という見出しを鍵に、口から出まかせを言った。
◇◇◇
写真のときの二の舞になるのはごめんだ。
妻の不貞は確定として、納得ずくで托卵しているなら、俺は――どうしたい?
変な話だが、その程度で妻を完全に見限ることは、やはりできないと思う。
娘のことだって、生まれてから今まで、自分なりに愛し、かわいがってきた。
とにかくはっきりさせなければと意を決した俺は、できるだけ冷静に妻に尋ねることにした。
手紙を差し出し、「どういうこと?」と。
多分、変な表情をしていたのではないかと思う。
妻の表情には、分かりやすい驚きとおびえが浮かんでいた。
妻は一呼吸置いてから、「あの子はもう部屋で寝ているから、リビングでお茶を飲みながら話しましょう」と言った。
◇◇◇
手慣れた様子で緑茶を淹れる妻の内心が分からない。
俺にこう聞かれたらこう返す程度のシミュレーションをしているのかもしれないし、特に何も考えていないかもしれない。
事前に考えていなかったとしても、彼女なら「それっぽい」回答をするような気がする。
そんな妻のできのよさには感心するが、こういうときは先回りで余計なことを考え、何もかもが疑わしく見えてしまう。
それでも、聞くべきことは聞かなければならない。
女性からの手紙の方は、ほぼ個人的な繰り言だったので、あまり重要でない気がして、主に男からの手紙について尋ねた。
「この男は誰なんだ?」
「この間自殺した小説家の人よ」
「な…」
「地方に住んでいたって書いてあったでしょ?」
「…そうだっけ?」
「あったの。それがこの市で、あの近くの探勝路沿いの一軒家だったのよ」
妻は多分、出会いから彼の自殺までの経緯を洗いざらい話してくれたと思う。
いくら頭の回転が速くても、全てでっち上げと考えるのは、彼女というヒトを買いかぶり過ぎだろう。某映画のおしゃべり皇帝(※※下記注)じゃないんだから。
全てを真実だという前提で聞くべきだ。
「私は今のあなたたちとの生活が大切だし、守りたい。でも“おじさん”に抱かれていたときだけは、いつもあの人のことを愛していた」
到底許される言葉ではないが、率直にそう言ってくれたことが逆にうれしかった。
「あの子は俺の子か? それとも“おじさん”の子か?」
「分からないわ」
「母親の本能みたいなのはないのか?」
「そんなのは、結果が分かった上での後付けだと思うよ。少なくとも私には分からない」
「……」
結果…か。
「親子鑑定してみよう」
「鑑定?」
「多少金はかかるだろうけど、はっきりさせたいんだよ」
「はっきりしたら――あなたの子じゃなかったら、私と別れる?」
「それは…結果が出てから考えさせてくれ。今は何とも言えない」
「分かった」
結果を知ったとき、俺はどんな気持ちになるのだろう。
覚悟を決めたとしても、怖くないといったらうそになる。
だが、少なくとも、これで一歩先に進めるだろう。
※※
ネタバレが特に命とりの作品のため、タイトルは伏せさせてください。
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