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3.再会した過去
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冬晴れの日、富士山が遠くに見えた。先週末、青梅は急な寒気で風邪を引いた。彼女から一方的に別れを告げられてから日が浅いうちにかかったのに、それほど動じなかった自分がいる。会うたびにプレゼントを渡さないと機嫌を損ねるような人で、病弱な人だったからなにかと心配をして周りの世話もした。それでも、少し前から浮気をされていたと知り、さすがに気持ちが冷めた。貯金を切り崩してまで、相手を引き留めようとしなかった。だから今回の風邪は、むしろ自分と向き合う時間を取れて丁度良かったと晴れ晴れとした思いであった。
今はかなり体調も戻ったが、念の為いつもより多めに服を重ねていた。白い日を浴びる木で、名も知らぬ鳥が来て遊んでいた。どこでも見かける当たり前の光景が、その時だけ確かに青梅の心を優しく動かした。都心の取引先に寄った折に、文生の絵を観に行った。企画画廊で渡辺文生展が開催され、大きな話題を呼んでいた。当時、文生は二十五歳の若さであった。
夕日の差し込む画廊では華美な装いをした客で賑わいを見せていた。入り口にはピンクの胡蝶蘭が飾られている。その日、文生が画廊にいた。彼は大勢の客に囲まれていた。その年で、黒のスリーピーススーツを嫌みなく身にまとい、珍しく目元にラウンド型の眼鏡をかけている。視力はそこまで悪くないはずだ。だて眼鏡か。
文生が長い前髪をかき上げて視線を横に流した時、目が合った。お互い一瞬で相手が分かり、画塾時代に時が戻される。文生は他の客から声をかけられても返さず、目を見開き青梅を見た。
青梅は会釈するだけで早々に背を向けた。外に出て駅に向かっていたら、後ろから誰かに腕を掴まれる。ぎょっとして青梅が振り向くと、大きな人影が自分を覆う。
「帰るなんてひどい人だ、久しぶりだから今から飲みに行きましょうよ」
コートを腕に掛けて、文生が笑った。
二つしか年が離れていないのに、相変わらず文生は敬語を使う。まさか追いかけてくるとは思わなかった。それでも誘ってきたのは向こうからだから、と余裕のできた青梅は笑い返す。
「文生、客の相手をしないと駄目だろう」
年上らしく軽くたしなめた。久しぶりに言葉を交わしたのに、不思議と声が引っかからなかった。
「客の相手は疲れました、それに初日で完売してますから俺はお役御免なんです」
文生は大仰に肩をすくめて見せた。この時の文生の台詞と仕草のどれも嫌みに聞こえなかった。
「そうなんだ、良かったね」
青梅が心の底から吐露した言葉は、あまりに純粋な喜びだった。
「ありがとうございます、まあ、今だけですよ」
と、文生は言って、青梅の腕から手を離した。
「次に新しい奴が出てきます、ちやほやされるのも、本当に今だけです」
数年ぶりに会った青梅相手に、文生は卑下する。彼は本当に変わっていない。人の感情を読み取るのが上手い癖に人付き合いが雑で、己の絵をぞんざいに扱う。周囲の声を一過性のものだと決めつけるのは時期尚早であるはずだ。謙遜するな、と叱ろうにも、それ以上踏み入るな、という空気を彼から感じ取った。
「文生、折角だし何か食べに行こう」
彼の白いシャツの襟口から覗く首は細く、袖から伸びた手に骨が浮いていた。見るからに文生は痩せていた。落ちくぼんだ頬、生気のない濁った白目、どこか身体を壊しているのかと哀れに思えた。そんな文生を目にした青梅は、彼との軋轢、一方的な嫉妬がきれいに浄化されていくのを感じた。
「青梅さんは何を食べたいですか」
かつて青梅に辛く当たられた過去があるのに、文生は何食わぬ顔で先を歩いた。
青梅も後をついて行くと、文生が何度も確認するように振り返った。その反応が、自分は信頼されていないな、と青梅は片方の頬をひくつかせた。
「この辺りを知らないから、そうだね風邪が治ったばかりだから、揚げ物は避けたいな、でも酒はいけるよ、文生は何を食べたい?」
「えっ、風邪を引かれたんですか、それなら早く店に入らないとぶり返しますよ」
「気にしないで、ただの風邪だから、それより、文生のほうこそ」
そうっと文生の薄い背中を眺めていたら、気が付いたのか、文生がコートを羽織る。
「ごめん」
「何がですか」
「いいや」
文生が喉を鳴らした。
「俺のこれは、ただ狂気にとらわれているだけですよ」
文生は自嘲気味に言い、口を結んだ。
青梅は彼の台詞があまりに芸術家らしくて、それ以上は追求しなかった。
大通りに出ると、金曜日の夜だからか、大勢の人で賑わっていた。すれ違う人がそれぞれ文生に目を奪われている。文生は見られることになれているのか、彼らの眼差しに応えなかった。
不意に青梅は足を止めた。急に怖ろしくなり、歩行者天国の道路に出て、黄昏のうす暗い空を見上げた。今まで何度も文生の優しさを突き放した自分が、何を今さら彼と歩いているのだろう。
「冬の夕暮れはどうしてこんなにも美しいのかな」
と、青梅は数歩先を歩く文生に向けて言った。どうせ聞こえやしない。それなのに、文生は歩を止めて、青梅の傍まできた。
「あんたが人一倍寂しがり屋だからですよ」
ぐずる子供をあやすように文生が言った。
日本料理店には、自分達のほかには誰にもいなくて、これから誰も入ってくるような雰囲気ではなかった。店内からは時折、料理人同士の会話だけが聞こえた。静かで居心地の良い席で、日本酒を空けながら、二人で言葉を重ねた。青梅は聞き役に回って、皿に舌鼓を打ちながら文生の近況に耳を傾けた。彼の声は重く真っ直ぐに青梅の心を射止めた。
「お気づきかと思いますが、俺ね、数年前から身体を崩してまして」
「どこか悪いのか?」
注文した皿に手を付けているから、食欲はあるのだろう。
「精神的な不調ですよ、そうですね、どうです、こんな俺の面倒を見てくれませんか」
「もちろん引き受けたいけど、面倒を見るって、君ならパートナーの一人くらいいるだろう」
「いても、どうせ俺の肩書きにしか興味がないんですよ、俺が絵を辞めたいと言ったら、『もったいない、貴方の絵が大事なのに』皆そればかり。別に誰彼かまわず面倒を見てくれなんて声をかけてませんよ、青梅さんを前にして浮かんだだけです、それに、なんで青梅さんがいいかって言うと、あんたは俺が絵を描いても描かなくても傷つかない、それって絵描きとしてはうれしくないですけど、俺はあんたを描きたい、この国で男の絵は売れないと分かっていても、カンバスに向かうと青梅さんが思い浮かぶんです、あんたが必死に隠そうとしている血と涙や糞まで全て描き遺したい、そうでないと気が変になるんです」
文生は堂々とした動作で、テーブルの青梅の手に触れた。青梅が腕を引いても、強く握られる。
「俺が死んだら、あんたが原因だ、俺を殺したくないですよね」
だってあんたは善人だから、と文生は酒をぐい飲みした。
今日一日を思い起こす。木々が風でそよぎ、乾いた葉をざわめかす。互いの吐く息の白さ、蓮の油絵、ピンクの胡蝶蘭にひとつひとつ胸を騒がせた日だった。
「いいよ、文生の役に立つなら」
この男の情動が一過性のものだろうと決めつけて、一笑するのは簡単だ。それでも青梅は笑わなかった。自分はここまで何かを描き留めようと、最後まで感情を激しく揺さぶられなかった。執着心が自分に向けられていると、酷く自尊心がくすぐられる。それがいつ消える類いの重さなのか試したくもなった。渡辺文生が人を描く。それも男だ。それだけで好奇心がむくむくと湧き上がる。
その夜が青梅にとって、人生の分岐点となったのは事実だ。
今はかなり体調も戻ったが、念の為いつもより多めに服を重ねていた。白い日を浴びる木で、名も知らぬ鳥が来て遊んでいた。どこでも見かける当たり前の光景が、その時だけ確かに青梅の心を優しく動かした。都心の取引先に寄った折に、文生の絵を観に行った。企画画廊で渡辺文生展が開催され、大きな話題を呼んでいた。当時、文生は二十五歳の若さであった。
夕日の差し込む画廊では華美な装いをした客で賑わいを見せていた。入り口にはピンクの胡蝶蘭が飾られている。その日、文生が画廊にいた。彼は大勢の客に囲まれていた。その年で、黒のスリーピーススーツを嫌みなく身にまとい、珍しく目元にラウンド型の眼鏡をかけている。視力はそこまで悪くないはずだ。だて眼鏡か。
文生が長い前髪をかき上げて視線を横に流した時、目が合った。お互い一瞬で相手が分かり、画塾時代に時が戻される。文生は他の客から声をかけられても返さず、目を見開き青梅を見た。
青梅は会釈するだけで早々に背を向けた。外に出て駅に向かっていたら、後ろから誰かに腕を掴まれる。ぎょっとして青梅が振り向くと、大きな人影が自分を覆う。
「帰るなんてひどい人だ、久しぶりだから今から飲みに行きましょうよ」
コートを腕に掛けて、文生が笑った。
二つしか年が離れていないのに、相変わらず文生は敬語を使う。まさか追いかけてくるとは思わなかった。それでも誘ってきたのは向こうからだから、と余裕のできた青梅は笑い返す。
「文生、客の相手をしないと駄目だろう」
年上らしく軽くたしなめた。久しぶりに言葉を交わしたのに、不思議と声が引っかからなかった。
「客の相手は疲れました、それに初日で完売してますから俺はお役御免なんです」
文生は大仰に肩をすくめて見せた。この時の文生の台詞と仕草のどれも嫌みに聞こえなかった。
「そうなんだ、良かったね」
青梅が心の底から吐露した言葉は、あまりに純粋な喜びだった。
「ありがとうございます、まあ、今だけですよ」
と、文生は言って、青梅の腕から手を離した。
「次に新しい奴が出てきます、ちやほやされるのも、本当に今だけです」
数年ぶりに会った青梅相手に、文生は卑下する。彼は本当に変わっていない。人の感情を読み取るのが上手い癖に人付き合いが雑で、己の絵をぞんざいに扱う。周囲の声を一過性のものだと決めつけるのは時期尚早であるはずだ。謙遜するな、と叱ろうにも、それ以上踏み入るな、という空気を彼から感じ取った。
「文生、折角だし何か食べに行こう」
彼の白いシャツの襟口から覗く首は細く、袖から伸びた手に骨が浮いていた。見るからに文生は痩せていた。落ちくぼんだ頬、生気のない濁った白目、どこか身体を壊しているのかと哀れに思えた。そんな文生を目にした青梅は、彼との軋轢、一方的な嫉妬がきれいに浄化されていくのを感じた。
「青梅さんは何を食べたいですか」
かつて青梅に辛く当たられた過去があるのに、文生は何食わぬ顔で先を歩いた。
青梅も後をついて行くと、文生が何度も確認するように振り返った。その反応が、自分は信頼されていないな、と青梅は片方の頬をひくつかせた。
「この辺りを知らないから、そうだね風邪が治ったばかりだから、揚げ物は避けたいな、でも酒はいけるよ、文生は何を食べたい?」
「えっ、風邪を引かれたんですか、それなら早く店に入らないとぶり返しますよ」
「気にしないで、ただの風邪だから、それより、文生のほうこそ」
そうっと文生の薄い背中を眺めていたら、気が付いたのか、文生がコートを羽織る。
「ごめん」
「何がですか」
「いいや」
文生が喉を鳴らした。
「俺のこれは、ただ狂気にとらわれているだけですよ」
文生は自嘲気味に言い、口を結んだ。
青梅は彼の台詞があまりに芸術家らしくて、それ以上は追求しなかった。
大通りに出ると、金曜日の夜だからか、大勢の人で賑わっていた。すれ違う人がそれぞれ文生に目を奪われている。文生は見られることになれているのか、彼らの眼差しに応えなかった。
不意に青梅は足を止めた。急に怖ろしくなり、歩行者天国の道路に出て、黄昏のうす暗い空を見上げた。今まで何度も文生の優しさを突き放した自分が、何を今さら彼と歩いているのだろう。
「冬の夕暮れはどうしてこんなにも美しいのかな」
と、青梅は数歩先を歩く文生に向けて言った。どうせ聞こえやしない。それなのに、文生は歩を止めて、青梅の傍まできた。
「あんたが人一倍寂しがり屋だからですよ」
ぐずる子供をあやすように文生が言った。
日本料理店には、自分達のほかには誰にもいなくて、これから誰も入ってくるような雰囲気ではなかった。店内からは時折、料理人同士の会話だけが聞こえた。静かで居心地の良い席で、日本酒を空けながら、二人で言葉を重ねた。青梅は聞き役に回って、皿に舌鼓を打ちながら文生の近況に耳を傾けた。彼の声は重く真っ直ぐに青梅の心を射止めた。
「お気づきかと思いますが、俺ね、数年前から身体を崩してまして」
「どこか悪いのか?」
注文した皿に手を付けているから、食欲はあるのだろう。
「精神的な不調ですよ、そうですね、どうです、こんな俺の面倒を見てくれませんか」
「もちろん引き受けたいけど、面倒を見るって、君ならパートナーの一人くらいいるだろう」
「いても、どうせ俺の肩書きにしか興味がないんですよ、俺が絵を辞めたいと言ったら、『もったいない、貴方の絵が大事なのに』皆そればかり。別に誰彼かまわず面倒を見てくれなんて声をかけてませんよ、青梅さんを前にして浮かんだだけです、それに、なんで青梅さんがいいかって言うと、あんたは俺が絵を描いても描かなくても傷つかない、それって絵描きとしてはうれしくないですけど、俺はあんたを描きたい、この国で男の絵は売れないと分かっていても、カンバスに向かうと青梅さんが思い浮かぶんです、あんたが必死に隠そうとしている血と涙や糞まで全て描き遺したい、そうでないと気が変になるんです」
文生は堂々とした動作で、テーブルの青梅の手に触れた。青梅が腕を引いても、強く握られる。
「俺が死んだら、あんたが原因だ、俺を殺したくないですよね」
だってあんたは善人だから、と文生は酒をぐい飲みした。
今日一日を思い起こす。木々が風でそよぎ、乾いた葉をざわめかす。互いの吐く息の白さ、蓮の油絵、ピンクの胡蝶蘭にひとつひとつ胸を騒がせた日だった。
「いいよ、文生の役に立つなら」
この男の情動が一過性のものだろうと決めつけて、一笑するのは簡単だ。それでも青梅は笑わなかった。自分はここまで何かを描き留めようと、最後まで感情を激しく揺さぶられなかった。執着心が自分に向けられていると、酷く自尊心がくすぐられる。それがいつ消える類いの重さなのか試したくもなった。渡辺文生が人を描く。それも男だ。それだけで好奇心がむくむくと湧き上がる。
その夜が青梅にとって、人生の分岐点となったのは事実だ。
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