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行きつけの犬。
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明日香は小さな頃から犬が怖くて、犬を見ると逃げて走り回っていた。特に噛まれたというわけではないが、例えば友達の家で買っている犬に自分だけ吠えられたり、リードをつけていない犬にしつこくあとをつけられたり。そういったことが積み重なって、「犬は怖い」という印象が焼き付いた結果だった。
明日香は大学進学に伴って、田舎から出て神戸で一人暮らしをするようになった。神戸の東側では、よく高そうな犬をマダムが散歩させているのを見る。初めは明日香も犬とすれ違う度にドキドキしていたのだが、この辺では犬もお行儀が良いらしく、まっすぐ飼い主の後ろをついて歩くか、たまにこちらを振り返る程度だった。
入学から三か月ほど経つと、明日香は「もしかしたら犬も可愛いかもしれない」と思うようになった。ちょうどそのころ、自宅アパートから少し細い路地を入ったところの家が犬を二匹飼っていることを知った。おそらく、完全な外飼ではないが日中は小さな庭にリードをつけて出しているようで、家の横の柵から手を伸ばせば犬を撫でられるという位置で犬たちがよく寝転んでいた。一匹は柴、もう一匹は何かの洋犬の雑種だった。
とはいえ、完全な犬ビギナーの明日香は、その犬たちにどう接していいのか分からず、ただただその家の横を通って眺めるということを繰り返していた。
ある夏の夕方、明日香はアルバイト帰りにその家の横を通ってみた。しかし、そこには先客がいたのだ。ハンチング帽を被り、自転車にまたがった五十歳くらいのおじさんは、二匹の犬の頭を交互に撫でていた。
明日香がその様子を少し離れたところから見ていると、おじさんは気がついたらしく、振り向いて声をかけてきた。
「おう、姉ちゃん、あんたもここの犬のファンか?」
「ファンというか、見てるだけなんですけどね。」
おじさんはニヤッと笑った。
「見とるだけやったらもったいない。撫でてみたらええ。可愛いで?」
明日香は尋ねた。
「あの、その犬、噛みませんかね?」
おじさんはアッハッハと笑って言った。
「大丈夫やで! わい、何年もこうやって撫でとるが、噛むどころか吠えられたことすらない。姉ちゃんも撫でたらええんや。」
おじさんは少し自転車を横に移動させて、明日香のスペースを作った。
「ほら、どうぞ。」
明日香はそのスペースに行くと、恐る恐る家の柵の中に手を入れた。そして柴犬の頭を撫でたが、柴犬は目を細めるだけでじっとしていた。
「どうや、大人しいもんやろ? こっちの雑種も撫でたったらええ。」
雑種は目がクリクリしていて、柴犬とは対照的に尻尾を振りながら明日香の方を見ていた。明日香がやはり震える手で雑種の頭を撫でると、雑種はより強く尻尾を振った。
「そうや、そうや。ていうか、姉ちゃん、犬恐怖症か?」
おじさんは心配そうな顔で明日香のほうを見た。
「やっぱり分かりましたか。子どものときから犬が怖くて。でも、こっちの犬はしつけがいいのか大人しいので、犬を好きになりかけたところです。」
「そうか、ここの犬は特に可愛いぞ。柴は大人しいし、雑種は愛嬌がある。姉ちゃん、恐怖症克服にしばらく通ったらええんや。うん、それがええ。」
おじさんは我ながら良いアイデアだと思ったのか、ニコニコしながら一人で頷いていた。明日香は一つの疑問をおじさんにぶつけてみた。
「しかし、ここの家の人はいいんですかね?」
「何度か家の人にも会ったことがあるけど、別に気にしとらんようだった。むしろ、他の人にも犬を可愛がって欲しいっちゅう方針ちゃうかな? わい以外にもたまにその辺の子どもとかおばさんとか、たまに犬なでとるし。」
明日香は安心した。
それからというもの、明日香はアルバイト帰りにはその家の横に行って犬を撫でるようになった。犬を撫でているうちに、アルバイト先の店長の横暴さやら、クレーマーの文句やら、色んなストレスが消えていくようだった。
二匹いるうちの柴犬のほうはいつでも頭を撫でさせてくれるのだが、雑種のほうは機嫌の良いときと悪いときがあるようで、尻尾を振りながら近づいてくるときもあれば、ベタッと寝そべって不機嫌な顔をしたまま手の届かない場所にいるときもあった。
なお、たまに例のハンチングおじさんがいることもあったが、そんなときはおじさんと話すことになった。ある日の会話。
「わいのアパートはペット禁止で犬を飼われへん。それでしゃあないから、こうやって物欲ならぬ犬欲を満たしとるんやな。」
「昔は飼っていたんですか?」
「おう、それは子どものときにシロっちゅうて、白い雑種の犬を家で飼っとったが、賢い犬だった。わいが高校生のときに死んでしもうたが、それまでシロの散歩はわいの日課やった。」
おじさんは目を細めた。
「それからしばらくして、実家がビーグルを買うてきたけど、あいつ……ブン太って名前やったが……ブン太はアホやったな。無駄吠えするし、散歩のときも途中で立ち止まって抵抗するし。でもそれはそれで可愛かったよ。高校出たら、わい、大阪に勤めに出たからブン太と離れてしもうたけど、たまに実家に帰ってブン太と遊ぶのが楽しくてなあ。ブン太は割と長生きして、わいが結婚して子どもが三歳になるまで生きとった。」
「そうなんですね。」
また、ある日の会話はこうだった。
「ここの柴、普段はこんなんやけど、ちゃんと他の犬が来たら吠えるんやで。」
「そうなんですか。」
「上品な奥さんがミニチュアダックスを連れてここを通りかかったんやけどな、それを見た瞬間に柴が『うー、わんわん!』って。可哀想に、ミニチュアダックス、びっくりしてオシッコ漏らしてたわ。」
「えー、そんなことをする犬には見えないですね。」
「せやろ? それで雑種のほうはどうしてたかというと、柴の影に隠れてじっと様子を見とるだけや。こいつはホンマにずるい。」
「あはは!」
そして、おじさんと最後に交わした会話はこうだった。
「うちは嫁が……もう元嫁やけど、あんたみたいな犬恐怖症でな。家では犬をよう飼わんかった。嫁と離婚したら犬飼えるかと思ったけど、ペット可の物件はどこも家賃高いねん。わいの給料ではなかなかや、アッハッハ!」
おじさんは赤裸々に話していたが、特に沈んだ様子もなく、明るかった。
明日香は実感を込めて言った。
「じゃあ、こうやって行きつけの犬がいるのはいいことですね。」
おじさんは目を見開いた。
「行きつけの犬! 姉ちゃん、ええこと言うなあ。そうや、この子らは我々の行きつけの犬や。行きつけの犬に癒されに来とるんや、わいら。」
行きつけの犬、という表現自体は、明日香のオリジナルではなく、昔読んだ漫画で見たものだったが、この二匹はまさに明日香の行きつけの犬だ。
「よう通っとる割には、わい、この子らの源氏名も知らんけどな。」
「お金もかからないし、いい楽しみですよ。」
明日香の言葉に、おじさんはハッとしたような表情をして言った。
「そうや、人間の女は彼女も嫁も、飲み屋の子も、みんなお金がかかってしゃあない。これからは犬ひとすじで行こか。」
それ以降、明日香が犬のいる家の横に行っても、おじさんに会うことはなくなった。きっとおじさんが仕事でも変えて時間帯がずれたのだろう、と明日香は何となく思っていた。
一ヶ月ほど経ったある日、例の家の横に40代くらいの女性が立っていた。彼女は犬を撫でるわけでもなく、ただぼうっと見つめていた。明日香は女性に軽く会釈をして、駆け寄ってきた雑種犬の頭を撫でると、いきなり女性から話しかけられた。女性はジーンズにトレーナーとラフな身なりではあるが、割と整った顔立ちをしている。
「あんたか、犬恐怖症だった女の子は!」
「はあ、確かに私は犬が怖かった者ですが。」
明日香は不思議に思って女性の顔を見つめた。
「ここで犬と遊んでた、山崎って言う、いつも帽子被って自転車乗ってたおっさん知っとる? 背が170くらいでひょろっとしてて。」
名前までは知らなかったが、あのおじさんの外見的特徴に合致する。
「はい、よくここで一緒になりましたが。」
「あんた、あのおっさんの行先知らん?」
女性は目を潤ませて悲しそうな顔をしている。
「ごめんなさい、分からないです。私とは犬の話しかしてなかったし、最近会わないなあとしか思っていなかったので。」
「そうかあ。ダメ元であんたに聞いたら分かるかもしれんと思ってたのになあ。」
「ごめんなさい、本当に知らなくて。」
女性はため息をつきながら言った。
「うち、あの人と付き合ってたんよ。一緒に住もうって言ってた矢先におらんようになった。この間、あの人のアパートに行ったら人の住んでる気配がなくて。たまたま出てきた隣の部屋の人に聞いたら引っ越したって。」
明日香は尋ねた。
「おじさんの職場には聞いてみたんですか?」
「もちろん電話したよ。でも1週間前に辞めたって。本人の携帯電話も通じんし、全く連絡取れん。」
ガックリと肩を落としている女性に、明日香は少しでも手がかりになるようなものを与えたかった。
「ご実家に戻られてないですかね?」
女性は顎に手を当てて考えていた。
「実家か、あの人の地元は明石って聞いてるけど、探せば分かるかな? 明石も広いしなあ。うーん。」
「ご実家で犬を飼われていたようなので。」
「あー、確かに犬を飼いたい、が口癖やったなあ。実家、探してみよか。」
それにしても。
「お姉さんは何でここが分かったんですか?」
女性は初めて明日香に笑顔を見せた。
「ああ、あの人、よくここの犬の話を私にしてたからな。お前も行ってみたら、って地図書いて場所まで教えてくれてたんよ。けど、結局今まで来んかった。」
「おじさん、もしかして私のことも話してたんですか?」
「せやで、若い子、若い子、言うてニヤニヤして話してたから、浮気してたんやないかと思ったけど。」
明日香は否定した。
「全然そんな雰囲気はなくて、ただここで時々会って犬の話をしてただけなんです。電話番号やメールアドレスはもちろん、名前も知らないし。」
「そうみたいやなあ、ふぅ。」
女性はまたため息をついた。そして唐突に二匹の犬に話しかけた。
「あんたら、帽子のおっさんの実家、どこか聞いてないか?」
柴犬はいつものように寝そべっているし、雑種は尻尾をブンブン振っている。女性は苦笑いしていたが、明日香のほうを向いて頭を下げた。
「ありがとう、私もあんたと話ができてよかった。」
「いえいえ、お役に立てず、すみません。」
明日香も頭を下げた。
その夜、明日香はあのおじさんの行方を想像してみた。女性に言ったように、実家に戻って念願の犬を飼うようになったのかもしれない。また、ペット可のマンションに引っ越す算段がついて、そちらに移って犬を飼っているのかもしれない。いずれにせよ、おじさんは犬と一緒にいるところしか思い浮かばなかった。しかし。
「女の人との生活より犬との生活を取るってどうなのよ。」
明日香は大学進学に伴って、田舎から出て神戸で一人暮らしをするようになった。神戸の東側では、よく高そうな犬をマダムが散歩させているのを見る。初めは明日香も犬とすれ違う度にドキドキしていたのだが、この辺では犬もお行儀が良いらしく、まっすぐ飼い主の後ろをついて歩くか、たまにこちらを振り返る程度だった。
入学から三か月ほど経つと、明日香は「もしかしたら犬も可愛いかもしれない」と思うようになった。ちょうどそのころ、自宅アパートから少し細い路地を入ったところの家が犬を二匹飼っていることを知った。おそらく、完全な外飼ではないが日中は小さな庭にリードをつけて出しているようで、家の横の柵から手を伸ばせば犬を撫でられるという位置で犬たちがよく寝転んでいた。一匹は柴、もう一匹は何かの洋犬の雑種だった。
とはいえ、完全な犬ビギナーの明日香は、その犬たちにどう接していいのか分からず、ただただその家の横を通って眺めるということを繰り返していた。
ある夏の夕方、明日香はアルバイト帰りにその家の横を通ってみた。しかし、そこには先客がいたのだ。ハンチング帽を被り、自転車にまたがった五十歳くらいのおじさんは、二匹の犬の頭を交互に撫でていた。
明日香がその様子を少し離れたところから見ていると、おじさんは気がついたらしく、振り向いて声をかけてきた。
「おう、姉ちゃん、あんたもここの犬のファンか?」
「ファンというか、見てるだけなんですけどね。」
おじさんはニヤッと笑った。
「見とるだけやったらもったいない。撫でてみたらええ。可愛いで?」
明日香は尋ねた。
「あの、その犬、噛みませんかね?」
おじさんはアッハッハと笑って言った。
「大丈夫やで! わい、何年もこうやって撫でとるが、噛むどころか吠えられたことすらない。姉ちゃんも撫でたらええんや。」
おじさんは少し自転車を横に移動させて、明日香のスペースを作った。
「ほら、どうぞ。」
明日香はそのスペースに行くと、恐る恐る家の柵の中に手を入れた。そして柴犬の頭を撫でたが、柴犬は目を細めるだけでじっとしていた。
「どうや、大人しいもんやろ? こっちの雑種も撫でたったらええ。」
雑種は目がクリクリしていて、柴犬とは対照的に尻尾を振りながら明日香の方を見ていた。明日香がやはり震える手で雑種の頭を撫でると、雑種はより強く尻尾を振った。
「そうや、そうや。ていうか、姉ちゃん、犬恐怖症か?」
おじさんは心配そうな顔で明日香のほうを見た。
「やっぱり分かりましたか。子どものときから犬が怖くて。でも、こっちの犬はしつけがいいのか大人しいので、犬を好きになりかけたところです。」
「そうか、ここの犬は特に可愛いぞ。柴は大人しいし、雑種は愛嬌がある。姉ちゃん、恐怖症克服にしばらく通ったらええんや。うん、それがええ。」
おじさんは我ながら良いアイデアだと思ったのか、ニコニコしながら一人で頷いていた。明日香は一つの疑問をおじさんにぶつけてみた。
「しかし、ここの家の人はいいんですかね?」
「何度か家の人にも会ったことがあるけど、別に気にしとらんようだった。むしろ、他の人にも犬を可愛がって欲しいっちゅう方針ちゃうかな? わい以外にもたまにその辺の子どもとかおばさんとか、たまに犬なでとるし。」
明日香は安心した。
それからというもの、明日香はアルバイト帰りにはその家の横に行って犬を撫でるようになった。犬を撫でているうちに、アルバイト先の店長の横暴さやら、クレーマーの文句やら、色んなストレスが消えていくようだった。
二匹いるうちの柴犬のほうはいつでも頭を撫でさせてくれるのだが、雑種のほうは機嫌の良いときと悪いときがあるようで、尻尾を振りながら近づいてくるときもあれば、ベタッと寝そべって不機嫌な顔をしたまま手の届かない場所にいるときもあった。
なお、たまに例のハンチングおじさんがいることもあったが、そんなときはおじさんと話すことになった。ある日の会話。
「わいのアパートはペット禁止で犬を飼われへん。それでしゃあないから、こうやって物欲ならぬ犬欲を満たしとるんやな。」
「昔は飼っていたんですか?」
「おう、それは子どものときにシロっちゅうて、白い雑種の犬を家で飼っとったが、賢い犬だった。わいが高校生のときに死んでしもうたが、それまでシロの散歩はわいの日課やった。」
おじさんは目を細めた。
「それからしばらくして、実家がビーグルを買うてきたけど、あいつ……ブン太って名前やったが……ブン太はアホやったな。無駄吠えするし、散歩のときも途中で立ち止まって抵抗するし。でもそれはそれで可愛かったよ。高校出たら、わい、大阪に勤めに出たからブン太と離れてしもうたけど、たまに実家に帰ってブン太と遊ぶのが楽しくてなあ。ブン太は割と長生きして、わいが結婚して子どもが三歳になるまで生きとった。」
「そうなんですね。」
また、ある日の会話はこうだった。
「ここの柴、普段はこんなんやけど、ちゃんと他の犬が来たら吠えるんやで。」
「そうなんですか。」
「上品な奥さんがミニチュアダックスを連れてここを通りかかったんやけどな、それを見た瞬間に柴が『うー、わんわん!』って。可哀想に、ミニチュアダックス、びっくりしてオシッコ漏らしてたわ。」
「えー、そんなことをする犬には見えないですね。」
「せやろ? それで雑種のほうはどうしてたかというと、柴の影に隠れてじっと様子を見とるだけや。こいつはホンマにずるい。」
「あはは!」
そして、おじさんと最後に交わした会話はこうだった。
「うちは嫁が……もう元嫁やけど、あんたみたいな犬恐怖症でな。家では犬をよう飼わんかった。嫁と離婚したら犬飼えるかと思ったけど、ペット可の物件はどこも家賃高いねん。わいの給料ではなかなかや、アッハッハ!」
おじさんは赤裸々に話していたが、特に沈んだ様子もなく、明るかった。
明日香は実感を込めて言った。
「じゃあ、こうやって行きつけの犬がいるのはいいことですね。」
おじさんは目を見開いた。
「行きつけの犬! 姉ちゃん、ええこと言うなあ。そうや、この子らは我々の行きつけの犬や。行きつけの犬に癒されに来とるんや、わいら。」
行きつけの犬、という表現自体は、明日香のオリジナルではなく、昔読んだ漫画で見たものだったが、この二匹はまさに明日香の行きつけの犬だ。
「よう通っとる割には、わい、この子らの源氏名も知らんけどな。」
「お金もかからないし、いい楽しみですよ。」
明日香の言葉に、おじさんはハッとしたような表情をして言った。
「そうや、人間の女は彼女も嫁も、飲み屋の子も、みんなお金がかかってしゃあない。これからは犬ひとすじで行こか。」
それ以降、明日香が犬のいる家の横に行っても、おじさんに会うことはなくなった。きっとおじさんが仕事でも変えて時間帯がずれたのだろう、と明日香は何となく思っていた。
一ヶ月ほど経ったある日、例の家の横に40代くらいの女性が立っていた。彼女は犬を撫でるわけでもなく、ただぼうっと見つめていた。明日香は女性に軽く会釈をして、駆け寄ってきた雑種犬の頭を撫でると、いきなり女性から話しかけられた。女性はジーンズにトレーナーとラフな身なりではあるが、割と整った顔立ちをしている。
「あんたか、犬恐怖症だった女の子は!」
「はあ、確かに私は犬が怖かった者ですが。」
明日香は不思議に思って女性の顔を見つめた。
「ここで犬と遊んでた、山崎って言う、いつも帽子被って自転車乗ってたおっさん知っとる? 背が170くらいでひょろっとしてて。」
名前までは知らなかったが、あのおじさんの外見的特徴に合致する。
「はい、よくここで一緒になりましたが。」
「あんた、あのおっさんの行先知らん?」
女性は目を潤ませて悲しそうな顔をしている。
「ごめんなさい、分からないです。私とは犬の話しかしてなかったし、最近会わないなあとしか思っていなかったので。」
「そうかあ。ダメ元であんたに聞いたら分かるかもしれんと思ってたのになあ。」
「ごめんなさい、本当に知らなくて。」
女性はため息をつきながら言った。
「うち、あの人と付き合ってたんよ。一緒に住もうって言ってた矢先におらんようになった。この間、あの人のアパートに行ったら人の住んでる気配がなくて。たまたま出てきた隣の部屋の人に聞いたら引っ越したって。」
明日香は尋ねた。
「おじさんの職場には聞いてみたんですか?」
「もちろん電話したよ。でも1週間前に辞めたって。本人の携帯電話も通じんし、全く連絡取れん。」
ガックリと肩を落としている女性に、明日香は少しでも手がかりになるようなものを与えたかった。
「ご実家に戻られてないですかね?」
女性は顎に手を当てて考えていた。
「実家か、あの人の地元は明石って聞いてるけど、探せば分かるかな? 明石も広いしなあ。うーん。」
「ご実家で犬を飼われていたようなので。」
「あー、確かに犬を飼いたい、が口癖やったなあ。実家、探してみよか。」
それにしても。
「お姉さんは何でここが分かったんですか?」
女性は初めて明日香に笑顔を見せた。
「ああ、あの人、よくここの犬の話を私にしてたからな。お前も行ってみたら、って地図書いて場所まで教えてくれてたんよ。けど、結局今まで来んかった。」
「おじさん、もしかして私のことも話してたんですか?」
「せやで、若い子、若い子、言うてニヤニヤして話してたから、浮気してたんやないかと思ったけど。」
明日香は否定した。
「全然そんな雰囲気はなくて、ただここで時々会って犬の話をしてただけなんです。電話番号やメールアドレスはもちろん、名前も知らないし。」
「そうみたいやなあ、ふぅ。」
女性はまたため息をついた。そして唐突に二匹の犬に話しかけた。
「あんたら、帽子のおっさんの実家、どこか聞いてないか?」
柴犬はいつものように寝そべっているし、雑種は尻尾をブンブン振っている。女性は苦笑いしていたが、明日香のほうを向いて頭を下げた。
「ありがとう、私もあんたと話ができてよかった。」
「いえいえ、お役に立てず、すみません。」
明日香も頭を下げた。
その夜、明日香はあのおじさんの行方を想像してみた。女性に言ったように、実家に戻って念願の犬を飼うようになったのかもしれない。また、ペット可のマンションに引っ越す算段がついて、そちらに移って犬を飼っているのかもしれない。いずれにせよ、おじさんは犬と一緒にいるところしか思い浮かばなかった。しかし。
「女の人との生活より犬との生活を取るってどうなのよ。」
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