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第5章 神々の異世界 ~天神回戦 其の弐~

第199話 女神の声

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 みづきは日和に問い掛けた。
 優れた巫女の夕緋は女神の声を聞けたのではないか、と。
 しかし──。

「──いいや、夕緋とも話したことは一度も無いのじゃ。無論、夜宵も同じじゃ。神はそうそう人に関わるべきではないからのう。見守るが花、と言うたじゃろ?」

「えっ……?」

 打って変わり、予想外の答えにみづきの表情は凍った。
 驚きと共に、背筋にぞわりと冷たいものが走る。

「い、いやいやっ、夕緋は女神の声を聞けていたんだろう? 下界を覗いてた時、見えないはずの俺たちに気付いてたくらいなんだからさ。日和は話したことがなくたって、夜宵とは何か話してたんじゃないのか?」

 妙な不気味さを感じ、みづきは少々と食い気味に問いを被せた。
 しかし、それにも日和はぴしゃりと答えた。

「みだりに下界に干渉するのは御法度ごはっとじゃ。巫女と言葉を交わすのは、破壊と創造の神威と同じで我ら姉妹の合意が必要となる。もし夜宵が夕緋との直接の関わりを持てば私にもわかるのじゃ。夜宵も断じて夕緋と語らってなどはおらんよ」

 巫女との語らいは下界への干渉であり、所謂いわゆる神のお告げともなる重大事だ。
 神の不文律ふぶんりつにうるさい日和なら、そんな軽率な行いはしないだろう。

 驚いているみづきを不思議に思い、きょとんとしている日和の様子は嘘を言っているようには感じられなかった。

 夕緋は夜宵とも話したことはない。
 それが行われれば日和にもわかる。
 それならば、あれはどういうことだったのだろう。

「仮にそんなことができるんなら、夜宵と夕緋だけずるいのじゃっ。私だって朝陽と話をしてみたいのじゃっ。そうじゃなぁ、何を話そうかのう──」

 くすくすと笑う日和は愉快そうな想像をしているが、みづきにはもう聞こえてはいなかった。
 頭の芯が熱くなり、地平の加護がにわかに回転速度を上げている。
 強ばった表情のみづきの中に夕緋の記憶が巡り渡った。

『私ね、女神様の声が聞こえるようになったの。困ったときにどうしたらいいか、どうやったら幸せになれるかとか、色々と教えてくれるんだ』

『他にも良くないもののやっつけ方とかも教えてくれたよ。悪い魔物や悪魔の王様はね、神様の聖なる力にとっても弱いの。私にはその力があるんだって』

『だから、三月のことは私が守ってあげるね』

 子供の頃、女神社おみながみしゃの境内にて、夕緋は無邪気にそう教えてくれた。
 その助言を思い出したお陰で、天神回戦の初戦を勝つことができたのだ。
 夕緋ははっきりと、女神と言葉を交わすことができる、そう言っていたのに。

「……夕緋、それじゃあ……」

 冷や水でも被せられたみたいに背筋が冷たくなり、みづきは小さい声で呟いた。

 それでは、夕緋はいったい何と話をしていたのだろう。
 日和とも夜宵とも話していないなら、何と心を通わせていたのだろうか。

 夕緋は喜々として、得意満面にしながら。
 その後ろには果たして何が居たのであろうか。

『そういえば、あのときの三月の質問に答えてなかったね。ほら、今でも女神様の声が聞こえるのかどうかって話……』

『うん、今でも聞こえるよ。私が女神様だと信じていた声は、ね』

『さあ、どういう意味だろうね。それは三月のご想像にお任せするよ』

 地平の加護は、なおも記憶を引き出してくる。
 あの時の夕緋の笑顔は忘れられない。
 影のある、ただならぬ雰囲気の笑顔。

 フィニスと八咫やたについての警告をして、危険な匂いを漂わせた。
 底にあるのは間違いなくみづきを心配する真心だったが、明らかに語らない何かを秘めた夕緋の怖さを感じさせられた。

 夕緋の後ろに居る何者かが良からぬことを囁いている。
 日和や夜宵ではない。
 それなら偽りの女神の正体として真っ先に浮かぶのは。

──夕緋が話していたのは八咫……。いや、女神と呼んでいたから女性だとして、フィニスのほうなんだろうか。どういうことだ、話し相手が仮にフィニスなんだとしたら、住んでる世界の違う夕緋と何を話すことがあるっていうんだ……?

『──護りなさいッ! 無関係な人たちに怪我をさせては駄目ッ!』

 新居探しのデート帰り、みづきと夕緋にビル群の割れたガラス片が降り注いだ。
 確かにあの時、鋭いガラスからフィニスの風魔法とおぼしき力で守ってもらっているように感じた。
 それでは、人ならざる話し相手とはフィニスだろうか。

──いや、話し相手が誰かどうかを断じるのは早計だ。第三の何者かが居る可能性だってある。この世のものじゃない何かが女神をかたり、そんな怪しい奴を話し相手に夕緋は何かを吹き込まれたっていうのか……。

『行方を眩ませたはずの三月に、夕緋が再会できたのって偶然だと思う?』

 胸騒ぎを感じるみづきの脳裏に、次は雛月の言葉が飛び込んでくる。
 行き先を告げず故郷を出てきたのに、夕緋はみづきを偶然に探し当てた。

 雛月が夕緋に疑いを持つよう差し向けたのかと思ったが、本当のところは違うのかもしれない。

──ガラスの雨から守ってくれたみたいに、俺の居場所を知りたがった夕緋の願いをその何者かが叶えた。もしもそうなら、女神を騙る何者かは夕緋と何らかの協力関係にあるのかもしれない。そういうことなのか、雛月……?

 雛月はきっと答えないだろう。
 しかし──。

 偽りの女神の正体がフィニス、又はあるまじき事だが八咫であった場合。
 間接的にそれらと敵対する立ち位置のみづきにとってはかんばしい事態ではない。
 雛月はそうした危険性を示唆しさしていたのではないだろうか。

 夕緋はフィニスと八咫にそそのかされている。
 或いは、正体に気付いたうえで切るに切れない関係を強いられている。

──それで夕緋はあんなことを言ったのか? 夕緋と付き合うのなら、フィニスと八咫との距離も必然的に近くなる。だから、俺のことを心配して……。

『三月、答えなくてもいいから覚えておいて。これから、私の周りで、銀色の長い髪で耳の長い褐色肌の背の高い女と、痩せてひょろ長い上背で蜘蛛の巣の柄の黒い着物を着流した男を見たらすぐに教えて。女のほうはそれほどじゃないけど、蜘蛛の男のほうはこのうえなく極めて危険よ。すぐに私が対処するから、絶対に隠さずに言って』

 夕緋は必死な剣幕で三月にそう言った。
 あれは間違いなくフィニスと八咫のことだったのだ。
 住む世界も事情も異なる魔の者たちが夕緋に何をもたらしているのか。

 いいように騙され、操られている可能性だってある。
 どんな形であれ、夕緋に他意があるなんて思いたくない。

 三月を想って涙を流し、身を案じてくれていた夕緋の気持ちは間違いなく本物だったのだから。

『せっかく三月と恋人同士になれたのに、こんなのってないよ……! どうして、いつもいつもこうなるの? 私が欲しいのは三月だけなのに、もう少しのところで必ず邪魔が入ってしまう……。私だって三月と結ばれたい、添い遂げたいよ……! もう私を一人ぼっちにしないでよ!』

『……三月、死なないで、生きて帰ってきて。お願い……』

 夕緋は女神の試練に挑む三月に心を痛め、過酷な運命を嘆いていた。
 溢れかえる想いを隠さず、三月と人生を共にしたい願いを一心に叫ぶ。

 あの綺麗な涙に絶対に嘘は無かった。
 それは確信できた。

「夕緋、俺、ちゃんと帰るよ……」

 まだ楽しげに朝陽との話題をあれこれ考えている日和をよそに、みづきは聞こえないくらいの声で呟いた。

 今回もどうにかなったものの、天神回戦を二度戦い、試合の外でも危うく慈乃に命を奪われそうになった。
 間違いなく、何度かの死線をくぐったのだ。

 迷宮の異世界のことまで思い返せば、さらに多くの修羅場しゅらばを切り抜けた。
 これで危険な征旅せいりょが終わると思うと、安堵か不安か自分の命というものについて考えてしまう。

「──なぁ、日和。神様に敗北の眠りがあるみたいに、シキだって死ぬことはあるんだよな?」

 みづきの唐突な質問に、日和は朝陽との空想遊びをはたとやめた。
 油皿の淡い光に何とも言えない表情のみづきが浮かび上がっている。
 日和は、うむと頷いてから。

「天神回戦の結果、酷いやられ方をすればいくらシキとて絶命に至る。そうなれば最早私にもどうすることもできんのじゃ。創造の秘術で蘇らせたとしても、完全に同一の存在とはならんじゃろうな」

 シキは神のために戦い、その結果次第では命を落とす。
 死を迎え、魂が失われればいくらシキでももう手遅れで、日和の創造を以てしても元には戻らない。
 どこか憂いのあるみづきの顔を見て、日和は優しげな微笑みを浮かべた。

「どうしたのじゃ、みづき? 怖くなったのか?」

「いや、シキの心って強いからさ、何か全然怖くないんだ。──だけど、死にたくはない、と思う」

 返ってきたみづきの力強い言葉に日和はもう一度頷いた。
 シキの死という質問の意図に思い詰めた何かを感じたようで、日和は心配そうな顔で言う。

「私とてみづきには死んで欲しゅうない。私とおぬしは一蓮托生いちれんたくしょうじゃ。ゆめゆめ生き急ぐでないぞ。みづきにもしものことがあれば私は悲しい……」

「日和……」

 暗い部屋に俯いた日和の顔は沈んで見えた。
 みづきの死を思い描き、そうなった時を思って悲観している。

 せっかくと八咫の眷属かどうかの疑いが晴れ、真に頼れる配下であると信じられるようになったのだ。
 自らの運命を預けるに相応しいシキの喪失は何としても避けたい。
 日和にそう思わせられるほどの存在にみづきはなっていた。

「心配してくれてありがとな。だけどさ、こうやって神様に気に掛けてもらうってことは、例えば人間に言わせると魅入みいられてるって言い方もできるよな。よく言うじゃないか、生きてる内は幸せだけど死んだ後は神様の供物くもつになっちまうってさ。要は神様の嫁婿よめむこ取りって訳だ」

 みづきは笑みを浮かべておどけた風に言った。

 夕緋に言われた通り、神に魅入られて恐ろしい目に遭う、とはまさにこれからのみづきの行く末を指すのだろう。
 天神回戦は激しさを増し、慈乃のようなさらなる強者と戦わなくてはならないのだから。
 みづきのシキとしての前途は険しきいばらの道そのものである。

「むぅ、嫌な言い方をするでないのじゃ……」

 それを言われる日和は不満そうだ。
 頬を膨らませ、じとりとした目をしてため息を吐き出した。

「魅入られるだの神の供物にされるだの、人間は理解が及ばぬ不可解な出来事や、超自然の営みをすぐにたたりと称して全部神のせいにしよるのじゃ」

 普段なら聞けるはずもない神様の文句が零れる。
 敬われ畏れられる立場ながら、それが過度となるのは不本意であるようだ。

「神隠しなどがその最たるところじゃ。気に入ったからとて、神が人の子をさらっていてはそれはもう魔物の所業よな。まして、仮にみづきが元は人間だったとして、攫ってきた人間を天神回戦に出すなどもっての外じゃ。所詮、人の子が神やシキ相手に何ができる訳もないのじゃ」

 肩を落としてもう一度大きなため息をついている。
 悩める神様は何だか滑稽こっけいだった。

 日和は神隠しで人をかどわかし、魅入って祟る神などではない。
 生け贄も求めてはいない。

 人間の行き過ぎた信仰の末に、大地に捧げられてしまった気の毒な巫女たちを心からしのび、供養くようをしていた。

 ひとたび怒れば天地を揺るがし、神威を振るうこともいとわない。
 神々の矜持きょうじに強いこだわりを持ち、下界の営為えいいにはただ見守るだけに留める。
 神らしい一面も持っているものの、日和は夕緋の言うような危険で恐ろしいだけの女神ではない。

 だから、みづきは諸々を納得したみたいに吹き出して笑った。

「そっか。やっぱり日和はいい女神様なんだなっ」

「何を勝手に勘繰かんぐって勝手に納得しておるんじゃ? ……変なみづきじゃなあ」

 怪訝な目をする日和に構わず、みづきは立ち上がって部屋を後にする。
 敷居を跨いで障子しょうじを閉めつつ、布団で上体を起こしている日和に声を掛けた。

「おやすみ、日和。──またな」

「明日の朝になればすぐ会えるじゃろうが。ますますもって変なみづきじゃ」

 日和からすれば、みづきの言葉や素振りは妙に映ったことだろう。
 次元の壁を越えるのなら、シキのみづきは一旦お休みである。

 次なる世界は順番的に現実の世界に戻るのであろうか。
 神々の異世界たるこの時間に帰ってこられるのは、迷宮の異世界を経た後になることも容易に予想できた。
 だから日和とはしばしのお別れだ。

 みづきが布団に戻ると、障子の向こうの明かりが消える。
 眠りに着く前、みづきと日和は就寝の挨拶を改めて交わした。

「日和、おやすみー」

「うむ、おやすみなのじゃ」


◇◆◇


 日和と一時の別れを告げた後、間もなく眠気がやってきた。
 やはり、この意識がぷつんと途切れる感じは通常の眠りとは違う特別なものだ。

 夢の中で目が覚める。
 それがしっくりとくる感覚である。

「何だか普通の登場だな。ここはどこだ? いつもの俺の部屋じゃないな」

 思い通りに声が出た。

 意識をこらすとどうやら直立の姿勢で、ぷかぷか宙に浮かんでいるようである。
 浮遊感は水の中を思わせ、溺れた過去の記憶からどうにも落ち着かない。

 今の自分はシキでもなければ勇者でもない。
 部屋着の地味な色のスウェット姿、特別な存在ではない普通の人間の三月だ。

 自分の形は認識できるが、周りは真っ暗で何も見えない。
 その暗闇の中心、正面に向かい合って、この空間の支配者が君臨くんりんしていた。

「三月の覚悟が決まったんじゃないかと思ってね。こうして待っていたんだ」

 朝陽の声なのに、朝陽のものではない声。
 両肘を抱いた格好で、身体の輪郭を輝かせ、闇に浮かぶのは雛月。
 いつもの紺色ブレザーと同色プリーツスカートの出で立ちである。

「10年前の惨禍さんかに、いよいよ向き合う時が来た」

 三月の奮う気持ちを察してか、雛月ははっきりと言い放つ。
 二巡目の異世界巡りを経て、三月の使命は確かなものとなった。

 恐怖を捨て、忌まわしい過去と向き合おうとする強い意志と共に。
 そして、今はもう一人ではない。

「ぼくも一緒に思い出す。だから、いいかい?」

 真摯な表情で、三月の決断を促す。
 タイムリープからの未来改変、それを実現させるために過去を振り返るは必須。
 すべてを取り戻すには避けては通れない重く苦しい試練である。
 三月は雛月と一緒に過去へと臨む。

「──ああ、頼む! 雛月!」

 力強い三月の返答を待っていたかのように、二人を囲む闇が一気に晴れ渡った。
 暗闇の黒から、晴天の青へと世界が色を瞬時に変える。

 三月と雛月は空に居た。
 地上から遙か遠く、雲と同じ高さの天空に。
 眼下に広がり、見渡すのはかつての懐かしき故郷の風景であった。

 在りし日の天之市神巫女町あめのしかみみこちょう──。
 三月と朝陽と、夕緋が生まれ育った町であった。

 乱心した破壊神の神威が襲い掛かってくる運命の時を迎える直前である。
 豊かな自然と共存する静かな地方都市は、この後に惨憺さんたんたる姿へ変わり果てる。

 10年前の惨禍。
 三月と夕緋の人生を狂わせ、朝陽の命を奪った凄惨の出来事。
 あの災いがいよいよをもって、想起される。

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