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03 正体ム
しおりを挟む体格の勝る相手に片手で肩を押されながらルルエは後ろ歩きで室内に戻される。
ソファーまで追いやられ、すとんと落ちるようにして座った。
前屈みになった男は左右の腕を伸ばすと、ルルエを挟み込むようにして背凭れに両手を突いた。
「この俺への挨拶も無く、どこに行く気だ」
精悍な顔がずいと鼻先に迫り、ルルエの唇を素早く吸った。
驚いたルルエは彼の分厚い胸を両手で押して、顔を下に向けた。
「お暇します」
「まだゆっくりしていけ。後で送ってやる」
「今すぐ帰ります」
「他人行儀はよせ。俺とお前の仲だ。おい、顔上げろ」
逃げるルルエを追いかけて来るしつこい声に、反発心が湧いた。
一体どんな「仲」があると言うのか。
「他人です。貴方なんか全然知らない人です」
「な、――」
「解放してください。早く無かった事にしたいんです」
「――――」
男の言動が急に止み、妙な沈黙が出来た。
そろりと顔を上げたルルエは、目を瞠った男と視線を交える。
彼は、何かに酷く驚いている。
でもルルエには関係ない。今だ。座面をささっと滑り下りて男の腕を掻い潜り、その包囲から抜け出す。
脱出成功も束の間、背後から伸びてきた長い片腕に腰を巻き取られた。
あっさり連れ戻された背中が男の分厚い胸と密着して、力強い両腕に上半身が捕らわれる。
ジタバタと逃げ出そうとするルルエの耳に、脅し付ける声が発した。
「お前、何を言っている。この俺を知らんだと。他人だと」
怒気を孕んだ声音にルルエはピタリと抵抗を止め、体を震わせた。後ろから首を噛みつかれる想像が湧き、恐ろしくなってきた。
彼は唸るように告げた。
「忘れているだと」
意外な言葉にルルエは瞬いた。
肩越しの相手をどうにか首で振り返る。
「忘れて? え、どこかでお会いした事ありますっけ? 貴方のお名前すら知らないんですけど私」
彼は再び驚愕に目を見開き、やはり怒りに戦慄いた。
「会っただろうが、ガキの頃。ビオドラ島のマリーナで」
ビオドラ、と口の中で復唱してルルエこそ驚愕した。
ルルエが行きたくて堪らない目的地、のご近所さんの名だ。
ビオドラは大陸南海で群島を形成する島の一つで、群島最大の通称ビッグアイランドである。そしてビッグアイランドの西に位置する群島最小の島ビッティこそがルルエの最終目的地なのだ。
茫然としているルルエに、彼は突き付けた。
「レクシー・ヴァルミュオラ・ミュクシウ――お前からはミュウと呼ばれていた」
ルルエは絶句した。
その長ったらしい名前を聞き取るのに難儀した子供の頃の記憶が一気に蘇る。
当時七歳だったルルエは、島で出会った獣人の子供に適当過ぎるあだ名を付けた。
「んうー、長い。舌噛む。もうミュウで良いね」
「え、あ、う……良い」
白くて丸い猫科の耳をくっ付けた銀髪の幼顔は、戸惑いながらもルルエにこくんと同意した。
あの大人しくて可愛かった仔猫ちゃんが、十一年の時を経てこんな屈強な軍人に成長していた。ちょっと信じられない。
ルルエは唖然の口を開いた。
「ミュウ、なの? なんかすっかり大きくなって……」
腰を抱く太い腕にぐっと力が込められた。
噛みつくように肩から身を乗り出し、ミュウことレクシーはルルエを睨んだ。
「ミュウはもうよせ。今の俺は獣人国海軍のミュクシウ隊司令だぞ」
軍服に縫い付けられた錨モチーフの徽章から海軍なのは予想が付いていた。
駐留軍の隊司令がどれほど大層な肩書きなのかは分からないが、偉そうに告げているから偉いのだろう、多分。
ぽかんとしたルルエの顔にどんな意味を見出したのか、レクシーは何故か皮肉ったらしい笑みを浮かべた。
「ふん、驚いて声も出せんか。さてはお前――昔ふった男が大出世したもんだから後悔しているんだろう」
ルルエは絶句を極めた。
ここに来て一番の衝撃に息が止まる。
――そうだった。そう、だった。
絶句の意味をはき違えているレクシーは、勝ち誇った顔でルルエに言い放った。
「とはいえ懐の深いこの俺は、今更擦り寄って来るなとか小さい事は言わん。すっかり性悪女に成り果てたお前の面倒を見れる男は俺しかいない。昔の誼もある事だし仕方ないから愛人にしてやるよ。だがどうしてもとお前が希うのであればまあ結婚してやらんでもない。だからって勘違いするなよ。俺はお前のこのドスケベな体が気に入ったのであって断じて――」
ターバンの下に可愛い獣耳を隠している分際で、レクシーは何やら好き勝手なことをごちゃごちゃと捲し立てている。
ルルエの意識は遠いところにあるから右から左だ。
ルルエは目的が半分近く達成されている件について思いを馳せていた。
何を隠そう可愛いミュウとの再会も群島の海に向かう理由の一つだった。
――生憎「可愛い」ミュウじゃなくなってるけど。
しかもこの思わぬ再会のお陰で長年抱えていた問題がサクッと解決した。
ミュウの正体を知った。
ルルエはずっとミュウの事を女の子だと思い込んでいた。
ルルエはずっと自分の事をガールにラブするガールなのだと思い込んでいた。
異性を愛せないらしい自分の性癖に悩んでいたからこそ婚活に踏み切れなかった。
悩みなど無かった。
ミュウは男の子だった。
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