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13.星空の花火

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第十三番 嬰へ長調 Lento緩やかに

 消灯の時間はとっくに過ぎているけれど、今夜も音楽室での練習を終えて病室に戻ってきた。
 「録音しておくこと。いいと思うんだ」
 響君の言葉が脳裏に再生される。

 多発性硬化症は発作と寛解の繰り返し。周期は不規則で、その発作の強度が変わっていく気がする。
 最初は指の感覚が少し鈍くなった時、練習を頑張りすぎたのかなって思っただけだった。症状はちっともよくならなくなってきて、それからたくさんの病院でたくさんの検査を受けて。多発性硬化症と分かった時、病名が分かったことへの安堵とともに、症状を知ったことへの絶望が私を襲った。デュ・プレも同じような気持ちだったと『風のジャクリーヌ』に書いてある。

 棚からCDを取り出す。響君にプレゼントしたものと同じ。CDデッキにセットしてイヤホンを通して演奏を聴く。もう何回聴いたのだろう。何回聴いても色褪せない。
 ジャクリーヌ・デュ・プレのドヴォルザークのチェロ協奏曲のCDは二つ持っているけど、私は1967年の演奏の方が好き。結局彼女の絶頂時の演奏になってしまったからかもしれない。
 もう一つの、恋人、旦那さんとなるダニエル・バレンボイムとの演奏は少しだけ甘く感じる。恋を知ると音色って変わってしまうのかな。私はまだ恋を知らないから分からない。また響君の声が脳内再生されてしまった。私は枕を顔に押し付けて身悶える。足をばたつかせたあと冷静を取り戻し、枕から顔を離して仰向けになり暗闇のなかの天井を見つめた。

 あなたは自分の音を失って何を思ったの?

 私は怖い。音を失うことが。残しておきたい反面、残せても、チェロを弾けなくなった私が、私の演奏を聴き返した時、私は何を感じるのかと思うと怖い。
 ドヴォルザークのチェロ協奏曲と同じく収録されているサンサースのチェロ協奏曲は発病後に録音された演奏。その日は奇跡的に指が回復して収録することができたらしい。この演奏に臨む時、デュ・プレは何を思ったのかな。演奏に込められたデュ・プレの声をずっと探している。
 CDジャケットを眺めながら私はこの録音時の背景が異なる二曲について想いを巡らせた。

 *

 数日後、僕はまた美海のお見舞いに行くことにした。
 「今日の体の調子はどう?」
 僕がそう尋ねると
 「悪くはないよ」
 そう答えるが美海は丁度点滴をしているところだった。細い腕に刺された針と点滴薬に繋がるチューブが嫌でも痛々しく見えてしまう。
 「この間、開国祭の花火は見れなくて寂しいって言っていたけど、今日は三浦海岸の花火大会なんだ。会場に行くのは難しいと思うけど、野比海岸の公園からでも見えるんじゃないかなって思って。行ってみない?」
 この間のCDのお礼がしたくて思いついたことだった。
 「わっみたいかも。海岸公園からなら人混みも少ないだろうし病院も近いから大丈夫なのかも!夜になるから外出許可頼んでみるね」
 美海は予想以上に喜んでくれた。

 美海は点滴の後も検査があるということなので僕は病室を出る。夕刻までまだ時間はだいぶあった。
 僕は音楽室に足を運んでみることにした。
 音楽室は施錠されておらずいつでも自由に入れるようだ。部屋の壁は学校と同じく吸音材の
で施工されている。それ以外にも冊子は二重にしてあったりしてそこそこ防音対策をしているようだ。
 音楽室のなかを見渡すと鉄製の黒い譜面立てが3つ。パイプ椅子がいくつか畳んで並べてしまわれている。そして小型のグランドピアノがあの夜と同じく静かに佇んでいた。学校の音楽室と同じ雰囲気だ。食毒液の匂いも充満しておらずまるでここだけは病院とは別に隔離された空間のようだ。
 正直、音楽室にはいい思い出がない。

 「だからお前はいつも一人ばっかりなんだよ」

 突然同級生だった石井の声を思い出す。
 そう、あれは小学校の合唱コンクールの伴奏者を決めようって時のクラスでの出来事だった。
 「先生ーピアノは波間君がいいと思いまーす」
 石井は尊敬の念を持って僕を推薦したわけじゃないことはわかっている。
 「断ります。僕は自分のピアノの練習があるので」
 「お前いつもそれだよなー。だいたい本当にピアノなんて弾けるのかよー」
 石井のちょっかいがとまらなかった。
 「僕はお前らみたく音楽なんて何もわからない奴らのために弾くピアノはないってことだよ」
 「なんだとーどうせ下手糞なの隠したいだけだろ?」
 石井が掴みかかってきた。
 「どうとでも言え。おまえがまともな耳を手に入れたら聴かせてやる」
 僕は大事な手はあげないように耐えながら皮肉を込めて対抗する。
 「お前のピアノなんかに頼まねーよ」
 そう捨て台詞を吐かれたところで先生が仲裁にはいった。

 あの時は本当にそう思っていた。
 ああそうか。『セロ弾きのゴーシュ』に出てくる子狸と同じように文句を言いながらもセッションしてみたらよかったのかな。

 僕はピアノの蓋をあけると、そっと鍵盤を撫でた。
 (ピアノを弾きたい)
 そう強く思った。
 だけど、ここで倒れてしまったことが脳裏に蘇る。
 白と黒で彩られた88個の鍵盤。それは人の可聴領域を掌握できる音域。楽器一つでそれが可能となる。だからこそピアノは楽器の王様と呼ばれる。誰の力も借りずに曲を完成させることだって出来る。オーケストラとは協演でなく競演をすることだって可能なんだ。たった一人で他の楽器達に立ち向かえる。だから僕はピアノに魅了されたのかもしれない。
 僕は震える指を鍵盤に落としてみたい衝動をぐっとこらえてピアノの蓋を閉じた。

 少し心が動揺してしまっているので僕は外の空気を吸うことにした。
 病院正面の短い坂を下り海岸沿いの歩道に出る。相変わらず野比・北下浦海岸の風は強い。
 東側にはかつて火を灯していた火力発電所の排煙塔が視界に入る。消えてしまった灯火と、僕の音楽への情熱が重なってしまうようだ。僕は首を振ってネガティブな思考回路を振り払おうとする。僕の音楽の灯火はまだ残っているはずなんだと必死で言い聞かせるように。

 海岸の歩道から戻り玄関でヒグラシの声を聴きながら美海を待っていた。
 「おまたせ。許可おりたよ」
 と美海の声が聞こえたので振り返ると、美海は朝顔柄の浴衣で現れた。
 「浴衣どうしたの?」
 僕が驚いていると
 「せめて夏くらいの雰囲気は感じたいなってことで病室に自宅にある浴衣持ってきて貰っていたの。まさか外で着れることになるだなんて思わなかったからすごく嬉しい」
 髪の毛もアップにまとめていてかわいらしく思えた。琥珀色のバンスクリップもくくりつけていて。演奏の時も付けているしお気に入りなのかなと思った。
 「えっと、どうかな?」
 美海が左側の後れ毛を触りながら感想を期待してくる。
 「いいと思うよ」
 「それだけ?」
 「ごめん、どう返事をしたらいいのか・・・」
 「いいよ。響君って洋服の感想聞いた時もちっともだったものね」
 美海は少しだけ頬をふくらませてふくれっ面をする。
 先日のショッパーズの出来事を回想させられる。今まで夏祭りに行ったこともないから浴衣姿の女の子を目の前にすることは初めてのことで正直緊張してしまったりしているので本当に陳腐な台詞しか思い浮かばない。
 「それじゃいこうか」
 頭をぽりぽりと掻きく僕に向かって歩き出すことを促される。美海と一緒に歩くのはもう初めてではないのに、浴衣の女の子と歩くのはとても気恥ずかしくなってしまった。
 会話が特に思いつかず美海の一歩先を歩く。
 と、シャツの背中をぐっとつかまれる感触に襲われた。
 振り返るとどうやら美海が引っ張ったようだ。
 「どうかした?」
 僕はちょっと焦りながら平静を装う。
 「ごめんね、草履に履き慣れてなくて、もう少しゆっくり歩いてくれると嬉しいかなって」
 えへへと美海は困り顔をする。
 「そうか、気づかなくてすまなかった」
 横に並んで歩くのは気恥ずかしいだとか余計なことを考えてしまっていたので謝ることにした。
 「あっ、ううん。全然大丈夫だから」
 美海に返って気を使わせてしまった。
 暫くシャツの裾を引っ張られたまま歩幅を合わせて牛歩のごとく歩く。
 「なぁ、このペースだと花火始まっちゃうかもしれないよ」
 そういって僕は美海の左手を握った。
 「えっえっえ?」
 美海があたふたする。
 そんな顔されるとこっちも恥ずかしい。
 「この方が歩きやすいかなと思ってさ」
 手を引いて歩きだした。
 美海は俯きながらも手をぎゅっと握り返してくる。
 とっさに握りしめてしまった左手。力強い演奏もするのに柔らかいんだな。この華奢な指から音楽が生まれるのかと。
 「えと、響君?」
 「ん?」
 気づいたら僕は握った美海の手を開いて5本の指をまじまじと見つめて足を止めてしまっていたようだ。
 「花火、遅れるんじゃないかな?」
 美海はさらに俯きながら右手で海岸公園を指さす。
 少し耳が紅潮しているのがわかり、自分はなんだか恥ずかしい行動をしてしまったとまたまた反省する。
 
 辺りはすっかり暗くなってきたが僕と美海は花火が始まる前に無事、野比の海岸公園に辿り着いた。今夜も浜風が心地良い。三浦海岸からは少し離れているので人はいないかなと思ったけれどやはり地元の人が数人集まってきていた。
 僕らは公園の階段に腰掛け花火の打ち上げを待つ。
 やがて定刻になると花火が雲一つない夜空のキャンパスを彩り始めた。美海の言った通り、空だけでなく海面も花火の色彩が投影され明るくなる。
 「花火ってどれも形が同じようで違うよね。火力の威力はもちろんだけど風の流れだったり打ち上げられた角度だったり。見る人からの方向によっても違うんだろうし。今、見えている花火でも、皆視線の高さが違うから、皆見え方が違うのかなって思うの」
 花火を眺めながら美海は自分の感性を惜しげもなく伝えてきてくれる。

 僕は世界をとても狭い視野でみていたのかな。美海は、見える景色、聴こえる音、視覚・聴覚が、やっぱり僕とは違う感覚を持ちながら生きているのかなって思った。実際に花火を見ながら言葉に耳を傾けると僕の体のなかにも微かに、そんな感覚を感じさせてくれる夜になった。

 最後のスターマインが終わると、人だかりは早々にいなくなった。
 先刻までの花火の破裂音との対比によって夜のしじまがより鮮明になる。
 僕は服が汚れるのも気にせずベンチに横たわって空を眺めた。
 先程まで花火が彩った空よりももっと高い、満天の星空を眺めると、まるで吸い込まれるような気分だった。
 「空に吸い込まれる気分だよ」
 思わず僕がそう言うと、美海ももう一つのベンチに横たわって空を眺めはじめた。
 「私は空に落っこちそうになるかな」
 美海の表現はやっぱり変わっている。
 「落ちはしないよ。重力があるのだから」
 「落ちるー」だなんて笑いながら美海が叫ぶ。
 「落ちはしないよ、背中にベンチの硬さを感じるじゃないか?」
 「それでも落っこちちゃいそうな気がするよ。響君もそういう風に感じてごらんよ」 
 そんなやりとりをしていると、なんだかずっと昔は、世界がそう見えていたような感覚にもなった。それはどこかで忘れてしまった感覚で懐かしいような、忘れてしまったような。 
 僕らは暫く満天の夜空を眺めて続けた。
 潮騒の音を聴きながら。

 僕らは特にこれといった会話をすることもなくベンチに横たわったままでいたが、美海は少し疲れた様子にみえた。
 「ごめん、少し無理をさせてしまったかな?」
 美海が病人であることを忘れてしまう時がある。
 「ううん。大丈夫だよ。ありがとう。でも少し疲れちゃったかな」
 へへへと少し弱く笑う。
 暗闇なのではっきりと表情はみえなかったけど声に力はなかった。見送りを提案したけれど、僕が駅までほぼ往復することになってしまうので大丈夫だよと気丈にふるまってくれる。
 海岸公園から近くバス停の時刻表を調べると病院前までのバスはまだ運行しているようだった。
 バス停までゆっくり歩きながら二人でベンチに腰を下ろす。
 重苦しい無言の時間が流れていく。それは砂時計の砂が落ち切ってしまうのをただ静かに待つしかないように。
 バスが来て、美海は僕の姿が見える座席に座ると小さく手を振ってくる。僕も小さく手を振り返すと同時に、バスは発射音と鳴らし扉を閉めてテールライトを帯びながら闇の中に消えていった。

 *

 帰り道、美海のことはずっと心配で自分の無力さを感じた。
 家に辿り着くと、自室の机の上に置いある美海がプレゼントしてくれたジャクリーヌ・デュ・プレのCDジャケットを眺めた。写真だけでもデュ・プレが躍動しているのが見てとれる。
 今なら聴くことはできるだろうか?プレゼントしてくれた日に試してみたが聴こえてくることはなかった。そして今夜はどうしても聴きたい気持ちが大きくなってしまっている分、また眩暈を起こしてしまうのではないかという不安がよぎる。
 僕は恐る恐るディスクをCDデッキのトレイに入れた。
 電気を消して、目を閉じる。
 CDが回転するだけのシューっというような音が聴こえるだけで演奏は聴こえてこない。それでも意識はまだ保てているが、僕は溜息をつくしかなかった。
 諦めかけた時、やがて、ふっとチェロの音が微かに聴こえた。
 それは水滴が蛇口から滴り落ちるように。
 そして水滴が徐々に水流を増すように、チェロの音が流れ込んできた。
 やがて音の波はうなりとなり、オーケストラの音も僕の意識を包みこむ。
 これがデュ・プレのドヴォルザークなんだ。心が震えてきた。

 ―ごく少数の演奏家しか持っていない才能を彼女は持っていた。聴くものに、目の前で音楽が出来上がっていくかのように感じさせる才能である。
 ―技術的難易度が高いとか、無難に演奏するという言葉は彼女には無縁のものであった。
 ―私がこれまで出会った偉大な音楽家の中で、彼女ほど音楽をごく自然な表現形態としているものはなかった。

 CDの冊子に書かれているバレンボイムの言葉だ。僕のように陳腐な言葉しか並べる事しか出来ない人間には、こうして一番傍で音楽を聴いていた人が言葉で形容を残してくれていることに感謝する。まさにこの言葉以外何ものでもないからだ。
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