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【一】「狐の媒人」
しおりを挟む武州の下奈良村に長兵衛という若い男がいた。
長兵衛は、旅商いの小間物屋で、鴻巣宿の伊勢屋という旅籠屋を定宿にして方々に出歩いて商いをしていた。
裕福ではないが実体で大人しく気の優しい男だった。
度々伊勢屋に泊まるうちに、宿の者とも顔馴染みとなったが、ある時伊勢屋の一人娘「お俊」と恋仲となる。
人目を忍んで逢瀬を重ねるうちに二人の気持ちは熟してゆき、ついには将来を誓い合う仲となった。
長兵衛は「いつか必ず夫婦になろう」とお俊に約束した。
しかしある年、鴻巣宿で火災があり伊勢屋にも類焼し、家の者は皆無事だったが宿は焼けてしまった。
もともと旅籠屋家業を面白くなく思っていたお俊の両親は、これを機に廃業しようと思い、故郷の親戚たちとも相談した結果、鴻巣を引き払い故郷の信州に戻ることにした。
当然お俊も両親と一緒に信州へと行くことになり、二人の秘められた恋は引き裂かれる形となった。
武州と信州、離れ離れになってしまった二人だが、お俊は長兵衛を一時も忘れる事が出来ず、人伝に長兵衛へ手紙を寄こしたが、どういうわけかなかなか返事は来なかった。
次第に不安になってくるお俊。
不安は次第に怒りへと変わり、怒りは恨みへと形を変えてゆく・・・。
「いつか必ず夫婦になろうというあの約束は嘘だったのね、憎い男・・・」
捨てられたと思ったお俊は鬼女のようになり、裏山にある古い稲荷の祠へと日参し、
「どうか自分を捨てた長兵衛をとり殺してください・・・」
と稲荷に肝胆を砕き祈り続けた。
実は、長兵衛には縁談が持ち上がっていたのだ。
もう、数えで26になる長兵衛、隣村の農家の二番娘を嫁にしてはどうかという仲人の勧めで、先方に話をする直前だったのである。
親孝行で大人しい性格の長兵衛は、鴻巣宿で夫婦となる約束をしたお俊という女がいることをどうしても両親に打ち明けられず、苦悩していたのだ。
当時は、恋愛結婚などは少なく、武家でも町人でも商人でも親の決めた縁談は絶対であった。
ある日、今にも振り出しそうな空の下、長兵衛が売り物を背負って鬱々とした気分で家路に向かっていると、家の門の近くで突然女が立ちふさがった。
・・・・その着物、顔立ち・・・・長兵衛は心臓が止まるほどビックリする。
「・・・お、お前はお俊・・・どうしてこんな所に・・・」
お俊は返事もせずに、恐ろしい顔で長兵衛に詰め寄ってくる。
「お、お俊、たった一人でどうやって信州の関を超えてここまで来たんだ・・・」
その当時、女の一人旅は容易な事ではなかった、ましてやお俊のような若い娘が一人で他国をウロウロしているなど、有り得ないことである。
長兵衛は、目の前にお俊がいることがとても信じられなかった、幻でも見ているのではないかという気がした。
長兵衛に詰め寄ったお俊が、いきなり彼の胸倉をつかんで、鋭い声で詰問する。
「おまえさん、約束と違うじゃないか!・・・いつか夫婦になろうって言ってくれたあの言葉・・・嘘だったっていうのかい?」
突然に現れたお俊に、長兵衛は全てを話す。
「親が進めている縁談に逆らえず、ずっと苦しんでいたが私が意気地なしだった・・・私の気持ちは変わっていない・・・・お俊、お前の顔を見て私は決めたよ。親には縁談を断ってお前と夫婦になる!これから一緒に私の家へ行こう」
「・・・・おまえさん、それは本心かい・・・・」
お俊のなにか獣のような光を帯びた鋭い目は、まだ疑いを解いていないようだ。
「・・・・ああ、本当だ、私はお前と夫婦になりたい!」
長兵衛がそう断言すると、お俊の表情も少し緩む。
二人連れ立って長兵衛の家の戸口に立ち、長兵衛が後ろを振り向くとそこにはお俊の姿はなかった。
今まで自分のすぐ後ろについて歩いていたお俊は、突然煙のように消えてしまったのである。
「・・・お、おいっ?お俊?・・・」
長兵衛が動転して大声を出した瞬間、彼は気を失ってその場でバタリと倒れてしまった。
家の中にいた長兵衛の両親は、戸口でなにかが倒れる音がしたので出てみると、息子の長兵衛が倒れているではないか。
「おい、長兵衛・・・・どうした?」
両親が慌てて、彼を家の中に引き入れて寝かし、湯よ水よ・・・とバタバタと介抱をする。
ようやく人心地ついた長兵衛がようよう目を開ける。
「・・・おお、気づいたか長兵衛、大丈夫か、いったいどうしたのだ?」
長兵衛は無言で上半身を起こすと、なにか訳の分からない事を口走り始める。
その瞳も、平静の優しい長兵衛とは異なり、どこか獣の光を帯びている妖しげなものであった。
「・・・き、狐じゃ・・・狐がついたんじゃ・・・」
長兵衛の父は、真っ青になる。
長兵衛宅での騒ぎを聞きつけて、近所の人達も集まってきて善後策を相談し始める。
ある人は山伏か僧を呼んで祈祷を頼もうといい、ある人は近くの稲荷の社に祈願をしようと言い出す。
「・・・長旅で腹が空いておるので、粥を食べされてくれ」
長兵衛が皆に向かって言う、その声もいつもの長兵衛の声とはまるで異なるものだった。
家の者達が、急いで粥を作って差し出すと、長兵衛に憑いた狐はしたたかに食べて満足したようだ。
父親が恐る恐る尋ねる。
「・・・・ど、どちらのお狐様でございますか?なぜ息子の長兵衛に憑りつかれたのでございます?」
「我は信州は諏訪郡田端村の狐であるぞ、ある娘の願によってこの男を取り殺しそうと思ってやってきたのじゃ・・・」
それを聞いて、長兵衛の父母は改めて驚き嘆き悲しむ。
「・・・・一人息子でありますので、どうか命を取ることはご容赦ください、お願いでございます」
父も母も、頭を床に擦り付けて哀願する。
「・・・・まあ、話は最後まで聞くものじゃ、この男が鴻巣宿の伊勢屋を定宿としていた頃に、そこの娘、お俊と偕老の契りを結んだのじゃ、その後伊勢屋は信州に引っ込んでこの男とお俊は離れ離れになったのじゃが、お俊はこの男の事を忘れられず文を何度も送ったが、返事が来ないために男を恨み、我の社に「この男を取り殺してくれよ」と祈願したのじゃ」
「・・・・長兵衛にそんな将来を言い交した女子がいるとは、私も存じ上げませんでした・・・」
「・・・しかしな、好き合った若い者同士が何かの理由で離れ離れになってしまうなどは、世間によくあることじゃ、そこで我はお俊に化けてこの男の本心を確かめたのじゃ」
長兵衛に憑りついた狐が続ける。
「もし、この男に将来を誓い合った女子を捨てる気持ちがあれば、我はその場でこの男を取り殺すつもりじゃったが・・・そうではなかった。この男がお俊を想う気持ちは変わっていなかったのでな・・・そこで我はこの男を取り殺すのを止めたのじゃ」
「・・・あ、有り難う存じます・・・・」
「・・・見れば似合いの男女ではないか、我が媒人となるから、男を信州に使わすか、娘をこちらに呼び寄せるか、いずれにしろ二人を夫婦にするがよいぞ、この縁は良縁であるから、必ず二人は幸せになるぞよ」
父母は、狐の言葉を聞いて喜ぶ。
「さっそく仰せの通り息子を伊勢屋さんの婿にいたします、有り難うございます」
「・・・それが良い・・・そうじゃ、娘にもすぐに知らせたいのでな、婚姻許可の儀、なにか書き付けにして寄こして欲しい」
父親は早速、二人を結婚させる旨の承諾を書いたが、その大きな封書を見て狐が言う。
「そんなに大きなものは持ってゆくことが出来ないのでな、もっと小さく書き直してくれ」
父親が、小さな紙に細かい字で書き直すと、それを受け取った長兵衛に憑りついた狐は、自分の耳へとその書面を入れた。
「そうじゃな、ついでに信州への土産も用意してくれ」
父親が、野菜や煙草など有り合わせの物を藁包みにして、長兵衛の首にかける。
「・・・・それではもう我は帰るぞよ、さらばじゃ・・・・」
そう言って、戸を開けて外へと出たとか思うと、再び戸口で倒れてしまった。
皆が慌てて抱き起すと、狐は堕ちて長兵衛は意識を取り戻した。
しかし、彼が耳に入れていた書付と首にかけた土産は煙のように消え失せていた。
次の朝、お俊がいつものとおり、日も明けないうちに裏山の稲荷の祠に祈願に行き、ふと神殿の前を見ると藁包が置いてある。
「・・・・こ、これは・・・」
何気なく藁包を手に取ってみると、ポロッ・・・と小さな紙切れが落ちた。
細かに折りたたんでいるそれを開くと、長兵衛の父親の名でしたためられた、息子長兵衛とお俊の婚姻を許可する旨の誓文だった。
お俊の顔がパッ・・と明るくなる。
・・・これはお稲荷様のお導きに違いない・・・・。
と同時に、愛する男を一時たりとも恨んで、取り殺して欲しいと神に願った自分が恥ずかしくなった。
お俊がその証文と土産の入った藁包を大事そうに家に持ち帰ると、お俊の父に呼び止められた。
「・・・お俊や、ちょっといいかい・・・・」
座敷で対面したお俊に向かって、父は娘の表情を探るように問う。
「・・・おまえ、心に誓った男でもいるのかい・・・・」
お俊が黙っていると、父は不思議そうに続ける。
「・・・・いや、お前ももう21だ、そろそろ婿を貰おうとも考えているのだが、実は昨日夢枕にお狐様が立ってな・・・・」
「えっ、お前さんも同じ夢を見たいのかい?」
隣で聞いていたお俊の母が素っ頓狂な声を出す。
「・・・えっ、ではおまえも同じ夢を見たのか・・・それでは、これはまさにご神意だな・・・いや、近々隣国からお前を嫁にしたいという男が来るので、それと夫婦にせよとの仰せだったのだ」
狐のお告げのとおり、数日後に父に伴われた長兵衛が伊勢屋を訪問し、お俊を息子の嫁に欲しいと申し出てきた。
見れば、鴻巣で旅籠をしていた時分、顔馴染みだった小間物屋の長兵衛ではないか。
お俊の父は、夢枕でお狐様から聞いたお告げの事を話し、喜んでお俊と長兵衛の婚姻を許可した。
稲荷の神の眷属である狐の言った通り、これは良縁となり二人の間には子宝にも恵まれ、両家共に繁栄した。
夫婦は、自分達の媒人となった稲荷の社の狐に供え物をするのを欠かさなかったという。
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