Nude

爼海真下

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17.

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 絵が完成したのは、窓からほの明るい日が差し込みはじめた頃だった。
 椅子を立った睦月は、距離を置いてキャンバスを観察した。しばらくじっと見つめて、もう手を入れるところはないと認めて、一息つくと同時に睦月の足から力が抜け、その場に座りこんだ。
 一息吐いてから、顔をあげ、F60号のキャンバスを仰ぐ。
 会と初めてセックスをしたときに、着想と猛烈な創作意欲を掻き立てられた——性行為に耽り身を火照らせ、蕩けながらも獰猛にぎらつく青い瞳でこちらを見てくる男が描きたい、と。その一枚を生涯の慰めにできるくらいのリアルと夢想をもって。
 理想通りの絵だった。
 けれど、やっぱり、本物の会の方が魅力的だなと思った。
 それでも、睦月の情欲は掻き立てられた。
 つなぎのファスナーをおろし、下着から取り出した熱は頭を擡げていた。絵の具汚れがついていて不潔だろうと思いながらも、扱く手は止められない。
「ん、ん……」
 絵の具と、ペトロールが香る、夏の朝に白が散る。ティッシュを手繰り寄せてそれを拭った睦月はすっかり力尽きて、そのまま床にころげて眠った。
 次に覚めたのは、繰り返し設定のアラームを設定している、午前六時半。短い眠りだったが、頭は冴えていた。固まった体を伸ばしたら、ぱきぽきと体のあちこちが軋んだ。ついでに、腹も鳴った。
 この倉庫のまわりに飲食店やコンビニは存在しない。駅の方まで行かなくてはいけない。なら、そのまま大学に向かおうと思った。
 朝一の人がほとんどいない第一アトリエ棟で絵を描くのは睦月の習慣だから。今日も普通に授業があるから。もしかしたら、今日も会の撮影があるかもしれないから。会えたら、声をかけよう。会えなかったら、電話をしよう。話がしたいと伝えよう。
 睦月は立ち上がり、絵に布を被せ、身なりを整え、早速、出発した。道中のコンビニで朝食を調達し、大学の門を潜ってまっすぐに第一アトリエに向かう。
 いつも通り、人気がない。他のアトリエにはもしかしたら、生徒がいるのかもしれない。それぞれお気に入りのアトリエというのがあるものだ。
 睦月は駅から近く、木目調の落ち着いたここが好きで入学時から愛用しているが、その名の通り、一番最初にできたアトリエだからところどころ古く、人気はまずまず。
 一番利用者が多いのは、数年前に建てられた第五アトリエだろう。新しいから設備が綺麗で、広々としている。第一アトリエにはない飲み物や軽食の自販機、画材の販売スペースまでもある。予約をすれば個室を借りて作業することもできるらしい。
 ただ九十九に聞いた話では、上級生ほどそこに集まるから、一、二年生は少し使いづらい。それに加え、遠藤もそこを常用しているようで、ときどき〝彼のお城〟になるのだそうだ。この学校内で唯一パトロンが付いている生徒であるが故に、遠藤に憧れ、彼を特別だと称賛し持て囃す者も少なくないようで、彼自身も尊大な態度とともにそれを煽るのだとか。あいにく睦月は見たことがないが、想像だけで面倒くさそうな光景である。九十九はたまに第五アトリエを使っていたそうだが、その空気に嫌気がさして、今ではすっかり第一アトリエの住人に切り替えたと言っていた。
 なんて考えながら着替えていたら、スマホが着信音を発した。そこには、会の名前が表示されていた。
 少しだけ、心臓が跳ねる。
 けれど、睦月は躊躇いなく応答した。
「……もしもし」
『あ、睦月。えっと、俺……会だけど』
 どこか驚いた様子で、いつにない辿々しい声で、会がそう言うのが少しおかしかった。
『電話出てくれて、ありがとう』
「うん」
『昨日は、ごめん』
「うん」
『……昨日のこと、ちゃんと、睦月と話したくて』
「俺も会と話したいことがある」
『……うん』
「できれば、ちゃんと、会って」
『会ってくれるの』
「なんか、今日の会はやけに殊勝だね」
『そりゃあ』
 会は勢いよく何かを言いかけながらも、とどまった。
『……今日の睦月は、いつもより少し明るいね』
「そうかな」
『出会った頃みたいだ……ねぇ、今日は大学にいる?』
「いるよ、今もアトリエにいる」
『今、会いに行ったら、迷惑?』
「近くにいるの」
『今日も撮影あるから。ちょうど車で向かってるところ』
 言われてみれば、その声の向こうに車の滑走音がかすかに聞こえる。
「二限からだから、大丈夫だよ」
『会ったときに、俺の気持ち、全部話すから聞いてほしい』
「会も、俺の気持ち、聞いてくれる?」
『もちろん』
「じゃあ、約束だ」
『約束』
「これから会って、ちゃんと俺たちの話をする約束。俺ももう、逃げ出さないから」
 会は、少し間をおいて「うん」と応えた。
『電話だから指切りできないね』
「小指くっつけられなくても、指切ったって言えば、指切りだ」
『強引だな。でも、悪くないね』
 会は小さく笑った。それから、「指切った」と睦月と会の声が重なる。
『待っててね、睦月』
 その言葉を最後に電話が切れる。思ったよりも早く、決戦の時が訪れることになりそうだ。
 つなぎのファスナーを引き上げ、両手で頬をぱしっと叩く。何がなんでも説得して、会を倉庫に連れ出して、あの作品だけは見てもらう。その先がどうなるかは分からないけれど、そうしないと、きっと、なにも終わらないしはじまらないから。
 アトリエに戻ると、人影があった。この時間に睦月以外の人がいるのは珍しい——。
「偶然だな、稗田」
 わざとらしくそう言ったのは、遠藤だった。
 噂をしていればなんとやら、第五アトリエの城主がどうしてここに……いや、そんなことよりも。
「その格好、朝帰りか? お相手は古宮会か?」
「それ、俺のキャンバスですよね」
 いやらしく笑う遠藤の手には、睦月が課題で『誕生』をテーマに描いた作品があった。グループ展に出品し、会と睦月をつなげた作品でもある。
「返してください」
「いいだろ、別に。どうせこの絵も燃やすんだろ?」
「その絵は」
「ああ、この絵には買い手がいるんだったか」
 睦月はわずかに目を見開いた。
「自分で話してたじゃないか。お前と同じ学年の、ほら、あのチャラいやつと」
 食堂で突っかかってきた後に、睦月と九十九の会話を聞いていたのか。
「上野さんにもちゃんと説明しておいてやったぜ。お前を口説いても無駄だって。あの絵には買い手がいるし、作品を燃やすような、自分の作品を粗末に扱うようなやつだって」
 だからなんだ、と睦月は思う。睦月は上野の名前を聞いてすぐに思い出せなかったくらい、パトロンの話に興味がなかった。
「俺、上野さんの話受ける気一切ないですから。遠藤先輩から、上野さんを奪ったりしませんから。構わないでくれませんか」
「お前がそうでも、あの人は違うんだよ!」
 突然荒げられた声に、睦月の肩が反射的に跳ねる。
「ちゃんとお前のクソみてぇなところを丁寧に説明してやったのに、なのにあの人は、なんて言ったと思う。それはそれで芸術家らしいとか言って笑ったんだ。いっそう興味が湧いたって言ったんだ……その口で、また、言いやがったんだ、あの人は。俺の最近の作品には魅力が欠けているって。このままだったら、って……」
 そのときになって、気づく。遠藤の様子は、昨日遭遇した以上におかしかった。いやらしい笑顔の中の、黒く鋭い目つきは、何かを決意した人間のものだった。
「全部お前が悪いんだ。全部、お前の絵が悪いんだ」
 遠藤はポケットに手を突っ込むと、マッチ箱を取り出した。
 睦月は息を呑む。アトリエは火器厳禁だ。油彩においてはオイルを多く使うし、それを拭った紙や布も引火性が高い。第一アトリエは木造だ、万が一があれば、大火事になり、ここにある作品はすべて燃えて灰になってしまう。
「脅かしにしたって洒落になりませんよ、それ」
「脅かしなんかじゃない。ここで全部、燃やしてやる。俺以外の才能全部」
 遠藤は睦月の作品から手を放し、突然駆け出したかと思うと、出入り口のところで振り返って、やすりで擦って火をつけたマッチを睦月の方へと放り投げた。
 咄嗟に後ずさる。
 扉の開閉音が聞こえる。
 睦月のキャンバスの上にマッチが落ちる。
 そして——炎が立ち上った。
 それは瞬く間に燃え広がり、視界が赤に染まっていく。ゆらめく熱に囲まれていく。はじめて見る、恐ろしい光景だった。
 睦月はすぐにその場を離れることができなかった。体が動かなかったわけではない。睦月の心臓は竦んでいたけれど、脚は竦んでいなかった。
 出入り口とは対角にある作品棚を見つめる。睦月の作品は……さんざん生み出しておきながら、燃やしてきたツケなのかもしれない。それでも、睦月以外にも数多の絵がここには収納されている。助けられないと分かりながらもそれらを見捨てるのが心苦しかった。
 だが、睦月ひとりで作品のすべてを救えるわけがない。急いでここから逃げ出して、消防なり警察を呼ぶのが最善に違いない。
 苦いものを噛み締めながら、出入り口を目指そうと思ったとき——睦月は偶然にもそれに気づいてしまった。
 睦月の作品棚に収納されている作品は、他の人と比べるととても少ない。いまそこで燃えているグループ展に出した作品を除けば、夏休み課題で作ったものと次の課題と自主制作、その三点のみがあるはずだった。しかし、一枚増えている。キャンバスじゃない、薄っぺらい画用紙が一枚。
 気づけば、睦月は歩き出していた。謎の引力に導かれるようなそれにはどこか覚えがあった。そして、たどり着いた自分の作品棚から、その一枚を抜く。
 取り掛けの輪郭。繊細な筆致。その線には、覚えがあった。左下に名前が記されていた。描いた本人ではない、幼い頃彼が何度も練習し習得した美しい漢字で、睦月の名前が記されていた。
 構図からして、あのドラマの撮影中に描いていたものだろう。どうして、睦月の作品棚に入っているのだろう……会自身が、入れたのだろう。
 意図は分からない。けれど、睦月のとって会の絵は、絵画描いた事実だけとても尊いものになる。
 くるりと筒状に丸めたそれを胸に抱えて踵を返そうとしたとき、すぐそばで炎がごうっと立ち上った。驚くと同時、煙を思いきり吸い込んでしまい、咳き込んだ。
 炎天に晒されるよりも、暑くて苦しい。止まらない咳に、睦月はついに立っていられなくなり、膝を折る。
 どうしよう、このままでは死んでしまう。死ぬのは、怖い。けれど、それよりも、会が描いた絵を失いたくない。せめて、この絵だけは、助けたい。
「睦月!」
 幻聴かと思った。
 けれど、睦月を呼ぶ声は繰り返された。
 白いものがあたりに噴き出される。その間に、ぼんやりと影が見えた。
「か、い」
 咳混じりの掠れた声が届くわけがないのに、それなのに。影は睦月の方に近づいてきて、そして、捉えられた。
 消火器を抱えた会が、現れた。
「睦月」
 会の顔が一瞬、くしゃりと歪む。白雪の頬は黒く汚れ、透けるような金の髪は焼け焦げている。まなじりは、かすかに濡れている。
 会は何か言いたげだったが、口は開かず、すぐに睦月の背に目を向けた。そして、睦月の作品棚から自主制作に使っていた小ぶりなキャンバスを一枚抜き取った。
 それから会は睦月を背負い、キャンバスを抱え、出入り口の方に駆け出した。
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