Nude

爼海真下

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 夏休み中も睦月は大学に通っている。夏休み明けに提出の課題があるし、大学入学時から常に課題と並行して自主制作も行なっている。これは学問を修めるための糧にもならなければ展示などにももちろん出さないため、真に無価値なものと言えるが、バイトと家で過ごす以外は少しでも絵が上手くなるようにと手を動かしていないと落ち着かない。
 課題の方は一度あたためたいタイミングになったから、その日の午前は新たな自主制作のエスキースに費やし、イヤホンのアラームで切り上げて、慣れない路線の電車に乗った。
 ギャラリーに訪れるのは搬入日以来なので、スマホで開いた地図を頼りに辿っていく。
 白い外装の細身の建物を見つけて、ガラスのドアにグループ展に参加しているデザイン科の生徒が作ったポスターを確認し、ドアを開けた。
 受付には午前の受付担当らしい男子がいた。同じ専攻ではない、名札などもついていないから名前は分からない。
 彼は俯いていた顔をあげると、あ、の形に口を開いた。客かと思ったらお前か、といった感じの表情。それから「うす」と微妙な挨拶をされたので、一応「お疲れ様」と声をかけた。
「あー……受付業務の内容覚えてる?」
 そわそわとした様子で尋ねてきた彼に、睦月は頷いた。
「たぶん、大丈夫」
 来たお客さんに挨拶をすること。
 来たお客さんの数をカウンターで数えること。
 絵を買いたい、感想を伝えたいなどといった問い合わせがあった場合は該当作品制作者の名刺を渡すこと。
「で、合ってる?」と一応指折り確認し彼の方を見れば、なぜか少し驚いた顔をしていた。
「あ、うん、合ってる。交代までまだ少し時間あるけど……展示見ていく?」
 展示作品は搬入日にすべて目を通していたから、睦月は首を横に振った。
「いや、どうせあと数分だし交代するよ」
「そう……」
 男子は受付用のテーブルの下に置いていたらしい荷物をまとめながらも、ちらちらと睦月の様子を伺ってくる。
 ただでさえ睦月は学内での関わりが希薄で、同じ油絵専攻ですらなく名前も知らない彼との関係は他人でしかないはずなのだけれどいったいどうしたのか。今の睦月になにかついているのか、それとも他の参加者から睦月のよろしくない噂を聞いて気まずいのか。
 不思議に思っていると、荷物を持って受付から出てきた男子が俯きがちに言った。
「あのさ」
「うん」
「今一人、客が来てて」
「うん」
「そ、それが」
 男子は妙に興奮気味に顔を上げた。そしてぱっと睦月と目が合った瞬間、はたと我に帰ったように、数度瞬き、
「やっぱりなんでもない。あと、よろしく」
 と口早に言ってそそくさとギャラリーを出て行った。
 一体なんだったのか。睦月は首を捻りながら、受付に回り、椅子に腰を下ろした。机上に置かれたカウンターに目を落とせば「13」と表示されている。それが多いのか少ないのか、美大生のグループ展に訪れる客数の相場は分からない。だが、少なからず見にくる人はいるのだなと妙な感心と居心地の悪さは覚えた。
 十三人目の客とさっきの男子の間に何かあったのだろうか。とても嬉しい感想をもらって誰かに共有したくなった、とか。けれど、睦月の顔を見て、あ、こいつは違うな、と思ったとか。ありそうではある。なにはともあれ、重要な話題ではないだろうと睦月はそれ以上考えることはやめた。
「受付中暇だったらレポートとかやってていいよ」と九十九に言われていたが、バイト先でも同じことを言われており、そちらも大概手が空くことが多くすでに夏休み中に必要なレポートはすべて片付いていた。スマホをいじる趣味もなく、思考をすると余計なことを浮かべてしまうだろうから、睦月はガラスのドアの向こうをぼうっと眺めることにした。
 そうして気づけば一時間が経過した頃、ふいに、あれ、と思った。睦月が受付に交代してからひとりだけ客が来た。それはつい先ほど帰っていったのだが、交代前からいるらしい客の姿を睦月はまだ見ていない。
 ぼうっとしてはいても、ドアの方を眺めていたのだ、人の出入りを見逃すはずもない。作品の数もそこまで多くはない、かなりじっくり作品を見るタイプの人が来ているか、よほど気に入った作品でもあったか。
 受付の机上には引き出し付きの小物入れがある。参加者各位の活動名が記載された引き出しを開けると、その人の名刺が入っている。もしかしたら、件の客がもし熱心なタイプなら取次を頼まれるかもしれないと思い、ちらりと引き出しを覗いてみる。
 芸術を志すものにとって、名刺も自分を売り込むためのひとつの作品なのだろう。どれも個性的で洒落たデザインをしていて、中には箔が押されているものもある。適当なのを一枚手に取ってみると、その下にあった名刺と箔の形が微妙に違うことに気づく。機械ではなく手作業でやってるのかな、となれば自分で箔を押せる道具がこの世にはあるってことかな。作品に使えるかもしれない、あとで調べてみよう——。
「ちょっといいですか」
 斜め後ろから声がした。
「あ、はい」
 件の客だろう、名刺を用意する心構えをして振り向いた。
 そこには男がいた。
「買わせていいただきたい作品があるのですが」
 睦月はしばらく言葉を紡ぐことができなかった。少ししてから、は、として返事をした。
「どちらの方の作品ですか」
「すみません、作者名が分からなくて」
「はぁ」
「ついてきて、一緒に見てもらってもいいですか」
「はい」
 睦月は受付から立ち上がり、男の後をついていく。
 その足裏に奇妙な浮遊感を感じる。
 男に導かれた先には無愛想な作品があった。
 イーゼルにキャンバスを置いただけ、受台には題名と作者名だけが書かれた作品説明が貼ってある。
 紛れもなく、睦月の作品。
「この「1」っていうのが作者名でしょうか」
 男は朗らかに問うてくる。
 睦月は答えに窮する。
 右手で左腕をきゅっと掴んで、俯く。
「……そちらは、売れない作品です」
「どうしても買わせていただきたいんです。作者に取り次いでいただくことはできませんか」
「できかねます」
「そうですか……」
 やっと諦めてくれた、と暗澹とした混乱の中でわずかな安堵を覚えたときだった。
「じゃあ、ひとつだけ、質問させていただいてもよろしいでしょうか」
 今更一体なんだとわずかに視線を持ち上げた時——青い瞳と視線が絡む。ガラス玉のように、相手の底まで透かしそうなほど、澄んだ青。
「この作品の作者は、稗田睦月さんですか」
 呼吸が浅くままならなくなる。
 今すぐここから逃げ出したくてたまらなくなる。
 けれど、睦月が今ここから逃げ出せば、九十九や他のグループ展参加メンバーに迷惑をかける。
 美大を目指したから、美大に入ったから、学位を得なくてはいけないから、他の誰かに迷惑をかけるわけにはいかないから。なけなしの責任だけがいつも睦月にブレーキをかける——目の前にいる会から逃がしてくれない。
「……違います」
 視線を逸らしてしまわないように、声が震えてしまわないように必死に気をつけた。その薄い唇が再び開かれるまでが何秒にも、何時間にも感じた。
「そうですか。すみません、変なことを聞いてしまって」
 こつりと音がした。踵を返した彼の革靴が床を打った音だった。
 完全にその背が見えなくなって、ドアが閉まる音がしたところで、睦月はすっかり腰が抜けてその場にへたりこんだ。
「なんで」
 無意識に言葉が漏れると同時、睦月の目から涙がぼたぼたと溢れ落ちた。床に小さな水たまりがいくつもできて、近くのもの同士が吸い寄せられ合うようにくっつく。歪に睦月を反射する。
 ——あれは本当に会だったのだろうか?
 雑誌の表紙で見た顔を、覚えのある面影を、つい先までそこで見ていた気がする。だが、姿が見えなくなった今、幻想だったのかもしれないとも思う。
 でも、もし、あれが本物だったら。
 なんで、会がここにいたんだ。
 なんで、あの作品が睦月のものだって思ったんだ。
 なんで、睦月に睦月のことを尋ねたんだ。
 眼窩が熱く、頭の奥が冷える。心臓がうるさくて、呼吸が止まりそうになる。みっともなくて情けなくて、いっそ、どうして今日まで生きてきてしまったのだろうとすら思った。せめて、そこにある作品をいますぐどこかに追いやらなくてはいけないと思った。
 イーゼルの上のキャンバスに手を伸ばす。「誕生」を描いた絵に触れる。しばらく見つめて、睦月はキャンバスから指を離した。
 爪を立てて引き裂いてしまいたかった。けれどそうしたら、会とここで遭遇したことが現実であったと信じてしまうことになると思った。目を擦り鼻を啜った睦月は床を押して立ち上がった。なにかを支えにしたかったけれど、展示物で満ちたこの場所に手をつける壁なんてない。床に落ちた涙の跡を服の裾で拭い消してから、必死に自立して、受付に戻る。幸い、それからしばらく来客はなかった。
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