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夏休み前最後の課題講評はいつも通りに終わった。好評をくれる教授もいれば、独創性に欠けるとか設計が甘いとか鋭く穿ってくる教授もいる。各々の感性による忌憚ない意見は、睦月がもっと絵を描くのが上手くなるために必要な礎だと思う。毎度きちんとメモを取り、反映する努力もしている。
だが、それになんら意味がないことも分かっている。睦月がどれだけの努力を積んだところで、いまだ消えない幻想の過去の古宮会は睦月の絵を否定する。会は、睦月の絵を嫌いだと言う。
会が認めてくれない絵に意味なんてない。幼い頃に芽生えて以来睦月の中でずっと培われ確立している絶対的な価値基準だった。
制作に集中しているときはいいが、作業の手を止めるたびに睦月の耳元で会が囁く。ひんやりとした青い瞳を向けてくる。
その度に、作品を滅茶苦茶にしたくなる衝動に駆られた。そうすれば進級ができなくなってしまうというなけなしの理性で講評まで堪えてきた。そして講評を終える度、やっとこの無価値な駄作を葬り去れると安堵した。燃えて灰になっていくそれを見るたびに虚しさを覚えた。睦月は昔からずっと、答え合わせができない海の中で必死に泳ぐ練習をしている。
今回も例に漏れず講評をしてもらうという役割を終えた作品を捨てたくなったけれど——。
「いやぁ、よかった。稗田が作品を燃やさなくて」
隣の運転席でハンドルを握る九十九が陽気な声でそう言った。
夏休みの半ばである今日は、グループ展の搬入日だった。主催者であり参加者の中で唯一運転免許を持っている九十九がレンタカーで展示を行うレンタルギャラリーに運ぶ手筈となっている。
他の参加者は昼前に学校に集合し作品をトランクや後部座席に積んだ後、電車でレンタルギャラリーに向かった。睦月は九十九に助手席に乗って行かないかと誘われ、レンタルギャラリーがある駅は定期券の圏外だから交通費が浮くと思った睦月は遠慮なく頷いた。
グループ展に参加を決めた時点で九十九と事務的な会話はするようになっただけでなく、被っている講義やアトリエで顔を合わせると声を掛けてくるようになった。
友達が多い九十九と、入学から今までずっと孤立していた睦月。真逆の取り合わせに好奇の視線が幾度も向けられたが、九十九はちっとも気にしない様子で睦月に絡んできた。睦月も基本的には周囲からどう思われるかは気にしない性質だから構わず受け答えた。
「稗田って今日六時までだっけ。バイト?」
「うん」
「なにやってんの」
「ラブホの受付」
「え、すげぇ意外なところついてくんじゃん。なぜにそのバイトを?」
「給料がよかったから。通いやすい位置だったから。非対面だから」
指折り説明しても、九十九は大袈裟に見開いた瞳をちっとも閉じない。
「えー、どの理由も気になるんだけど。下から聞いてくか」
「どれが下なんだよ」
「非対面だからってとこ? 稗田ってさ、たしかにとっつきにくい雰囲気はあったけど。でも実際話してみると、別に対人が嫌いっていうふうには感じなかったんだよね。なのに、非対面にこだわるの?」
たしかに、嫌いではない。これでも昔はクラスの中心にいて多くの友達と遊んでいた。ただその頃と比べたら、今の自分が歪んでいる自覚がある。他人への関心が薄まり、やさしくできなくなった。特に睦月に土足で踏み込もうとしてくる人間には、一年次の学祭実行委員と思しき女子を相手にしたときのように、つい嫌味な態度を取ってしまう。
「嫌いじゃないけど、得意じゃないから。下手に関わって傷つけたり怒らせたりしたら、面倒だろ」
「直田のときみたいに?」
「直田?」
「去年お前と言い合ってたじゃん」
「ああ、学祭実行委員っぽい人?」
「っぽいっていうか、去年はそうだったんだけど……名前覚えてないのかよ。もしかして俺の名前もID交換するまで知らなかった?」
「九十九は知ってたよ」
「えっ」
「苗字が個性的だったから」
「普通の理由だった」
なぜか九十九は肩を落とした。
「じゃあ、通いやすい位置ってのは」
「学校と家の間にあるから」
「たしかにそれはバイトするには好立地だな。俺も彼女できたら使わせてもらおうかな。同級生に会計してもらってホテルの部屋に入るのってなんか背徳感……」
会計は部屋についている精算機で行うし、鍵の授受も手しか見えないから、睦月からのものかは分からないだろう。存外初心なんだなと思ったが、睦月とて客側になったことはないから言える立場でもない。
「最後は給料だな。稗田って一人暮らし?」
「ああ」
出身地を口にすれば、九十九はわずかに目を見開いた。
「俺、中学まで隣の市に住んでた」
「そうなんだ」
信号が赤になり、車が停車する。
この街の真夏は非常に暑く、車内冷房だけでは涼が足りない。気休め程度に手で自身に風を送る。
「じゃあ、やっぱり、本当にそうだったんだ」
「なにが?」
「市民絵画コンテスト小学生の部、小学二年生にして最優秀賞を受賞した、稗田睦月くん」
睦月の手がぴたりと止まる。まるでこの世界の時間が一瞬止まったようにさえも感じた。
「隣の市にすごい絵が上手い同い年の子がいるって、俺が通ってた絵画教室まで噂が来ててさ。あー、懐かしい。母さんに一緒に見に行ってみないかって誘われたけど、断ったの。「俺より上手な子見たくない!」って。だから、作品を見たわけじゃないし名前も噂程度だったんだけど。自己紹介のときに、あれって思ったんだよね」
「なんでかなぁ、音感がいいからかな。ヒエタムツキって」と九十九は楽しげに話し、ドリンクホルダーに挿していたペットボトルを抜き取ってお茶を飲む。
「もしあのとき、俺が稗田くんの絵見に行ったりしたら、偶然会ったりして。幼馴染になれてたりしたかな。でも、当時の俺はさっき言ったみたいに絵が上手いやつに嫉妬むき出し野郎だったから、多分喧嘩ふっかけてただろうなぁ」
「……無理だよ」
「そりゃあ、たらればだけれどさ」
「もし本当に九十九と俺が会っても、きっと、友達にはなれなかったよ」
「もしかして性格が合わないとか言う? ちょっと傷つく~。俺、稗田くんのことケッコー好きなのに」
「俺が絵を楽しめなくなったの、そのときだから」
九十九の饒舌な相槌がぴたりと止む。
信号の色が青に変わり、九十九は、あ、と声を零すとまたハンドルを握った。
しばらく走行してから、九十九はまたちらりとこちらを見た。
「そのときに、稗田がどうしても絵を見せたくない人に出会ったってこと?」
睦月は浅く頷いた。
「ずいぶん早かったんだね。けど、小二でそんな相手に出会ったり、嫌な思いしたら、普通は絵を描くこと自体やめちゃいそうだけど」
当時の睦月ももう二度と絵を描くもんかと筆を投げた時期はあった。だが、絵を描くことをやめたら、もう二度と会が睦月の作品を認めてくれることはなくなる。褒めてくれることはなくなる。そう思うとすごく怖くなって、もっと上手くならないとと絵画教室に通わせてもらうようになったのもあの頃だった。
「俺も、やめたかったけれど、やめられなかった」
「もしかして稗田家は絵画スパルタ系の家庭? お父さんは現代アートの巨匠だったりする?」
「うちは父も母も芸術にあんまり造詣がない家庭」
「それはそれで、よくこんないい絵を描く子が生まれたもんだね。いや、稗田の努力か」
すごいな、と九十九がそっと瞳を細めた。
「どうしても見せたくない相手がいて、そのせいで自分の作品を愛せないのに、こんなになるまで絵を描き続けてる。すごい熱意だね」
「ただの執念、もしくは、呪いだよ」
「呪い、ね」
こんな話、今まで誰にもしたことがなかった。どうして九十九には話してしまったのか。最初に話したときに九十九の中の傷を見せてもらったから、睦月の事情に絶妙に踏み込み過ぎてこないから話しやすいのかもしれない。
「でも、グループ展に参加するのを決めたってことは、その呪いを祓う決意をしたってことかな」
今も九十九は苦いラインは決して越えずに、朗らかな声で話題の方向を少しずらした。
「祓えるかは分からないけどね。でも、九十九の話を聞いてやってみようと思ったのは、本当だよ」
真のトリガーは偶然出会ってしまった、雑誌表紙の会だ。だがあれも、九十九の言葉がない状態で出会っていたらただただ嘔吐して、傷ついて、終わっていた。
と、九十九の返事が突然途絶えたからどうしたのかと隣を見れば、九十九はこちらを見てぱちぱちと瞬いていた。
「前見てないと危ないよ」
「いや、うん、そうなんだけど……稗田って、ちょっと危ういな」
「危うい?」
「なんか稗田にそういう顔でそういうこと言われるとぞくってする」
「はぁ?」
意味が分からず、睦月は目を眇める。九十九は困ったような苦いような複雑な表情を浮かべている。
「変なところでまっすぐっていうか、純情っていうか。あと単純に顔の作りがいい」
それは……褒められているのだろうか。
「稗田のこと狙ってるやつケッコーいるからな。そのうえ作品を世に出したら……変なパトロンとかつかないように気をつけなよ」
「パトロンって。そんなもんつくわけないだろ」
一介の大学生に、俺なんかの作品に。両方の意味を含めて言ったら、九十九が首を横に振った。
「四年についてる先輩がいるよ」
「すごいな」
「すごいなって、結構有名だけど知らない? 遠藤先輩。かなり有名だよ」
「どっかで何かの作品出してたら見覚えあるかもしれないけど」
「去年の学祭パンフの表紙」
「ああ、あの鳳凰描いた人か。たしかに上手かった。精緻で迫力があって」
「稗田は作品で人を認識してるタイプなのね。難儀だなぁ」
肩を竦めた九十九は「まぁ、とにかく」と続けた。
「稗田は作品を世に出したら可能性あると思うんだよな。ただ、変なやつに好かれそうだから、気をつけた方がいい。絶対」
「そんなことないと思うけど。もし仮に作品を気に入ってくれても、俺と話したら多分、すぐに嫌になるでしょ」
「そういう妙に偏屈なところもだよ。まっすぐなのにどこか歪で隙があるっていうかさぁ……!」
嘆くように紡がれた九十九の言葉の意味はよく分からないまま、車は目的地であるレンタルギャラリーに辿り着いた。
参加人数は他学科も含めた同級生十人程度だが、ギャラリーはさほど広くなく睦月以外は複数点作品を展示する。それも平面や立体、多種多様なため、なかなか賑やかな雰囲気になる。
睦月は入り口から遠く目立ちにくい場所を選んだ。
自分の作品を額縁なんかに入れたくなかったからキャンバスのままのそれを立てたイーゼルに乗せ、その絵をなるべく見ないようにしながら、受台に作品説明の用紙を貼り付ける。
作品名は課題のまま「誕生」。作者名は「1」にした。
最初は自分とかけ離れたものをつけようと思ったのだが、あまりいいのが閃かなかった。数字なら匿名性が高そうだしいいかと妥協した。
皆の設営が完了すると、九十九の号令で参加者はエントランス部分に集合した。
「みんな設営お疲れ様! それでこれからのスケジュールだけど、明日から展示開始で、会期は一週間。受付は事前に決めたシフト通りね。みんな課題やバイトもあって基本的にワンオペになるから、もし遅刻や欠席するときは事前連絡厳守でお願いします。無名大学生の作品を盗むような輩はいないだろうけれど、お借りしているギャラリーに迷惑かけたら大変だから」
「無名大学生は余計だ!」と周囲の誰かが声を上げて、どっと笑いが起きた。
車中から道のりを見た限り、ギャラリーは駅からはそう遠くないが住宅街に紛れたひっそりとした場所に位置している。九十九曰くSNSを中心に宣伝はしているらしいが、それでも彼が言ったように無名大学生のグループ展にどれだけの人が足を運ぶのだろう。
美大の名前に釣られてくる人もいるのだろうか、それでもよほどの美術好きか、暇人か。訪れるのはそれくらいな気がしないこともないけれど。
睦月も学校に置かれているチラシなどをもとに目についた展示には足を運ぶようにしているが、会場が小さくても隙間がなくなりそうなほど人が来ている場合もあれば、会場が大きくても数えるほどしか人が来ていない場合もある。財力や狙いも主催や展示者によって異なる、口コミで話題になることもあるという。規模や知名度だけでは高は括れないのかもしれない。
睦月のシフトは九十九の配慮で一回のみ、三日目の午後をあてがわれている。小学二年生以来公に出す作品は、奥の隅に飾っている。
睦月が当番のタイミングでどれだけの人が来るだろうか、どれだけの人がそこまで足を運んで睦月の作品を見るだろうか。
古宮会以外にはどう見られてもいい、会が認めない作品はすべて無価値な駄作でしかない——この展示は睦月の中に刷りついて離れない過去や価値観と決別するための第一歩となり得るだろうか。落ち着かな気持ちのまま、睦月は当番である三日目の午後を迎えることとなった。
だが、それになんら意味がないことも分かっている。睦月がどれだけの努力を積んだところで、いまだ消えない幻想の過去の古宮会は睦月の絵を否定する。会は、睦月の絵を嫌いだと言う。
会が認めてくれない絵に意味なんてない。幼い頃に芽生えて以来睦月の中でずっと培われ確立している絶対的な価値基準だった。
制作に集中しているときはいいが、作業の手を止めるたびに睦月の耳元で会が囁く。ひんやりとした青い瞳を向けてくる。
その度に、作品を滅茶苦茶にしたくなる衝動に駆られた。そうすれば進級ができなくなってしまうというなけなしの理性で講評まで堪えてきた。そして講評を終える度、やっとこの無価値な駄作を葬り去れると安堵した。燃えて灰になっていくそれを見るたびに虚しさを覚えた。睦月は昔からずっと、答え合わせができない海の中で必死に泳ぐ練習をしている。
今回も例に漏れず講評をしてもらうという役割を終えた作品を捨てたくなったけれど——。
「いやぁ、よかった。稗田が作品を燃やさなくて」
隣の運転席でハンドルを握る九十九が陽気な声でそう言った。
夏休みの半ばである今日は、グループ展の搬入日だった。主催者であり参加者の中で唯一運転免許を持っている九十九がレンタカーで展示を行うレンタルギャラリーに運ぶ手筈となっている。
他の参加者は昼前に学校に集合し作品をトランクや後部座席に積んだ後、電車でレンタルギャラリーに向かった。睦月は九十九に助手席に乗って行かないかと誘われ、レンタルギャラリーがある駅は定期券の圏外だから交通費が浮くと思った睦月は遠慮なく頷いた。
グループ展に参加を決めた時点で九十九と事務的な会話はするようになっただけでなく、被っている講義やアトリエで顔を合わせると声を掛けてくるようになった。
友達が多い九十九と、入学から今までずっと孤立していた睦月。真逆の取り合わせに好奇の視線が幾度も向けられたが、九十九はちっとも気にしない様子で睦月に絡んできた。睦月も基本的には周囲からどう思われるかは気にしない性質だから構わず受け答えた。
「稗田って今日六時までだっけ。バイト?」
「うん」
「なにやってんの」
「ラブホの受付」
「え、すげぇ意外なところついてくんじゃん。なぜにそのバイトを?」
「給料がよかったから。通いやすい位置だったから。非対面だから」
指折り説明しても、九十九は大袈裟に見開いた瞳をちっとも閉じない。
「えー、どの理由も気になるんだけど。下から聞いてくか」
「どれが下なんだよ」
「非対面だからってとこ? 稗田ってさ、たしかにとっつきにくい雰囲気はあったけど。でも実際話してみると、別に対人が嫌いっていうふうには感じなかったんだよね。なのに、非対面にこだわるの?」
たしかに、嫌いではない。これでも昔はクラスの中心にいて多くの友達と遊んでいた。ただその頃と比べたら、今の自分が歪んでいる自覚がある。他人への関心が薄まり、やさしくできなくなった。特に睦月に土足で踏み込もうとしてくる人間には、一年次の学祭実行委員と思しき女子を相手にしたときのように、つい嫌味な態度を取ってしまう。
「嫌いじゃないけど、得意じゃないから。下手に関わって傷つけたり怒らせたりしたら、面倒だろ」
「直田のときみたいに?」
「直田?」
「去年お前と言い合ってたじゃん」
「ああ、学祭実行委員っぽい人?」
「っぽいっていうか、去年はそうだったんだけど……名前覚えてないのかよ。もしかして俺の名前もID交換するまで知らなかった?」
「九十九は知ってたよ」
「えっ」
「苗字が個性的だったから」
「普通の理由だった」
なぜか九十九は肩を落とした。
「じゃあ、通いやすい位置ってのは」
「学校と家の間にあるから」
「たしかにそれはバイトするには好立地だな。俺も彼女できたら使わせてもらおうかな。同級生に会計してもらってホテルの部屋に入るのってなんか背徳感……」
会計は部屋についている精算機で行うし、鍵の授受も手しか見えないから、睦月からのものかは分からないだろう。存外初心なんだなと思ったが、睦月とて客側になったことはないから言える立場でもない。
「最後は給料だな。稗田って一人暮らし?」
「ああ」
出身地を口にすれば、九十九はわずかに目を見開いた。
「俺、中学まで隣の市に住んでた」
「そうなんだ」
信号が赤になり、車が停車する。
この街の真夏は非常に暑く、車内冷房だけでは涼が足りない。気休め程度に手で自身に風を送る。
「じゃあ、やっぱり、本当にそうだったんだ」
「なにが?」
「市民絵画コンテスト小学生の部、小学二年生にして最優秀賞を受賞した、稗田睦月くん」
睦月の手がぴたりと止まる。まるでこの世界の時間が一瞬止まったようにさえも感じた。
「隣の市にすごい絵が上手い同い年の子がいるって、俺が通ってた絵画教室まで噂が来ててさ。あー、懐かしい。母さんに一緒に見に行ってみないかって誘われたけど、断ったの。「俺より上手な子見たくない!」って。だから、作品を見たわけじゃないし名前も噂程度だったんだけど。自己紹介のときに、あれって思ったんだよね」
「なんでかなぁ、音感がいいからかな。ヒエタムツキって」と九十九は楽しげに話し、ドリンクホルダーに挿していたペットボトルを抜き取ってお茶を飲む。
「もしあのとき、俺が稗田くんの絵見に行ったりしたら、偶然会ったりして。幼馴染になれてたりしたかな。でも、当時の俺はさっき言ったみたいに絵が上手いやつに嫉妬むき出し野郎だったから、多分喧嘩ふっかけてただろうなぁ」
「……無理だよ」
「そりゃあ、たらればだけれどさ」
「もし本当に九十九と俺が会っても、きっと、友達にはなれなかったよ」
「もしかして性格が合わないとか言う? ちょっと傷つく~。俺、稗田くんのことケッコー好きなのに」
「俺が絵を楽しめなくなったの、そのときだから」
九十九の饒舌な相槌がぴたりと止む。
信号の色が青に変わり、九十九は、あ、と声を零すとまたハンドルを握った。
しばらく走行してから、九十九はまたちらりとこちらを見た。
「そのときに、稗田がどうしても絵を見せたくない人に出会ったってこと?」
睦月は浅く頷いた。
「ずいぶん早かったんだね。けど、小二でそんな相手に出会ったり、嫌な思いしたら、普通は絵を描くこと自体やめちゃいそうだけど」
当時の睦月ももう二度と絵を描くもんかと筆を投げた時期はあった。だが、絵を描くことをやめたら、もう二度と会が睦月の作品を認めてくれることはなくなる。褒めてくれることはなくなる。そう思うとすごく怖くなって、もっと上手くならないとと絵画教室に通わせてもらうようになったのもあの頃だった。
「俺も、やめたかったけれど、やめられなかった」
「もしかして稗田家は絵画スパルタ系の家庭? お父さんは現代アートの巨匠だったりする?」
「うちは父も母も芸術にあんまり造詣がない家庭」
「それはそれで、よくこんないい絵を描く子が生まれたもんだね。いや、稗田の努力か」
すごいな、と九十九がそっと瞳を細めた。
「どうしても見せたくない相手がいて、そのせいで自分の作品を愛せないのに、こんなになるまで絵を描き続けてる。すごい熱意だね」
「ただの執念、もしくは、呪いだよ」
「呪い、ね」
こんな話、今まで誰にもしたことがなかった。どうして九十九には話してしまったのか。最初に話したときに九十九の中の傷を見せてもらったから、睦月の事情に絶妙に踏み込み過ぎてこないから話しやすいのかもしれない。
「でも、グループ展に参加するのを決めたってことは、その呪いを祓う決意をしたってことかな」
今も九十九は苦いラインは決して越えずに、朗らかな声で話題の方向を少しずらした。
「祓えるかは分からないけどね。でも、九十九の話を聞いてやってみようと思ったのは、本当だよ」
真のトリガーは偶然出会ってしまった、雑誌表紙の会だ。だがあれも、九十九の言葉がない状態で出会っていたらただただ嘔吐して、傷ついて、終わっていた。
と、九十九の返事が突然途絶えたからどうしたのかと隣を見れば、九十九はこちらを見てぱちぱちと瞬いていた。
「前見てないと危ないよ」
「いや、うん、そうなんだけど……稗田って、ちょっと危ういな」
「危うい?」
「なんか稗田にそういう顔でそういうこと言われるとぞくってする」
「はぁ?」
意味が分からず、睦月は目を眇める。九十九は困ったような苦いような複雑な表情を浮かべている。
「変なところでまっすぐっていうか、純情っていうか。あと単純に顔の作りがいい」
それは……褒められているのだろうか。
「稗田のこと狙ってるやつケッコーいるからな。そのうえ作品を世に出したら……変なパトロンとかつかないように気をつけなよ」
「パトロンって。そんなもんつくわけないだろ」
一介の大学生に、俺なんかの作品に。両方の意味を含めて言ったら、九十九が首を横に振った。
「四年についてる先輩がいるよ」
「すごいな」
「すごいなって、結構有名だけど知らない? 遠藤先輩。かなり有名だよ」
「どっかで何かの作品出してたら見覚えあるかもしれないけど」
「去年の学祭パンフの表紙」
「ああ、あの鳳凰描いた人か。たしかに上手かった。精緻で迫力があって」
「稗田は作品で人を認識してるタイプなのね。難儀だなぁ」
肩を竦めた九十九は「まぁ、とにかく」と続けた。
「稗田は作品を世に出したら可能性あると思うんだよな。ただ、変なやつに好かれそうだから、気をつけた方がいい。絶対」
「そんなことないと思うけど。もし仮に作品を気に入ってくれても、俺と話したら多分、すぐに嫌になるでしょ」
「そういう妙に偏屈なところもだよ。まっすぐなのにどこか歪で隙があるっていうかさぁ……!」
嘆くように紡がれた九十九の言葉の意味はよく分からないまま、車は目的地であるレンタルギャラリーに辿り着いた。
参加人数は他学科も含めた同級生十人程度だが、ギャラリーはさほど広くなく睦月以外は複数点作品を展示する。それも平面や立体、多種多様なため、なかなか賑やかな雰囲気になる。
睦月は入り口から遠く目立ちにくい場所を選んだ。
自分の作品を額縁なんかに入れたくなかったからキャンバスのままのそれを立てたイーゼルに乗せ、その絵をなるべく見ないようにしながら、受台に作品説明の用紙を貼り付ける。
作品名は課題のまま「誕生」。作者名は「1」にした。
最初は自分とかけ離れたものをつけようと思ったのだが、あまりいいのが閃かなかった。数字なら匿名性が高そうだしいいかと妥協した。
皆の設営が完了すると、九十九の号令で参加者はエントランス部分に集合した。
「みんな設営お疲れ様! それでこれからのスケジュールだけど、明日から展示開始で、会期は一週間。受付は事前に決めたシフト通りね。みんな課題やバイトもあって基本的にワンオペになるから、もし遅刻や欠席するときは事前連絡厳守でお願いします。無名大学生の作品を盗むような輩はいないだろうけれど、お借りしているギャラリーに迷惑かけたら大変だから」
「無名大学生は余計だ!」と周囲の誰かが声を上げて、どっと笑いが起きた。
車中から道のりを見た限り、ギャラリーは駅からはそう遠くないが住宅街に紛れたひっそりとした場所に位置している。九十九曰くSNSを中心に宣伝はしているらしいが、それでも彼が言ったように無名大学生のグループ展にどれだけの人が足を運ぶのだろう。
美大の名前に釣られてくる人もいるのだろうか、それでもよほどの美術好きか、暇人か。訪れるのはそれくらいな気がしないこともないけれど。
睦月も学校に置かれているチラシなどをもとに目についた展示には足を運ぶようにしているが、会場が小さくても隙間がなくなりそうなほど人が来ている場合もあれば、会場が大きくても数えるほどしか人が来ていない場合もある。財力や狙いも主催や展示者によって異なる、口コミで話題になることもあるという。規模や知名度だけでは高は括れないのかもしれない。
睦月のシフトは九十九の配慮で一回のみ、三日目の午後をあてがわれている。小学二年生以来公に出す作品は、奥の隅に飾っている。
睦月が当番のタイミングでどれだけの人が来るだろうか、どれだけの人がそこまで足を運んで睦月の作品を見るだろうか。
古宮会以外にはどう見られてもいい、会が認めない作品はすべて無価値な駄作でしかない——この展示は睦月の中に刷りついて離れない過去や価値観と決別するための第一歩となり得るだろうか。落ち着かな気持ちのまま、睦月は当番である三日目の午後を迎えることとなった。
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