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その客が、ホストクラブの麗しい見目をした男に刺青を入れさせたがる厄介な性癖を持っていることは有名だった。
普段の接客中は「あなたにはこの刺青が似合いそう」と仄めかすだけなのだが、接客において少しでも綻びを見せると一転。それを取り沙汰されては難癖をつけられた挙句、不始末を許す代わりに刺青を入れさせろと迫られ実際に彫られた男がこの街にはもう何人もいる。なまじこの街で一番大きな不動産屋の一人娘であり、権力も金も持っていたものだから、誰も逆らえなかったのだ。
彼女は『ホストクラブ・アルカード』にも月に二、三度のペースで訪れており、オーナーからは彼女が来店した際には日頃以上に隙のない徹底的に丁寧な接客を心掛けるよう喚起されていたし、誰もが注意をしていた——しかし、不測の事態というのはどうしようもなく起きる。
もともとそそっかしいきらいのあった新人ホストが彼女の席に着いたとき、グラスを倒しお酒を掛けてしまったのだ。
これは彼女が欲を曝け出すための格好の餌となった。回りくどくていやらしい声と言葉でそれはもう不手際を責め立て、新人ホストがどれだけ謝罪をしても、オーナーが仲介に入ってもちっとも鎮火してくれることなく、ああ言えばこう言って、挙句の果てには「じゃあ、あなたが責任を取ってくださる?」と、獲物を定めた猫のように瞳を細めた。
新人ホストは縮こまりきっていた。オーナーはこの場も収めたいし従業員を守ってやりたいと思うも我が身も大事だと質の良いシャツが濡れるほどの汗みずく。
他の誰も口を出すことができず、どちらか片方が犠牲になるのだろうと同情と不快の眼差しを向けていたそのときだった。
「じゃあ、責任取るのって、俺でもいいですよね」
緊迫した場にそぐわぬ軽やかな声に、皆呆気にとられながら顔を上げた。
そこにはこつりと革靴を鳴らしながら、ひとりの男がやってきた。
ミディアムの黒髪には少し癖があり、へらりとした笑みを浮かべる面立ちは非常に整っている。真紅のスーツをすらりと着こなす彼は『クラブ・アルカード』のナンバーツーを務める、折原四季だった。
「ほら、今日はもともと俺を指名する予定で来てくれたんでしょ。でも、オーラスの予定があって、代わりに、そいつに出てもらうことにしたのは俺なんで」
黒く縁取られたぎらつく女の眼が四季を射抜く。四季はそれにちっとも動じることなくにこっと笑顔を返す——正直、痛いのは嫌いだし、望まない絵図や色が自分の皮膚に入るというのはあまり気分がよくなさそうだけど、という内心を美しく隠しながら。
刺青なんて本当入れたくないが、困っている上司や新人を放っておく方がもっと気分が悪い。それに、この間にも他の客は不快な思いをしているだろう。オーラスでつく予定だったVIPルームの客も、ボーイから耳打ちされたフロアの状況を放っておけないと四季が願って、待ってもらっている状況だ。
少しでも早く納得してもらい場を収めるために、皆に楽しい場を取り戻せるように、彼女から特に好きだと褒めそやされていた笑顔を心の曇りを一切滲ませることなく装備した。
やがて、彼女の赤く染まった唇がゆっくりと弧を描いた。そして、次のオフを聞き出され、指定のタトゥースタジオに行く約束を交わした。
こうして嵐は過ぎ去り、オーナーや新人ホストからの感謝を受け、VIPルームに戻り、残りの時間は恙無く仕事を熟し終えた。
終業後、四季はいつも通りにホストクラブ近くの銭湯に足を運んでひとっ風呂浴びた。湯上がりの熱った体にひんやりとしたコーヒー牛乳を流し込む快感を楽しんでいたのだが、そこで、普段は関係ないと流し見していた褪せた注意書きが目についた——曰く、入れ墨をしたお客様の入浴は禁止しております。
ぽかんと緩んだ四季の口端から、コーヒー牛乳が一筋こぼれ落ちる。
来週の水曜日に刺青を入れる約束をしてしまった。そこで刺青を入れてしまえば、自分はもう銭湯や温泉に入ることができない。
四季は仕事の後、スパや銭湯に立ち寄りひとっ風呂浴びることを好んでいた。数少ない趣味、こだわりと言ってもよかった。しかしそれが叶わなくなってしまうと思うと、人生の明かりは薄らいでいく。
かつては弟に苦労のない生活をかけるために懸命に働いていた。だが、彼も自立した今、そして仕事終わりの大浴場でのひとっ風呂も奪われてしまえば、自分は一体なんのために働き生きるのか。修羅場を収めて、仕事も恙無く終えて、いつも通りの風呂とコーヒー牛乳を楽しみ快かった気持ちが、一気にどん底へと沈んでいく。
——いや、待てよ。入れる銭湯がないなら、自分で開いてしまえばいいのでは。
四季は俯きがちになっていた顔をぱっと持ち上げた。そうだ、自分で作ればいいのだ、刺青がある人でも入れる銭湯を。
この街でトップクラスのホストクラブでナンバーツーとして長く働き、弟も自立し趣味も入湯くらいしかないので、幸い貯金だけはわんさとある。物件のひとつぐらいは問題なく買えそうだ。
開業するとなればホストは辞めざるを得ないが、まぁ、そういった手合いは少なくないし、これまでたくさん売り上げに貢献してきた。二十七歳とそろそろいい歳だからあっさり許してくれるのではないだろうか。
一番の問題はどう開業するのかだが——あ、ちょうど今、銭湯にいるじゃん。
全は急げ、四季は脱衣所を飛び出すと、この銭湯のオーナーであり馴染みのおじちゃんに声をかけた。
「おいちゃん、風呂屋のはじめ方教えて!」
「突然になに言うとるんじゃ、というか、タオル一枚で出てくるんじゃない!」
妥当な説教は食らったものの、衣服をきちんと纏ったあと、四季がことの経緯を話せばおじちゃんは呆れながらもいろいろと説明してくれた。
そして今から、三ヶ月前——夏の暑さが緩やかに引き秋が香りだした九月の半ば、繁華街の隅っこに、深夜にのみ営業する銭湯『お風呂屋おりはら』が誕生したのだった。
普段の接客中は「あなたにはこの刺青が似合いそう」と仄めかすだけなのだが、接客において少しでも綻びを見せると一転。それを取り沙汰されては難癖をつけられた挙句、不始末を許す代わりに刺青を入れさせろと迫られ実際に彫られた男がこの街にはもう何人もいる。なまじこの街で一番大きな不動産屋の一人娘であり、権力も金も持っていたものだから、誰も逆らえなかったのだ。
彼女は『ホストクラブ・アルカード』にも月に二、三度のペースで訪れており、オーナーからは彼女が来店した際には日頃以上に隙のない徹底的に丁寧な接客を心掛けるよう喚起されていたし、誰もが注意をしていた——しかし、不測の事態というのはどうしようもなく起きる。
もともとそそっかしいきらいのあった新人ホストが彼女の席に着いたとき、グラスを倒しお酒を掛けてしまったのだ。
これは彼女が欲を曝け出すための格好の餌となった。回りくどくていやらしい声と言葉でそれはもう不手際を責め立て、新人ホストがどれだけ謝罪をしても、オーナーが仲介に入ってもちっとも鎮火してくれることなく、ああ言えばこう言って、挙句の果てには「じゃあ、あなたが責任を取ってくださる?」と、獲物を定めた猫のように瞳を細めた。
新人ホストは縮こまりきっていた。オーナーはこの場も収めたいし従業員を守ってやりたいと思うも我が身も大事だと質の良いシャツが濡れるほどの汗みずく。
他の誰も口を出すことができず、どちらか片方が犠牲になるのだろうと同情と不快の眼差しを向けていたそのときだった。
「じゃあ、責任取るのって、俺でもいいですよね」
緊迫した場にそぐわぬ軽やかな声に、皆呆気にとられながら顔を上げた。
そこにはこつりと革靴を鳴らしながら、ひとりの男がやってきた。
ミディアムの黒髪には少し癖があり、へらりとした笑みを浮かべる面立ちは非常に整っている。真紅のスーツをすらりと着こなす彼は『クラブ・アルカード』のナンバーツーを務める、折原四季だった。
「ほら、今日はもともと俺を指名する予定で来てくれたんでしょ。でも、オーラスの予定があって、代わりに、そいつに出てもらうことにしたのは俺なんで」
黒く縁取られたぎらつく女の眼が四季を射抜く。四季はそれにちっとも動じることなくにこっと笑顔を返す——正直、痛いのは嫌いだし、望まない絵図や色が自分の皮膚に入るというのはあまり気分がよくなさそうだけど、という内心を美しく隠しながら。
刺青なんて本当入れたくないが、困っている上司や新人を放っておく方がもっと気分が悪い。それに、この間にも他の客は不快な思いをしているだろう。オーラスでつく予定だったVIPルームの客も、ボーイから耳打ちされたフロアの状況を放っておけないと四季が願って、待ってもらっている状況だ。
少しでも早く納得してもらい場を収めるために、皆に楽しい場を取り戻せるように、彼女から特に好きだと褒めそやされていた笑顔を心の曇りを一切滲ませることなく装備した。
やがて、彼女の赤く染まった唇がゆっくりと弧を描いた。そして、次のオフを聞き出され、指定のタトゥースタジオに行く約束を交わした。
こうして嵐は過ぎ去り、オーナーや新人ホストからの感謝を受け、VIPルームに戻り、残りの時間は恙無く仕事を熟し終えた。
終業後、四季はいつも通りにホストクラブ近くの銭湯に足を運んでひとっ風呂浴びた。湯上がりの熱った体にひんやりとしたコーヒー牛乳を流し込む快感を楽しんでいたのだが、そこで、普段は関係ないと流し見していた褪せた注意書きが目についた——曰く、入れ墨をしたお客様の入浴は禁止しております。
ぽかんと緩んだ四季の口端から、コーヒー牛乳が一筋こぼれ落ちる。
来週の水曜日に刺青を入れる約束をしてしまった。そこで刺青を入れてしまえば、自分はもう銭湯や温泉に入ることができない。
四季は仕事の後、スパや銭湯に立ち寄りひとっ風呂浴びることを好んでいた。数少ない趣味、こだわりと言ってもよかった。しかしそれが叶わなくなってしまうと思うと、人生の明かりは薄らいでいく。
かつては弟に苦労のない生活をかけるために懸命に働いていた。だが、彼も自立した今、そして仕事終わりの大浴場でのひとっ風呂も奪われてしまえば、自分は一体なんのために働き生きるのか。修羅場を収めて、仕事も恙無く終えて、いつも通りの風呂とコーヒー牛乳を楽しみ快かった気持ちが、一気にどん底へと沈んでいく。
——いや、待てよ。入れる銭湯がないなら、自分で開いてしまえばいいのでは。
四季は俯きがちになっていた顔をぱっと持ち上げた。そうだ、自分で作ればいいのだ、刺青がある人でも入れる銭湯を。
この街でトップクラスのホストクラブでナンバーツーとして長く働き、弟も自立し趣味も入湯くらいしかないので、幸い貯金だけはわんさとある。物件のひとつぐらいは問題なく買えそうだ。
開業するとなればホストは辞めざるを得ないが、まぁ、そういった手合いは少なくないし、これまでたくさん売り上げに貢献してきた。二十七歳とそろそろいい歳だからあっさり許してくれるのではないだろうか。
一番の問題はどう開業するのかだが——あ、ちょうど今、銭湯にいるじゃん。
全は急げ、四季は脱衣所を飛び出すと、この銭湯のオーナーであり馴染みのおじちゃんに声をかけた。
「おいちゃん、風呂屋のはじめ方教えて!」
「突然になに言うとるんじゃ、というか、タオル一枚で出てくるんじゃない!」
妥当な説教は食らったものの、衣服をきちんと纏ったあと、四季がことの経緯を話せばおじちゃんは呆れながらもいろいろと説明してくれた。
そして今から、三ヶ月前——夏の暑さが緩やかに引き秋が香りだした九月の半ば、繁華街の隅っこに、深夜にのみ営業する銭湯『お風呂屋おりはら』が誕生したのだった。
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