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28:エピローグ H.K
しおりを挟む肋骨骨折と全身打撲。下された診断は主にその二つで、二日ほどの検査入院を終えた加苅は病院を後にした。
自宅に戻ると、億劫ではあったのだがシャワーを済ませてさっぱりする。短い入院生活では濡れタオルで身を清める程度だったこともあって、不快さまでは拭えなかった。
動く度に全身が痛むので必要以上に時間がかかってしまったが、身綺麗にした加苅は汚れていないスーツに袖を通す。
これから出勤しようというわけではない。仕事に関してはむしろしばらく顔を出さなくて良いと、長い休みをもらってしまった。
とはいえ、あれだけのことをしてクビにならなかったのが不思議なくらいだ。クビどころか、法廷に駆り出されたとしてもおかしくはないと思っていた。
加苅が想像していた以上に、上の人間は今回の件において事を荒立てたくはないらしい。
形式上は三か月の自宅謹慎処分という形にはなったものの、結果的には行いに対するお咎めは無しだ。
加苅を嫌う同僚たちにはまた好き放題言われるのだろうが、それ自体はいつものことなのでどうということはない。
着替えを終えたところで、タイミングを見計らったかのようにスマホが着信を知らせる。
「…………何の用だ」
表示された名前を見て少し悩んだ末に応答した加苅は、不愛想な声音で短くそう告げる。
どのように声を掛けても相手の反応が変わらないことは知っていたのだが、自然とそうなってしまったのだから仕方がない。
「つれないなあ、螢クン。退院おめでとう」
「弓慈、用件は?」
「用が無かったら電話をしてはダメかな」
「切る」
「冗談だってば、ちょっと待ってよ」
加苅を苛立たせるとわかっていて、透葉という男はいつだってのらりくらりと言葉を発する。
やはり出るべきではなかったかと早くも後悔するのだが、自分も一応は彼に用事があったのだと思い出して感情を飲み込む。
「……どうして來に資料を渡した?」
加苅が宮原妃麻の霊に憑りつかれていた時、透葉が捜査資料を來たちに渡していたことを知った。
結果的にそれが事件を解決へと導いたことは否めない。けれど、捜査関係者であるとはいえ、透葉という人間がそれをするメリットが見出せなかった。
「私だって、事件の解決を望んでいる一人だよ」
「どうだかな。本音はどうなんだ?」
通話口の向こうで透葉が楽しげに息を漏らしたのがわかる。やはり別の意図があったのかと思うと、今すぐにでもスマホの電源を落としてやりたくなった。
「螢クン、死者に憑かれるってどんな感じ?」
「あ?」
「長年遺体を解剖し続けてきてるけど、私は未だに死者と対話すらできたことがないよ。不公平だよね。だから聞いてみたかったんだ、どれほど素敵な体験だったのかって」
興奮した様子で矢継ぎ早に紡がれる言葉は加苅の想定以上に不快なもので、感情の高ぶりを落ち着かせるために深く息を吐き出す。
「礼は言う。だがお前は本当に最低の野郎だ、弓慈」
「それはどうもありがとう」
今度こそ本当に通話を切った加苅は、念のためにと電源をもオフにしてスマホをポケットに押し込む。
「……クソ野郎」
できれば着信拒否にもしたいところではあったが、職務に復帰すれば彼からの情報は必要不可欠になる。厄介なものだと思うが、それも仕事と割り切るしかない。
気持ちを切り替えて革靴を履いた加苅は、目的のために自宅を出て駐車場へ向かう。
乗り込んだ車の中でハンドルを握る手が不自然に思えてしまった加苅は、軽く息を吸い込んでからエンジンをかけた。
連続怪死事件は、表向きには犯人が国外に逃亡したものとして捜査が進められているが、実際にはすべてが怪異の仕業であるとして秘密裏に処理されていた。
宮原妃麻の死も含めて。
* * *
「……オレはどうも、刑事に向いてねえのかもな」
コンクリートの壁に話しかけたところで、答えが返らないことはわかりきっている。
これはただの独り言なのだと心の内で言い訳を付け足しながら、加苅は中身が減ることのないコーラのボトルをぼんやりと眺めた。
初めて二人で事件を解決した晩、流れで誘った祝い酒の席で驚くほどに酔い潰れた倉敷の姿は、今でも鮮明に覚えている。
酒が飲めないのなら最初にそう言えば良いというのに、嬉しかったからついと笑う彼は、以降は子どものように甘いジュースばかりを飲んでいた。
手向けにと持ってきた鮮やかなオレンジ色のカレンデュラは、未だそこに彼がいるかのような錯覚を起こさせる。
向けられた小言は数えきれないが、いるだけで場を明るくすることができる、賑やかな男であったと思う。
彼を静かに眠らせるための墓はまだ作られていないが、遠縁の親戚が遺骨を引き受けてくれることになり、無縁仏となる心配が無くなったのはせめてもの救いだ。
いざとなれば、加苅自身が墓を建ててやろうとは思っていたのだが。
時間制のコインパーキングは、事故があった場所としてしばらくは規制線が張られていたものの、現在は通常通り営業されている。
大通りからは少し離れた場所にあるので車の通りはそれほど多くないが、人目を盗んで休憩を挟むには丁度良い場所だった。
死後の世界は存在する。それならば、彼はまだこの場所にいるのだろうか。
視える甥の苦労を知っているからこそ、その力が自分にもあれば良かったとは思わないのだけれど。
「それでも、まだもう少しはしがみついてやるよ」
腰掛けていたガードレールから立ち上がると、加苅は怪我の痛みに少しだけ息を詰めてから、ゆっくりと背を伸ばす。
「お前みてえにやかましい相棒ができちまったからな」
「ピャ」
足元に置いたままだった灰色のケージの中から、小さな声が加苅を呼ぶ。
それに気づいて内側を覗き込んでみると、焦げ茶色の毛玉が外に出せとばかりに扉の前で訴えているのが見えた。
「お前な、さっきまでグースカ寝てたんじゃねーのか?」
「ピャ!」
「ったく……しょうがねえ、帰るぞタヌ公」
この場で子猫を外に出すわけにもいかないので、ケージを持ち上げた加苅はそれを助手席に乗せて、駐車料金を支払ってから自身も運転席に乗り込む。
エンジンをかけると半ば手癖のように、流れで胸ポケットから煙草を取り出したのだが。
『まーた煙草っスか』
「ッ……」
どこからともなく声が聞こえたような気がして、思わず窓の外を見る。けれど、加苅の目に映るのは相変わらずの風景ばかりだ。
「……わかったよ、うるせえな」
取り出した煙草を戻した箱ごと、握りつぶしたそれを加苅は後部座席に放り投げる。
ひと際大きな子猫の泣き声を出発の合図として、ハンドルを握った加苅はゆっくりと車を走り出させた。
「…………またな、八一」
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