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32:地獄
しおりを挟む「たか、つき……さん……?」
下半身だけになった彼女の断面からは血が噴き出していて、内臓のようなものがはみ出している。
よたよたと歩く両脚は不規則な動きを見せた後、バランスを失って僕の方に倒れ込んできた。
その拍子に、器に収まっていた中身がビチャビチャと音を立てて飛び出す。
「うっ……うわああああ!!??」
それを避けようとした僕は足がもつれて、その場に尻もちをついてしまう。
立ち上がろうと床に手をついたのだが、溢れる血液でずるりと滑って無様に倒れ込む。僕の身体を支えるための右手は、無くなってしまっていた。
どうして? なんでだ? たった今、目の前で喋っていたというのに。
湧き上がる疑問の数々は、すぐ近くから聞こえる不快な咀嚼音によってあっさり解決された。
二メートルほどはあるかと思われる、歪な丸い形をした巨大な肉塊。鮮度の悪い生肉を無理矢理に押し固めたようなその塊は、黒い液体を纏っている。
グチャグチャと音を立てて動くそいつの肉の合間から、こちらを見ている高月さんと目が合った。けれど、その瞳に生気は宿っていない。
あの塊が階段の上から、物凄い勢いで転げ落ちてきたのだ。その勢いのまま、僕の右手ごと高月さんの上半身を食いちぎっていった。
一緒に帰ると約束したのに、こんなにもあっさりと高月さんを殺されてしまったのか。
彼女を口に銜えたままのそれが、ゆっくりと僕の方を向く。あり得ないだろう、その目に見覚えがあると感じるなんて。
「喜多川……ッ」
そんな姿になってまで、僕を追いかけてきたのか。僕に絶望させる目的で、高月さんを殺すために。
肘を使ってどうにか起き上がると、僕は肉塊となった喜多川に背を向けて走り出す。
高月さんを殺した仕返しをしてやりたい。その気持ちよりも、対抗手段が無いことに焦りを感じたのだ。
両手が使えない以上、どうにかして逃げなければ。捕まれば僕は抵抗することすらできず、嬲り殺しにされるのだろう。
「うがっ……!!」
けれど、僕の足は何かに躓いて思いきり顔面を強打してしまう。痛みに悶えながら足元へ視線をやると、悲鳴にもならないような情けない声が漏れた。
線路の下から何かが這い出していて、僕はそれに足を取られたのだ。
異常なまでに細長い腕、ぱっくりと開いた頭部からは人間の顔が覗いていて、黒い液体を纏うそれは桧野さんのものだと理解する。
「セン……パイ……」
頭の中の顔が喋る。身体を捻って距離を取ろうとしたところで、僕は壁のようなものにぶつかった。
振り向くと、そこに立っていたのは全身がぶよぶよに腫れ上がり、溶け落ちた皮膚が悪臭を放つ異様な怪異で。面影など無いというのに、それが誰であるかを直感する。
「ふ、くむら……?」
名を呼ぶと、腕を伸ばしてくる怪異が僕のことを捕まえようとしてきて、床を転がるようにして回避した。
けれど、その先では肉塊が僕を待ち構えている。
肉塊の一部がぐぱりと開いたかと思うと、そこから小さな黒い何かがこぼれ落ちてきた。
内側にみっちりと詰め込まれていたのは、5両目で見たあの大量の羽虫だ。
肉塊の内部で不快な音を篭らせていた羽虫は、僕がそれと認識した途端に、一斉に外に飛び出してくる。
「わああああっ!!?? 来るなッ、やめろ……!!」
這いずるようにして逃げる僕をあざ笑うみたいに、羽虫は次々と身体にまとわりついてくる。
痛みと羽音の不快さが綯い交ぜになって、頭がおかしくなりそうだ。
どこに逃げればいいかもわからないのに、本能的になのか階段の上を目指していた僕は、ゴキンという音と共に両脚に強烈な痛みを感じる。
「ッぎゃああああ!!!!」
肉塊となった喜多川が、僕の両脚を掴んで力任せに骨を砕いたのだ。骨だけじゃない、脚自体がグチャグチャになっている気がする。
涙や鼻水で汚れた顔を拭う余裕すらなく、僕はあまりの痛みに胃の中身をすべて撒き散らした。
夕食は口にしていないから、消化されきっていない昼食かなんて、なぜか冷静に考えてしまうのは現実逃避なのだろうか。
「おげッ……げえっ、うえっ……!!」
吐瀉物の臭いが気にならないのは、福村の怪異が放つ異臭が辺りに充満しているからなのだろう。
そんなことを冷静に考えていた僕の目の前に、次々と怪異が姿を現していく。
いつの間に囲まれていたのか。いや、このホームに足を踏み入れた時から、怪異たちは息を潜めていたのかもしれない。
現れた怪異たちは、これまでの車両で遭遇してきた、かつての仲間たちだった。
仰向けになった僕にはもうこの場を逃げ出す力もなく、恐怖で浅くなる呼吸を鎮めようとすることしかできない。
「たす、けて……」
誰に求めているのかもわからない助けは、もう来ないのだろうと理解している。
それでも、この怪異たちに命乞いが通じたらいいなんて、バカなことを考えたのか。
ズル……ベチャ……と、何かが這いずるような音が聞こえてくる。
それは僕の足元から近づいているようで、頭を持ち上げてみると、肉塊の中から羽虫ではない何かが生み出されているのがわかった。
同じような肉塊にも見えたそれは、少しずつ形を変えて人のようなものになっていく。
ただし、首からは両腕が生えているし胸元に頭がついていて、全身に空いた小さな穴から黒い液体が漏れ出しているのが見えた。
「う、そだ……高月さん……」
身体を這い上がってくるその怪異が、僕の胸元までやってきた時、初めて表情を見ることができる。
そこには僕を冷たく見下ろしている、高月さんの顔があった。
頬の肉は抉れて口の中が丸見えになっており、片方の眼球も抉れたみたいに闇が覗いている。恐ろしい顔をしているが、これは間違いなく高月さんだ。
たった今死亡したばかりの彼女が、もう怪異になってしまった。
二人で一緒に生き残ろうと約束した高月さんは、逆の立場となって僕の命を奪おうとしている。
「きよ、せ、くん……」
「っ……高月さん、僕がわかるんですか……!?」
ぎこちなく言葉を発した高月さんは、間違いなく僕の名前を呼んだ。
もしかすると、まだ彼女の意識はそこにあるのかもしれない。そう思って伸ばした腕を、彼女の手が容赦なく掴む。
「あ゛あああああッ!!!! やめ、っやめてくださ……!!」
女性のものとは思えないほどの強い握力で、手首を失った僕の腕の断面が砕かれていく。
半ば引きちぎるようにして引っ込めた腕からは、黒い液体を纏う血液が溢れ出す。
そんな僕を見た高月さんが、綺麗に口角を持ち上げたのが見える。僕の苦しむ姿を見て、笑っているのだ。
「アハハハハッ! ねえ、つらい? 痛い?」
「っガ……つ、らいです……ッ」
聞くまでもないことだと思うのに、どうしてそんな質問をするのか。
怪異となった彼女の考えることなんかわかるはずもなくて、僕は必死に頷いて見せる。
そうすると彼女はますます上機嫌になって、今度は力任せに僕の左耳を引きちぎってきた。
悲鳴を上げることもできないまま、僕は両目を見開いて彼女を見上げている。
「良かった」
高月さんの両手が、僕の頬を包み込む。優しいその仕草ですら、黒い液体のせいで痛みを伴うのだが。
輪郭をなぞっていた彼女の親指が、僕の左右の下瞼に触れる。
瞼が溶かされることの痛み。それよりも、彼女がやろうとしていることを察して、僕は暴れ出そうとした。
それが叶わなかったのは、高月さんの方が先に行動を起こしたから。
「簡単には死ねないから」
眼孔に彼女の長い指が押し込まれた時、僕は察したのだ。
この地獄のような苦しみは、これからが始まりなのだと。
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