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第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

23.

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 髪を乾かして、階段をおりていくときも響生がカメラをおろすことはなかった。環和は絶えず響生の目に追われて、スタジオに入る頃にはまるで視線に躰がコーティングされたような感覚がした。
 スタジオに入ってびっくりしたのは、撮影スペースにダブルベッドくらいあるんじゃないかという巨大なクッションみたいなものが置かれていたことだ。天井からは暖簾のれんのように、十センチ幅のシースルーの布――オーガンジーがいくつも垂らされてクッションの上に溜まっている。カメラも天井から吊されたりクッションの隅にあったり、据え置きで三台ある。それらを囲むようにして三方にスクリーンがおりていて、機材を無視すれば白で統一した空間ができていた。

「まずそこだ」
 響生は一台のカメラを指差すと、環和を連れていった。
 じっとしてろ、と環和を立たせてカメラの位置を調整したあと、響生は着ていたシャツを脱ぎすてる。それからジョガーパンツのポケットに手を入れて、環和から預かったリップを取りだした。
「何?」
 目の前に立った響生を見上げて首をかしげると、頭はまっすぐだ、と響生は云い、環和の顎を左手の指先でわずかにすくい上げた。
「おまえだけ裸というのも不公平だろう」
 環和のひと言の疑問の真意を読みとって答え、響生はふと顔をおろしてきた。焦点が合わなくなるほど近づいたとき、タイマーセットをしていたのか、カメラが連写しだす。響生が顔を傾けて環和は反射的にくちびるを開いた。その瞬間、響生の顔は離れていき、そのままだ、と云って環和のくちびるにリップをつけた。赤味の強いピンク色がのせられていく。色づいてしまうまでにいつの間にか連写音はやんでいた。

「メイクしなくていいの? リップだけ?」
 据え置きのカメラを覗き、連写したシーンを確認していた響生に訊ねると、響生は傍の台の上から環和専用のカメラを取りあげた。
「せっかくきれいな肌をしてるんだ、隠すほうがもったいない」
 響生がお世辞を云うはずはなく、環和ははじめての褒め言葉にめいっぱい顔が綻んでしまう。それを狙っていたのだろう、カシャッとシャッター音が二回続いた。
「響生、終わったらわたしにも撮らせて」
 すると響生は近寄ってきて、持っていたカメラを環和に差しだし、オーガンジーのカーテンを指差した。
「どんなふうに使うか、おれが手本を示す」
 カメラの操作を環和に教えたあと、響生はクッションの真ん中に行った。

「響生、響生も全部裸になって」
 響生はオーガンジーをつかみかけていた手を止めて環和を見やる。何か云いたげで、断るかと思いきや、響生は肩をそびやかすとジョガーパンツに手をかけておろした。下着は身に着けていなかったようで、響生は惜しげもなく恥ずかしげでもなく裸体を晒す。
 四十歳を一年後に控えた人がどれだけ維持できているのか、響生のように締まった――それ以上に彫刻のような肉体美を持った人はそういないだろう。環和は見惚れてしまう。が、響生は無頓着で、オーガンジーを一本取って腰もとを二重に巻き、中心を際どく隠しながら、余った部分を片脚に緩く巻きつけている。そうして片手に一本、もう片方で二本、下の方からすくうようにつかむ。
 環和を見て響生の首がかしいだ。
「いいよ」
 無言の問いに環和が応えると響生が動きだした。

 オーガンジーを腕に巻きつけて両腕を水平に広げた姿は、まるで十字架をバックにした磔刑シーンだ。顎を引きカメラ目線で睨めつける響生は運命に逆らうようで、反対に天井を振り仰げば救済を求めているかのように見える。
 そうしてマスクのように口もとを覆ったり躰に絡めたりと、自在にオーガンジーを扱う。響生は容姿もさることながら、自らがモデルになれるほど動きがしなやかだ。上半身が裸であるぶん、妖しいような色気と、獣のような迎撃性と紙一重の警戒心が窺える。つまり隙がない。
 なかなか被写体になることのない響生を撮りたいと思ったのに、そのうちうまく撮れたかどうか環和はどうでもよくなってカメラをおろした。

「気がすんだ?」
 いち早く気づいた響生は動きを止め、ただ眺めていたいと思った環和の欲求を中断させた。
 すんでない、と云うと響生は吹くように笑い、環和のところへ向かってきた。
「もしかして響生、モデルやったことある?」
「大学時代にファッション誌の読モをやってたことはある。バイト代自体は少ないけど、おれとしては撮影側の勉強をしたかったし、プロの現場をただで学べたぶんメリットのほうが大きかった」
 響生はいつも怠らない。それに比べて自分がいかに適当にやってきたか、環和は自分の甘さにうんざりする。
「響生はすごいね」
「交代だ。きれいに見せる必要はない、きれいに撮ってやるから」
 環和の心底からの称賛をスルーして、響生は環和の手からカメラを取りあげて立場を逆転させた。
「でも、さっきの十字架、真似してみたい」
 響生は薄く笑い、ご自由にと云うかわりに首をひねった。
 環和は響生が立っていた場所に行くとオーガンジーで胸を隠し、躰に巻きつけながら腰もとを覆って片脚に絡ませる。そうして響生と同じ恰好から撮影は再開した。

「おまえはこれからどうする? ミニョンをやめたんだろう」
 立ったり座ったりしながら撮影されるさなか、響生はそんなことを訊ねてくる。
「いまは……グラフィックデザインの勉強をしようと思ってる」
 戻した時間はまた現実に還り、環和はためらいがちに云ってみた。
 響生の手が止まったのはつかの間。
「そういうとこに就職したいなら紹介してやるから連絡すればいい」
 それは環和が期待した返事とはまったく違った。
「わたしは……響生の仕事を手伝いたい」
「無理だ。わかってるだろう」
 即行の返事は思っていたものでしかない。わかっている。一緒にいればきっと気持ちを抑えられない。

「結婚して、一緒に仕事ができたらって思ってた」
 いまもまた我慢できずに叶わない本心を漏らしてしまう。響生はそっぽを向くように目を逸らし、そうして環和に戻した目は、嫌な予感を覚えさせるくらい断固としていた。
「環和……いつか、だれかがおまえの前に……おれよりも真っ当に現れるだろうな。それまで、いまのまま、きれいでいろ」
「響生!」
 嫌な予感は外れることなく、突然、環和の視界は濡れて響生の姿が歪んだ。
 シャッター音が連続し、次には響生が目の前に来た。やっぱり視界は滲んでいて、瞬きをしても間に合わず、響生がどんな表情をしているか見分けられない。

「おまえは一人っ子だし、いずれおれみたいに天涯孤独になる。けど、そういうさみしさは必要なものじゃない。年相応の奴がきっといる。おまえに必要なのは一緒に添い遂げられる相手だ。環和、幸せになれ」
「響生は? 響生にもだれかが現れるの?」
「おれはおまえに会った。おまえはおれに会った。そういう出会いが一度きりだという保証はない。何度もあるという保証もない」
 真っ当な答えであり、環和の望んだ答えではなかった。
 濡れた頬を響生がくるみ、親指が涙を拭う。
「大丈夫だ」
 響生は意味のない言葉を吐く。もしかしたら、自分に云い聞かせているのかもしれない。
 環和もまた響生の頬に手を当てて伸びあがる。

「響生、愛して。最後に……愛してるって教えて」
 響生は口を噤んだままで、それでいて環和の頬に添えた手を放すこともない。
 爪先立った力が尽きる。
「響生っ」
 死の真際にあるように叫んだ刹那。開いたくちびるがふさがれた。
 荒々しく何かを探すように口の中がまさぐられる。環和が応える隙はなく、呼吸が乱れて息苦しくなると足もとがふらつく。
 直後、クッションの上に横たえられて響生は環和の腹部に顔を伏せた。
 ふたりの赤ちゃんへの、響生から最初で最後のキス。そう思うと、環和の口から喘ぐような声が漏れてしまう。響生はゆっくりと顔を上げて、伸しかかるようにしながら躰を跨いで環和を真上から見つめた。
「環和、おれにも愛してるって教えてくれ」
 環和は手を上げて縋るように響生の背中に手をまわした。いざなうように開いたくちびるにくちびるを重ね、響生はぺたりと吸着した。さっきまでの激しさはなく、弄るようでいながら穏やかな陶酔と、そして饑餓きがを生む。

 だれかが現れるの? その投げかけに、環和しかいない、聞きたかったのはその答え。
 裸で抱き合ってキスを全身に浴びせながら躰を繋ぐことはなく、快楽には程遠い、それが精いっぱい響生が伝えられる愛し方だった。
 違う出会い方をしていたら――環和と響生にはそう思うこともできなかった。
 禁忌とわかっていてもけっして抑制などできない。いちばん近くていちばん遠い。そんな愛もある。けれど、けっして叶わない。
 わかっているから。
 響生――
 環和――
 ――愛してる。
 口に出しては伝えられなかった。
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