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第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

2.

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 抱きついたまま呼吸をするのも忘れて、環和は凍りついたように静寂に包まれた。何もないという無感覚のなか、こめかみにノック音が繰り返されている。響生の鼓動に違いなくて、それは乱れることなくひどく規則正しい。
「環和」
 環和を受けとめることもなく、気を付けの姿勢のまま脇に垂らしていた腕が、環和の肩をつかむ。そうして、環和の望むこととは真逆に、剥がすようにして躰が引き離された。
 響生の瞳が何を映しているのか、見上げる環和からは高すぎて捉えられない。恋人と云えるようになって、不意打ちでキスに襲われることも多かった。いまは恰好のシチュエーションのはずなのに、響生は身動き一つしない。

「……響生……」
 心もとなくつぶやいた声はかすれている。
「一週間、離れてわかった。おれの環和に対する気持ちは幻想だ」
 ふたりを軽んじた、信じられない言葉が響生の口から発せられた。目を見開いて環和は激しく首を横に振る。
「そんなことないっ」
「環和の気持ちは否定しない。おれにはわからにことだ。けど、自分のことならはっきりしてる。いま、環和に気持ちはない」
 環和の気持ちごと響生は無造作に突き放した。
 傷ついたことはきっとあからさまに環和の顔に表れている。それなのに響生は動じることもない。

「どうしてそんなふうに云うの?」
「云っただろう。離れてみてわかった。おまえはずっとおれに付き纏ってた。だから、おれは判断ミスをしたんだ」
「響生だって……」
「そうだ、おれも付き纏ってたかもしれない」と環和をさえぎった響生は薄く自嘲するように笑った。
「環和も知ってるとおり、おれはトラウマを持ってる。そのせいだ。吊り橋理論て知ってるだろう? 同じ状況下で神経がたかぶっていればそれを好意だと勘違いする。あの日、おれたちは一緒に恐怖にさらされた。充分な条件だろう」
「それが……一週間、会わなかっただけで冷めちゃうの?」
「時間は関係ない。いつか冷めるものだろう。吊り橋効果でなくても、恋が長続きすることはめったにない。世間を見てればわかるはずだ」
 響生は淡々とふたりの間に通っていた気持ちを切り捨てた。

 気分が悪くなったのは響生の仕打ちのせいか――いや、つわりだ、と環和はすぐに思い直す。自分が妊娠していたことを忘れ去っていた。いつもは意識しない程度の違和感しかないのに、急に実感するほど気分が悪くなったのは、きっと自分のことをそっちのけにして話す両親への赤ちゃんの反抗だ。
 自然と環和の手はおなかに添う。

「赤ちゃんがいるのに……別れるの?」
 すぐには返事がなく、響生はじっと環和を見下ろしている。
「堕ろすには同意書がいるらしい。サインはちゃんとする」
 返事がないのはためらっているからだと思ったのに、響生は同意書が必要なことまで調べていた。
「違う。響生はそんなこと云わない。ママと何を……」
「お母さんにもそう云って了解をもらった。躰を傷つけてしまうことは悪いと思ってる。慰謝料も払う……」
「いらない! ママに脅迫されたの?」
 環和がさえぎると、響生はつかの間、見入るような眼差しを向けたあと、ゆっくりとくちびるを歪めた。からかった笑い方ではない。薄情で、いたぶるように見えた。

「飽きた。……というよりもそもそもおれはだれにも本気にならない。恵にも友樹にも聞いて知ってるだろう」
「信じない」
「環和が信じなくても、おれのいまの気持ちが変わることはない」
 響生はきっぱりと云いきった。
「そうじゃない」
「病院から書類をもらってきたらお母さんに渡してくれ」
 環和の否定に取り合わず、響生は非情にももう会う気はないと遠回しに云い渡した。

 背中を見せた響生を呆然と見送り、そしてふたりを引き裂くようにドアは閉じられた。
 視界が潤んでドアが歪む。瞬きをしたとたん、ひとときも響生から離せなかった目から頬へと雫が伝い、環和は自分が泣いていることに気づいた。
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