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第4章 ミスリード~恋いする理由~

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 あとで話そう、とそれがいつになるのか。響生は美帆子の言葉に従い、簡単に引き下がった。響生がどんなつもりで云ったのかはわからない。
 ベッドに入っても、美帆子の云った言葉がリフレインするだけで、過去に何があったのか、そして、これからどうなるのか、環和はあとにもさきにも進めない。いや、漠然と察したことをわかりたくないのだ。
 かわりに響生とすごしてきた時間を思い起こす。そこに好きになる理由はあっても、策略などなかった。そもそも、響生からすれば、策略するまでもなく環和が押しかけるほど夢中になっていることは歴然としていた。

 一カ月前に響生が自分のことを語ってくれたとき、三月の終わりの雨に濡れた日、慌てたように見えていた響生、ずぶ濡れになった環和をそれでも傘の中に入れて雨から守ろうとしたこと、いつになく気が立っていたこと、それらのすべてに納得がいった。
 たぶん、濡れるのが嫌いというおかしな習性が環和になかったら、響生の時間を三カ月だけもらって通りすぎていくだけの存在にしかなれなかったかもしれない。そう考えれば、ふたりは出会うべきだったと思える。
 なんの得もない愛を捧げてくれる、そんな人たちをすべて失ったままではあまりに切ない。だから、響生にとってそんな存在になりたい、とそう思った。
 それに、響生にとって環和がそんな存在なら、きっと『あとで話そう』という以上にふたりは一緒にいられる。ただのなぐさめの言葉ではないはず。
 いったん行き着くと、このところやたらと眠くなるという、おそらく妊娠の副作用に襲われて環和は目を瞑(つむ)った。


 翌日、スマホは取りあげられたままで環和は仕事に出た。返してと強行すれば仕事に行くことすら阻(はば)まれそうで、美帆子が食べなさいと云った昨日の夕食をおとなしく食べた。
――別れるのよね?
 当然といった口ぶりだった。
――ママの離婚は簡単だったよね。わたしはママと違うから。
 環和を探るように見て、美帆子は逆らったことにどう思ったのか。ただ、別れると従ったところで見せかけだと勘繰られたすえ会う機会を奪われそうで、正直に示しておくほうが得策だと思った。

 早番で店に出れば、土曜日ということもあって忙しく、環和の焦るような気持ちは紛れた。
 休み時間にだれかから電話を借りて、もしくは公衆電話から響生に連絡をしようと思ったけれど、今日は仕事があると聞いていたことを思いだしてやめた。いざ電話したら感情的になって取り乱してしまいそうな気もする。環和の仕事が終わって電話してみればいい。
 いずれにしろ、明日になれば美帆子は大阪に行ってしまい、邪魔はできない。そんなことを自分に云い聞かせてやりすごした時間もやっと終わった。

 控え室からバッグを取ってきてミニョンのスペースを出ると間もなく、環和は電池切れのロボットのようにぴたりと立ち止まった。
「響生!」
 叫んだつもりが実際はかすれた声しか出ていない。
 響生はミニョンから少し離れた場所、店と店を仕切る柱のスペースにいた。壁に寄りかかっていた背中を起こす。それから一歩を踏みだしたのは、ふたりほぼ同時だった。
 歩きだしてすぐ環和は人とぶつかりそうになる。それなりに人通りがあるなか、そのすき間を縫うようにして響生の存在を見出せたことがさらに心強くさせる。環和の計り知れないところでふたりは繋がっている気がした。

 女性が多いなか響生は目立っていて、避けるように歩く先が開いていく。環和はもう、響生のことをひいき目でしか見られない。あまり外を一緒に歩くこともなく、視線を気にしたこともなかったけれど、響生は美帆子が云うとおり見栄えがいい。女性が多いフロアでなくても響生はきっと普通に目立つ人だ。
 目の前にしたとたん、響生は無言で環和の腕を取って自分がやってきた方向へと身をひるがえして歩きだした。
 環和は小走りになりながら、足早に歩く響生についていった。
 エレベーターに乗って降りる間に、環和は腕から離した響生の手に手を重ねた。指と指が絡み合い、環和はそれだけで大丈夫だとほっとさせられる。
 地下駐車場に行き、響生は環和を助手席に乗せてから運転席にまわって車に乗りこんだ。車内は響生が吸う煙草の薫りがこもっていて、さらに環和は安心する。一日もたっていないのに、一カ月も一年も音信不通だったような感覚があった。

「変わらないな」
 運転席に寄りかかった響生は正面を向いたままつぶやいた。
「……何が変わるの?」
 意味がわからなくて心もとなく環和が訊ねると、響生は躰を斜めに向けて環和を見つめた。
「聞かなかったのか?」
 響生は“何を”という大事な部分は省いて問い返す。それはずるさなのか。
「……想像はついてる」

 はっきり美帆子に訊けなかった環和もずるいのかもしれない。違っていてほしい、とどうしようもない響生の過去を認めたがらない。
 環和にはたまたまほかにいなかっただけで、ましてや響生は三十八だ。清廉潔白であるはずがない。女性の気配は明らかにあったし、恵との関係も知っているし、響生のきれいな面だけを見てきたつもりはない。はっきりさせられたくないのは関係した相手が母親だからなのか、それとも響生が卑怯だと認めたことを目の当たりにしそうだからなのか。

「おれが話すまえに、お母さんから聞いたほうがいいと思った。それ以上に悪い話にはならないから。そうして、環和に嫌われてもしかたがない。逃げかもしれないな。環和は逃げなかったけど」
 響生は自嘲した笑みを浮かべた。『変わらないな』と云ったのは、嫌わなかったことに安堵した結果だったのか。
「しかたない、ってわたしが嫌ったら響生は離れていくの?」
「……わからない。環和は嫌わなかった……少なくともいまは。結婚したい、そんなふうに独占したいと思うのははじめてだ。だから自分でも想像がつかない」
 環和と同じように響生もはじめてのことに戸惑っている。響生はひどい経験がもたらす弱さを見せてくれたけれど、それでもずっと大人で足手まといになる気がしていた。その実、ふたりは対等でいられているのかもしれない。恋愛に上下関係があるほうがきっとどうかしている。
「響生、あとで話そうって云ったことを話して」
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