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第3章 恋は刹那の嵐のようで
12.
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響生はそれきり黙りこんで、続きを語ろうとする気配がない。語りたくないのなら、そもそも川にさらわれたと、そのこと自体を口にしないだろうし、だったらためらっているのだ。
それほどひどい経験だったということにほかならず。
環和に話術はなくどう促していいのかわからない。響生が自分について語ったことを思いだしてみた。
すると、十歳のときに両親を亡くしたという話が浮上してくる。それに――環和は今日、川に流されたけれど、響生はいま『さらわれた』と云い、ちょっとした違和感を覚えた。流されることとさらわれることは違う。そんな気がして環和は、「響生」と口をつくように呼びかけた。
「……もしかして両親と事故に遭ったっていう話?」
環和の問いに、返事をするよりもさきに響生の躰がぴくっと反応した。
「おまえはバカだ。けど、やっぱり頭は悪くない」
「バカと頭いいって反対語だと思うけど」
響生はふっと息をつく。笑ったのだろうか。そして出し抜けに、「うちは裕福な家じゃなかった」と語り始めた。
「いまから云うことは、十歳が認識できる程度だし、ずっとあとにおれの家族を実際には知らない人から聞かされたことだ。だから、おれの想像も入る」
「うん」
「両親は父が二十歳、母が十九歳のときに結婚して、すぐおれが生まれた。いまで云う、でき婚だろうな。父のほうは母子家庭で、母の両親はそろっていたけど、祖父が胃がんを患っていて、実質、生活は祖母の収入にかかっていた。父は下請けの下請けっていうくらいの建設会社で働いてたらしい。それぞれがぎりぎりの生活だった。旅行なんてした憶えもない。あの日ははじめて家族そろって家を離れて外泊した。今日の長瀞みたいな河原でキャンプをしたんだ。祖父の闘病生活が一段落して、そのお祝いやおれの夏休みの思い出づくりや、いろんな理由をつけてた気がする。父方の祖母と母方の祖父母も総出だ」
「じゃあ……もしかして……おじいちゃんとおばあちゃんたちも一緒に……?」
ためらいがちに、そして曖昧に問うと、そうだ、という答えが返ってきた。
環和は思わず手を上げて響生の背中にまわした。すると、条件反射か驚きか、それとも少しくらいは安らぐきっかけになったのか、ぴくりと肩が反応する。
「山のほうに雷とか暗い雲とか見えてたけど、おれたちがいた場所はそうでもなくて夕立ともいえないくらい少ししか降らなかった。だから両親たちも危機は感じなかったんだろう。けど、上流では短時間にあり得ないくらいの雨が降っていた。おれたちがいた場所は中州だったんだ。気づいたときは孤立していて岸に行けないほど流れが速くなっていた。そして……」
響生は言葉を詰まらせた。
そのさきはあらためて云わせる必要はない。川にさらわれたという言葉の真意が理解できた。
「響生、もういい。わたしも想像つくから」
環和が今日、体験したこと以上に、その日は大人になってもこんなふうにふるえるほど響生にとっては強烈で恐怖に満ちた時間だったのだ。
「犠牲者はおれたち家族だけじゃなかった。ほかにも死んだ人もいれば助かった人もいる。けど、おれだけ全部なくしたって気になってた」
「……うん」
響生の声は自嘲するようにも聞こえて、けれど、かける言葉が見つけられなくて、環和はうなずいた。
自嘲とひと括りにしてしまうのは単純すぎて、もしかしたら、家族のなかで独り助かったことの後悔だったり罪悪感だったり、あるいは当てのない怒りだったり、自己憐憫に陥っていた自分への苛立ちなのかもしれない。
「施設で暮らすことになって、おれに残ったのは水に流される恐怖心だけだ」
その言葉に環和はハッとした。ふたりの共通点はバスタブに浸からないとか、少しの雨でも傘を差すとか、ちょっとしたことだけれど、響生にとってそれらは記憶にも躰にも沁みた恐怖の後遺症なのだ。ただ嫌いな自分とは違っていて、環和は折に触れそう云っていた自分を恥じて、後悔した。
「でも泳げるって……」
「恐怖に負けたままでいたくなかった。打ち克つために泳ぎを憶えたし、ライフセービングの訓練も受けた」
昼間、響生が環和に諭した言葉は急速に意味を持った。『苦手だからこそ萎縮しないですむように』。それにもう一つ。
「水の風景を撮ることを闘ってるんだって……全部を撮ってるわけじゃないってそういうこと? 水が凶器になるってこと……残酷だってところを撮ってないから? 怖いから闘ってるの?」
「ああ。……水が嫌いなのは環和と一緒だ」
「……教えてくれてたらもっと気をつけてたかもしれない」
「気をつけていても不可抗力はある。濡れるのが嫌いっていうおまえに教えたら、よけいに怖がるだろう」
弱みを晒したくないからではなく、環和のことを考えて響生は打ち明けなかったのか。背中にまわした手に力を込める。何があっても響生のためなら――そんな気持ちが環和に芽生えた。
「でも、いま教えてくれた」
「おれから離れる機会を与えてる」
抱き合うのではなく、一方的なセックスとしか云えないような行為は、環和が終わらせたいと思うように仕向けていたのかもしれない。いまの響生の言葉でそんなことにも気づいてしまう。
「いま、離れたくないって思ったのに!」
環和に伸しかかった躰が揺れ、耳もとにかかる息もそうで、響生が怯えているのではなく笑っていることは明らかだ。
「笑わないで。でも、笑って」
矛盾した言葉に、響生はおもむろに顔を上げた。真上から見下ろしてくる響生と、見上げる環和、互いの瞳が互いを映しだす。
「おれはあんな思いは……今日みたいな思いはしたくない。失うなんてもうごめんだ」
そう云った声も瞳も苦悩に満ちて響生の顔が陰る。
「だからセックスだけで終わらそうってしてきたの?」
響生はわずかに目を見開き、それは自覚がなかったせいなのか、まったく環和の見当違いなのか。響生はかすかに首を横に振ってかわした。
「わたしに離れる機会を与えるってことは、響生は別れを決断できないってことでしょ?」
「都合のいい解釈だな」
響生は無下に扱き下ろしたかと思うと、けど、とつぶやく。都合が悪いような様でいったん目を逸らし、また環和を見つめた。
「おれはまだよくわかってない。ただ……おまえ、妊娠するかもな。薬を飲まなければ」
環和は目を丸くして響生を見つめた。考えていなかったと云えば、また危機管理がなっていないとなじるだろうか。けれど、響生もそうだ。
「薬って避妊薬? ……それを飲むかどうか、それはわたしの意思で決めることだから。だって……今日の響生はその権利を放棄したってことじゃない?」
響生は呻く。つらそうに見えるけれど微妙に違う。何かに突き動かされたような、切羽詰まった感がある。
「環和」
と、呼びかけるというよりはやはり口を衝いて出たといった様子で、そして。
「おれからは離れられない。おまえの云うとおりだ」
直接的な言葉ではなくても、環和の告白と同義語に違いなかった。
「心も……躰も?」
もったいぶって付け加えてみると、響生は力尽きたように笑った。
「ああ。ずっとこうやっているのもいい」
これ以上になく綻びかけた環和のくちびるはすぐさまふさがれた。
それほどひどい経験だったということにほかならず。
環和に話術はなくどう促していいのかわからない。響生が自分について語ったことを思いだしてみた。
すると、十歳のときに両親を亡くしたという話が浮上してくる。それに――環和は今日、川に流されたけれど、響生はいま『さらわれた』と云い、ちょっとした違和感を覚えた。流されることとさらわれることは違う。そんな気がして環和は、「響生」と口をつくように呼びかけた。
「……もしかして両親と事故に遭ったっていう話?」
環和の問いに、返事をするよりもさきに響生の躰がぴくっと反応した。
「おまえはバカだ。けど、やっぱり頭は悪くない」
「バカと頭いいって反対語だと思うけど」
響生はふっと息をつく。笑ったのだろうか。そして出し抜けに、「うちは裕福な家じゃなかった」と語り始めた。
「いまから云うことは、十歳が認識できる程度だし、ずっとあとにおれの家族を実際には知らない人から聞かされたことだ。だから、おれの想像も入る」
「うん」
「両親は父が二十歳、母が十九歳のときに結婚して、すぐおれが生まれた。いまで云う、でき婚だろうな。父のほうは母子家庭で、母の両親はそろっていたけど、祖父が胃がんを患っていて、実質、生活は祖母の収入にかかっていた。父は下請けの下請けっていうくらいの建設会社で働いてたらしい。それぞれがぎりぎりの生活だった。旅行なんてした憶えもない。あの日ははじめて家族そろって家を離れて外泊した。今日の長瀞みたいな河原でキャンプをしたんだ。祖父の闘病生活が一段落して、そのお祝いやおれの夏休みの思い出づくりや、いろんな理由をつけてた気がする。父方の祖母と母方の祖父母も総出だ」
「じゃあ……もしかして……おじいちゃんとおばあちゃんたちも一緒に……?」
ためらいがちに、そして曖昧に問うと、そうだ、という答えが返ってきた。
環和は思わず手を上げて響生の背中にまわした。すると、条件反射か驚きか、それとも少しくらいは安らぐきっかけになったのか、ぴくりと肩が反応する。
「山のほうに雷とか暗い雲とか見えてたけど、おれたちがいた場所はそうでもなくて夕立ともいえないくらい少ししか降らなかった。だから両親たちも危機は感じなかったんだろう。けど、上流では短時間にあり得ないくらいの雨が降っていた。おれたちがいた場所は中州だったんだ。気づいたときは孤立していて岸に行けないほど流れが速くなっていた。そして……」
響生は言葉を詰まらせた。
そのさきはあらためて云わせる必要はない。川にさらわれたという言葉の真意が理解できた。
「響生、もういい。わたしも想像つくから」
環和が今日、体験したこと以上に、その日は大人になってもこんなふうにふるえるほど響生にとっては強烈で恐怖に満ちた時間だったのだ。
「犠牲者はおれたち家族だけじゃなかった。ほかにも死んだ人もいれば助かった人もいる。けど、おれだけ全部なくしたって気になってた」
「……うん」
響生の声は自嘲するようにも聞こえて、けれど、かける言葉が見つけられなくて、環和はうなずいた。
自嘲とひと括りにしてしまうのは単純すぎて、もしかしたら、家族のなかで独り助かったことの後悔だったり罪悪感だったり、あるいは当てのない怒りだったり、自己憐憫に陥っていた自分への苛立ちなのかもしれない。
「施設で暮らすことになって、おれに残ったのは水に流される恐怖心だけだ」
その言葉に環和はハッとした。ふたりの共通点はバスタブに浸からないとか、少しの雨でも傘を差すとか、ちょっとしたことだけれど、響生にとってそれらは記憶にも躰にも沁みた恐怖の後遺症なのだ。ただ嫌いな自分とは違っていて、環和は折に触れそう云っていた自分を恥じて、後悔した。
「でも泳げるって……」
「恐怖に負けたままでいたくなかった。打ち克つために泳ぎを憶えたし、ライフセービングの訓練も受けた」
昼間、響生が環和に諭した言葉は急速に意味を持った。『苦手だからこそ萎縮しないですむように』。それにもう一つ。
「水の風景を撮ることを闘ってるんだって……全部を撮ってるわけじゃないってそういうこと? 水が凶器になるってこと……残酷だってところを撮ってないから? 怖いから闘ってるの?」
「ああ。……水が嫌いなのは環和と一緒だ」
「……教えてくれてたらもっと気をつけてたかもしれない」
「気をつけていても不可抗力はある。濡れるのが嫌いっていうおまえに教えたら、よけいに怖がるだろう」
弱みを晒したくないからではなく、環和のことを考えて響生は打ち明けなかったのか。背中にまわした手に力を込める。何があっても響生のためなら――そんな気持ちが環和に芽生えた。
「でも、いま教えてくれた」
「おれから離れる機会を与えてる」
抱き合うのではなく、一方的なセックスとしか云えないような行為は、環和が終わらせたいと思うように仕向けていたのかもしれない。いまの響生の言葉でそんなことにも気づいてしまう。
「いま、離れたくないって思ったのに!」
環和に伸しかかった躰が揺れ、耳もとにかかる息もそうで、響生が怯えているのではなく笑っていることは明らかだ。
「笑わないで。でも、笑って」
矛盾した言葉に、響生はおもむろに顔を上げた。真上から見下ろしてくる響生と、見上げる環和、互いの瞳が互いを映しだす。
「おれはあんな思いは……今日みたいな思いはしたくない。失うなんてもうごめんだ」
そう云った声も瞳も苦悩に満ちて響生の顔が陰る。
「だからセックスだけで終わらそうってしてきたの?」
響生はわずかに目を見開き、それは自覚がなかったせいなのか、まったく環和の見当違いなのか。響生はかすかに首を横に振ってかわした。
「わたしに離れる機会を与えるってことは、響生は別れを決断できないってことでしょ?」
「都合のいい解釈だな」
響生は無下に扱き下ろしたかと思うと、けど、とつぶやく。都合が悪いような様でいったん目を逸らし、また環和を見つめた。
「おれはまだよくわかってない。ただ……おまえ、妊娠するかもな。薬を飲まなければ」
環和は目を丸くして響生を見つめた。考えていなかったと云えば、また危機管理がなっていないとなじるだろうか。けれど、響生もそうだ。
「薬って避妊薬? ……それを飲むかどうか、それはわたしの意思で決めることだから。だって……今日の響生はその権利を放棄したってことじゃない?」
響生は呻く。つらそうに見えるけれど微妙に違う。何かに突き動かされたような、切羽詰まった感がある。
「環和」
と、呼びかけるというよりはやはり口を衝いて出たといった様子で、そして。
「おれからは離れられない。おまえの云うとおりだ」
直接的な言葉ではなくても、環和の告白と同義語に違いなかった。
「心も……躰も?」
もったいぶって付け加えてみると、響生は力尽きたように笑った。
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