14 / 93
第2章 不可視の類似
1.
しおりを挟む
公休日、環和は午後三時という中途半端な時間にスタジオ・ラハザを訪れた。門扉の柱に取りつけられたインターホンを鳴らす。
三月の終わり、はじめてここに来た日から一カ月がたった。季節的には春と呼ぶけれど、今日は曇りがちで、コートは着ているものの肌寒い。環和は延々と待たされた。
門扉のすき間から敷地内を覗けば、響生の車もあれば、響生のものではない車も三台ほど見える。いかにも業者の運搬車と社用車だ。
仕事中だというのは見当がつくけれど、それにしても――と、思いきって門扉をよじ登るか壊そうかと腹が立ってきたところで、開錠された音が聞こえた。
わざわざ出てくることなくスタジオからワンタッチで開けられるのなら、すぐそうしてくれればいいのに。環和は内心で文句を云いながら敷地内に進んだ。
そっと家のなかに入ると、シューズボックスには見かけない靴がいくつも並んでいた。環和は空いたところにヒールをしまい、忍び足でスタジオのほうに向かった。
ドアの向こうから聞こえるのは、呼びかける声だったりシャッター音だったり足音だったりで、きっと撮影の真っ最中だ。環和は音を立てないように、ゆっくりとドアを開いた。
撮影をやっているのは奥のほうで、環和は静かにドアを閉めると、ちょっとだけ奥に進んで遠巻きに眺めた。
照明やら撮影用アンブレラやら扇風機やら、大型の機材が――環和から見れば適当に置いてあるなか、バックスクリーンを背にしてスーツ姿の若い男性が立っている。
その顔に焦点を当てるなり、環和は俳優の琴吹勇だとわかった。京香と同じ二十五歳で、ドラマや映画、そしてCMに引っ張りだこだ。テレビをつけていれば、その顔を見ない日はない。
「環和さん、先生から伝言」
撮影風景に見入っていると、アシスタントをやっているアルバイト生、溝口友樹がいつの間にか傍に来ていた。
「伝言? 何?」
「邪魔しに来たんじゃないんならコーヒーくらい出せ、だそうです」
友樹は響生に心酔している。響生の口調を真似てそっくりそのまま環和に伝えたに違いなかった。
むっとしたものの、友樹に当たってもしかたがない。
「わ、か、り、ま、し、た」
嫌味ったらしく了解すると、友樹は苦笑しながら、よろしくお願いします、と云って現場に戻った。
この一カ月、響生が云うところの『邪魔』をしに何度か来ていて勝手はわかっている。環和は撮影スペースとは反対側にある、スタジオ専用の給湯室に入った。
コートを脱ぐと、環和はコーヒーサーバーをセットしてスイッチを入れた。
はじめてコーヒーサーバーを扱ったときはまったく使い方がわからず、響生からいつもの小馬鹿にした云い方で教わった。響生の態度に対して癪に障ることは多い。けれど、押しかけても拒まれないし、響生といると不思議な居心地の良さがある。
なんだろう、響生の前だと気取らなくていいのだ。いや、だれかの前で特別に気取っているつもりもなく神経質に気遣うこともないつもりだったけれど、知らず知らずのうちに気を張っているのかもしれない。響生と会って、そう気づかされた。
「環和、用意できたか」
ふいに背後から声がかかる。びくっとしながら環和は片手で持ったカップを慌ててもう一方の手で支えた。安定したのを見届け、環和は顔だけ動かして振り向く。
「いきなり呼びかけないで! コーヒー、こぼしそうになったんだから」
「じゃあ、どう声かければいいんだ」
響生は環和の耳に届くほどの大きなため息をついたあと、呆れきった声で問う。
「……ノックしてからのほうがいいかも」
「おれのスタジオだ」
と云われれば、ぐうの音も出ない。
それでどっちが悪いんだ? と云わんばかりの様子で響生は首をひねった。
「考え事をしてたからびっくりしただけ」
響生は悪くない、と間接的に答えると響生は口を歪めた。
「今日の撮影は口外無用だ。ラハザのスタッフっぽくしとけよ」
こういうところだ。響生は環和が身内みたいな扱いをする。それが離れがたいくらいに居心地をよくしていた。
三月の終わり、はじめてここに来た日から一カ月がたった。季節的には春と呼ぶけれど、今日は曇りがちで、コートは着ているものの肌寒い。環和は延々と待たされた。
門扉のすき間から敷地内を覗けば、響生の車もあれば、響生のものではない車も三台ほど見える。いかにも業者の運搬車と社用車だ。
仕事中だというのは見当がつくけれど、それにしても――と、思いきって門扉をよじ登るか壊そうかと腹が立ってきたところで、開錠された音が聞こえた。
わざわざ出てくることなくスタジオからワンタッチで開けられるのなら、すぐそうしてくれればいいのに。環和は内心で文句を云いながら敷地内に進んだ。
そっと家のなかに入ると、シューズボックスには見かけない靴がいくつも並んでいた。環和は空いたところにヒールをしまい、忍び足でスタジオのほうに向かった。
ドアの向こうから聞こえるのは、呼びかける声だったりシャッター音だったり足音だったりで、きっと撮影の真っ最中だ。環和は音を立てないように、ゆっくりとドアを開いた。
撮影をやっているのは奥のほうで、環和は静かにドアを閉めると、ちょっとだけ奥に進んで遠巻きに眺めた。
照明やら撮影用アンブレラやら扇風機やら、大型の機材が――環和から見れば適当に置いてあるなか、バックスクリーンを背にしてスーツ姿の若い男性が立っている。
その顔に焦点を当てるなり、環和は俳優の琴吹勇だとわかった。京香と同じ二十五歳で、ドラマや映画、そしてCMに引っ張りだこだ。テレビをつけていれば、その顔を見ない日はない。
「環和さん、先生から伝言」
撮影風景に見入っていると、アシスタントをやっているアルバイト生、溝口友樹がいつの間にか傍に来ていた。
「伝言? 何?」
「邪魔しに来たんじゃないんならコーヒーくらい出せ、だそうです」
友樹は響生に心酔している。響生の口調を真似てそっくりそのまま環和に伝えたに違いなかった。
むっとしたものの、友樹に当たってもしかたがない。
「わ、か、り、ま、し、た」
嫌味ったらしく了解すると、友樹は苦笑しながら、よろしくお願いします、と云って現場に戻った。
この一カ月、響生が云うところの『邪魔』をしに何度か来ていて勝手はわかっている。環和は撮影スペースとは反対側にある、スタジオ専用の給湯室に入った。
コートを脱ぐと、環和はコーヒーサーバーをセットしてスイッチを入れた。
はじめてコーヒーサーバーを扱ったときはまったく使い方がわからず、響生からいつもの小馬鹿にした云い方で教わった。響生の態度に対して癪に障ることは多い。けれど、押しかけても拒まれないし、響生といると不思議な居心地の良さがある。
なんだろう、響生の前だと気取らなくていいのだ。いや、だれかの前で特別に気取っているつもりもなく神経質に気遣うこともないつもりだったけれど、知らず知らずのうちに気を張っているのかもしれない。響生と会って、そう気づかされた。
「環和、用意できたか」
ふいに背後から声がかかる。びくっとしながら環和は片手で持ったカップを慌ててもう一方の手で支えた。安定したのを見届け、環和は顔だけ動かして振り向く。
「いきなり呼びかけないで! コーヒー、こぼしそうになったんだから」
「じゃあ、どう声かければいいんだ」
響生は環和の耳に届くほどの大きなため息をついたあと、呆れきった声で問う。
「……ノックしてからのほうがいいかも」
「おれのスタジオだ」
と云われれば、ぐうの音も出ない。
それでどっちが悪いんだ? と云わんばかりの様子で響生は首をひねった。
「考え事をしてたからびっくりしただけ」
響生は悪くない、と間接的に答えると響生は口を歪めた。
「今日の撮影は口外無用だ。ラハザのスタッフっぽくしとけよ」
こういうところだ。響生は環和が身内みたいな扱いをする。それが離れがたいくらいに居心地をよくしていた。
0
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生
花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。
女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感!
イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる