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69.招かれざる客(2)

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 典子は信じていないのかもしれない。嘘はないかとじっと智奈を見つめる。
「結婚しない? あり得ないわ。おなかの子の父親なんでしょう? 無責任にも程が……」
「お母さんがそれを云う? 子供よりも、身の丈以上の自分の欲に走ったくせに」
「だってそれは……」
 即座に反論しかけた典子だったが、もっともな理由が見つけられなかっただろう、尻切れとんぼに終わった。
「とにかく、結婚のことはわたしと京吾が決めたことだから。お母さんになんの関係があるの? 口を出す権利なんてない」
「だから、わたしはあなたの母親なのよ。騙されてないって云ってたけど、わたしがここで会った立岡キョウゴという男と、あなたがいま一緒に住んでる堂貫京吾という男は別人なの? 同一人物なの?」
 典子は同一人物と確定まではできていなかった。“キョウゴ”は名乗ることしかしなかったし、ドッペルゲンガーじゃなくても他人の空似はある。
 どう返事をするべきか迷ったのは一瞬、智奈は京吾との会話を思いだした。京吾は、典子から見破られていると感じていたと云っていた。
 それに、自分の関心事には――それは例外なくお金が絡んでいることだけれど――しつこい母のことだ、嘘で云い逃れたすえ、あとからへんに責められる材料にしないほうがきっといい。
「同一人物だよ。社長っていう立場は、凡人のわたしたちが思っているよりずっとたいへんなの。優雅に見えるだろうけど。京吾はプライベートを大事にしてる」
 それで典子が納得したかはわからない。ただ、智奈が云ったことに嘘はない。
 探るように目を凝らしていた典子は、軽く首を横に振った。
「騙されているのよ、あなたはやっぱり。あの男は子供が生まれたらさっさと取りあげて、あなたを追いだす気なんじゃないの?」
 典子は智奈が思いもしなかった疑いを口にした。
「そんなこと……」
 智奈が笑い飛ばそうとすると、そうに決まってるじゃない、と典子はさえぎり、そして続けた。
「どう見たって、あなたが云う『プライベート』なほうは遊び人だったわ。結婚したくないって、あなたにどんな理由を云ったのか知らないけど、本音は女に縛られたくないからで、でも子孫を残したい男の本能的な願望はある。つまり、あなたはまるっきり都合のいい女。弄ばれてるだけよ」
 他人――じゃないけれど、傍から見たら智奈と京吾との関係はそんなふうに見えるのだ。
 七海から条件のことを聞かされたとき、智奈は消化しきれない疑惑を抱いたけれど、いまの典子の言葉が当てはまらないこともない。むしろ、京吾にとってはすっきり符合するのかもしれない。祖父への反発と、だれにも縛られない自由が、結婚しない理由に繋がっている。
 けれど、京吾は元ホストで女を手玉に取るのがお茶の子さいさいだとして。生まれてもいないうちから、子離れしてほしいとかダイエットに付き合うとか、ましてや、実際に見ることはかなわない父に子供を見せようとか、そこまで想像して云えるものだろうか。
 お金持ちなら、機嫌を取って甘やかすのに最も単純な方法がある。お金を使って贅沢させれば、大抵の女性は機嫌よくいられる。風貌も財産も地位も、何もかも手中にしている京吾にそうしてもらえるならなおさら。智奈も単純に喜ぶ。
 その実、京吾は、お金を使うよりも面倒な言葉と行動で、時には先回りして智奈を甘やかしてくれる。智奈が独りでできることさえ、暇を知らない京吾が、お金で買えない時間を取って一緒にやりたがるくらいに。
「お母さんは勝手にそう思ってればいい」
「智奈、あなたは知らないのよ」
「お母さんが京吾を知らないだけ」
「ううん。智奈、堂貫さんが、お父さんの愛人の息子だってことも知ってるの? どっちにしろ、うまく丸めこまれてるのよ、智奈は。わたしはそうはいかないわよ」
 典子の口から思いもしない言葉が飛びだして、智奈は吃驚した。
「……愛人? どうして……そんなことを疑ってるの?」
 智奈はそれが見せかけの関係だとわかっているけれど、知っているとも知らないとも認めないまま慎重に母に問うた。
「云ったでしょ、探偵を使ってるって。事務所の片付けが終わったときにお父さんの私物が少しあって、そのなかに女と写っている写真があった。事務所にいた人からその人がだれか聞いたわ。堂貫悦子、その息子は堂貫京吾、あなたと一緒にいる男でしょ」
 事務所の人が知っているのは、愛人関係だという証拠をつくるためだったに違いない。けれど、それを典子が知ったいま、ややこしいことになるかもしれない。
「お父さんと京吾のお母さんのことは、京吾から聞いて知ってる。でも、いまさら何? お父さんには、わたしのこと考えずに幸せになってもらいたかった。わたしはそう思うだけ」
「子供のあなたはそうでも、妻であるわたしはただではすまない」
 典子の目が獲物を捕らえたようにきらりと光って見えたのは気のせいだろうか。いや、母のことだ、文字どおり『ただではすまない』のだ。
「お母さん、どうしたいの……どうするつもり?」
 智奈が云い換えると、典子はつんと顎を上げて強い意志を示した。
「不倫相手からの慰謝料は、妻として当然の権利でしょ」
 典子の金欲のための行動力は天下一品だ。
「当然の権利って、お母さん、お父さんに自分が何をしたか、棚に上げてよく云えるね。最初に信頼を裏切ったのはお母さんのほうでしょ」
「愛人がいたから、わたしはここから追いだされたのよ」
 呆れてものが云えない。あいた口が塞がらない。はじめてそんな場面に出くわして、智奈は閉口した。典子にはうんざりしていたけれど、ここまで醜悪だったのか。どこかおかしいんじゃないかと病気にさえ思えてしまう。
 一緒にいることにも嫌悪感を覚えて、智奈は立ちあがった。
「お父さんは一度もここへだれか他人を連れてきたことはない。お母さんが云ってることは辻褄が合わない。もう帰って! 探偵を使ってわたしを尾行して、ここに来たの? お金が必要なら、そんな無駄遣いをまずやめたら?」
「待ち伏せのバイトを雇っただけよ。探偵よりうんと安くすむ。管理人さんが毎月、休みの日に掃除に来るって云ってたし、今月はお盆だから十三日くらいまでには来るでしょ。このバイトにはもってこいの適任者がいたのよ」
 そういうところは知恵が回るらしい。典子は思わせぶりで、嫌でも悪い予感がする。
「……適任者ってだれ?」
「いま、ドアの外にいるはずよ。智奈が知ってる人。会いたいんですって」
 自分と母の共通の知人といったらだれだろう。
 十年近く離れて暮らしてきて、さっぱり見当がつかない。
 幼い頃の同級生とか、その家族とか?
 それくらいの可能性しか見つけられない。
「とにかく、もう帰って!」
 云いながら智奈は玄関に向かう。その人も丁重に追い返すつもりでドアを開けた。
「すみません。母が……」
 と云いかけて、智奈はハッとして口を噤んだ。
 ドアの横の壁に寄りかかっていたのは、思いだすまでもない、シンジだった。
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