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66.緊急案件(3)

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 智奈が母と会ったのは昨日のことだ。正確にいえば、京吾の云うとおり突然、母がやってきたのだ。もっと厳密にいえば、智奈が会社から帰るのを見計らって京吾の自宅付近で待ち伏せしていた。
「秘密にしてたわけじゃない。話そうと思ってたけど、昨日は京吾の帰りが遅くて話す時間なかったでしょ?」
 京吾が帰ってきたのはおそらく日付が変わってからで、すでに智奈は眠りについていた。
 以前の京吾は、自分が動かなくても有能な腹心がいると云って早く帰ることも多かったのに、グランド総研を継ぐとなって以来、京吾は忙しくしている。
 昨夜、京吾がベッドに入ってきたことはわかったけれどはっきり目が覚めたわけではない。
 横向きに眠った智奈を背中から引き寄せた京吾は、ゆったりと智奈の躰を摩撫した。プールで泳いだときとは反対に京吾のほうが智奈の背中側にいるけれど、一緒に泳いだときのように気持ちがよくて智奈は夢うつつのまま果てにたどり着いて、意識を失うように深い眠りについた。朝になって起きたときは本当に夢だったかもしれないと疑ったけれど、躰の中心は濡れていた。
「出勤するときに話す時間はあった」
「忘れてただけ」
 と云うと、責めた眼差しに合って、「それくらい、詰まらないことだったから」と智奈は云い訳めいた。
 京吾は納得したふうではなく、気に喰わないとばかりに首をひねって智奈を脅かす。
「いま話して。できるだけ詳しく」

    *

 京吾の住み処は智奈の歩行速度で駅から十五分かかる。京吾はいま、真夏だからと智奈の躰を気遣って、最寄りの駅から家まで送るためだけにコージを使う。
 独りの帰り道と違って、出勤時は京吾が自ら運転したり社用車で迎えだったり、ふたり同行するのがほとんどだ。
 京吾に甘やかされるのは、権利というよりも義務みたいな感覚でいる。贅沢なことだけれど、車で五分くらいの距離のためにわざわざやってくるコージのことを考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 もっとも、およそ一カ月前、妊娠がわかってからすぐ迎えが始まったときにコージにそう云ったら、京吾から信頼されている証しとしてこれ以上の仕事はないと、智奈の詫び言は拒まれた。
 八月最初の木曜日の夕刻、コージは家まで来るといつものとおりに車用の門扉から乗り入れた。京吾の車と同じで、コージの車には門扉が自動で開くシステムが搭載されている。敷地内は車が通り抜けできるように半円になっているが、その真ん中にある玄関前の庇の下でコージは車を止めた。
「智奈」
 智奈は後部座席から降りたとたんに母の声を捉えた。
 まさかと思いつつ声のしたほうに目を向けると、どこかに身を潜めていて門扉が開いた隙に入ってきたのだろう、やはり母がいた。
「智奈さん」
 今度はコージが呼びかける。わざわざ車を降りたところを見ると、母のことを不審者と見なしているのかもしれない。
「コージくん、大丈夫、母なの」
 そう云ったところでコージが安心する気配はなく、だとしたら京吾から何か母について聞かされているのかもしれない。
「オーナーを呼びますか」
「ううん、仕事の邪魔はしたくない。京吾が帰ったら話すし、母から襲われるわけないよ。それに、すぐ追い返しちゃうから大丈夫」
 最後はおどけたように云うと、コージもそんな素振りで笑う。
「わかりました。気をつけて」
「うん。ありがとう」
 コージは車を出し、入ってきたほうとは反対の門扉から出ていくのを見送った直後、典子が傍に来た。
「ずいぶんと優雅な生活を送ってるのね」
 智奈が覚悟していたとおり、開口一番は嫌味っぽく、庇の外側にいる典子は家を見上げ、それから敷地内を見渡した。
 それが侮辱だとしても、生活が優雅だというのは否定できない。たまたま――でもなく京吾と出会ったのは意図的なものだったけれど、優雅な生活はあとからついてきたものだ。
「どうしてここにいるの? わたしがここにいるってどうやってわかったの?」
「マンションに何度か訪ねてみたけど、待っても帰ってこない。管理人に訊ねたら別の場所で暮らしてて、定期的に掃除しに帰ってくるだけって云うし。それで、ここだって見当をつけたのよ。あなたがここに入り浸ってるってことは三カ月くらい前にわかってたから。たまにじゃなく、一緒に住んでたなんて。結婚したの? うまくやったわね」
 典子は驚くようなことを云う。
「わかってたって、どうやって? だれかに訊いたの?」
 リソースAをやめて、マンションを売り払うことはしなかったけれどここに引っ越して、母親とは縁が切れたと思っていた。わざわざ訪ねてくるなんて、面倒を引き起こしそうな嫌な予感しか覚えない。
「探偵を雇ったのよ。お父さんの事務所が清算できてすぐにね」
「探偵って……」
「あなたの家で会った男と、事務所で会った男、すごく似てたから調べないわけにはいかないじゃない? 娘が騙されているかもしれないのに、それを黙って見過ごすわけにはいかないわ」
 智奈の思いこみが激しいだけか、典子が疑り深いだけか、いざとなったときの行動力は典子のほうが上回る。そのいざというときは得てして自分のためで、やはりいい感じはしない。
「母親ぶらないで。騙されてない。なんの用なの?」
「ただ無事かどうか知りたくて、会いにきただけよ。母親なのよ、顔だって見たくなるじゃない」
「どこよりも安全なところにいる。用事がないんだったら帰って。もう顔を見たでしょ」
「そうね。じゃ、またね」

    *

 ――と、昨日はあっさり母が帰っていって智奈はほっとした。
 一部始終を聞いた京吾は、眉間にしわを寄せて顔を険しくしている。聞いたからそれですんだとはならないようだ。しばらく考えこんだ様子で智奈を見るともなく見ていたが、やがて口を開いた。
「まあ、お母さんには見破られているとは感じたし、名刺を渡して素性を隠したわけでもなかったから、探すのはたやすかっただろうな」
「……問題ある?」
「ないとは云いきれない」
 それは智奈も認めるところだ。気をつける、と云うと京吾は愚問だとばかりに呆れた気配で、当然だ、と応じた。
「京吾……それが急用?」
 智奈が訊ねると、心外だといった様子で京吾は目を細める。
「おれが智奈に関して慎重になっていることをまだわかってない? 安藤真治が現れて以来、自分でもバカみたいに心配なんだ。念のため、防犯カメラのチェックをしてる。さっき昨日のリストが送られてきてわかった」
 そんなことが行われているとはつゆ知らず、智奈は目を丸くした。
 すると京吾は、は……、と気の抜けた笑みともため息ともつかない音を漏らす。
「智奈は、どれだけおれが智奈を大事にしてるかってことをわかってない」
 京吾は首を横に振って嘆いていることを強調する。
「だから、ちょっと忘れただけ。コージくんには、あとから京吾に話すって云ったの。だから、もしも責めるなら間違ってる。お母さんは京吾の一人二役をすぐ見抜いたのに、わたしはそれがわからないくらい、のんびりしてるってことでしょ」
 その云い訳は京吾の気分を和らげたようで、くちびるが緩く弧を描いた。
「見破れなかったのはのんびりしてるというより、智奈が純粋だってことだ。それに、智奈の純粋さは強い」
「強い?」
「そう。逆境に遭っても智奈はそれを受けて立っていた。云っただろう、はじめて話した日、智奈はお父さんのことを打ち明けて、おれがそのとき後ろめたくなったって」
「失うものがなかっただけ」
「そういうとき、智奈とは反対に開き直って底意地が悪くなる奴もいる」
 京吾の智奈に対する評価は高すぎる気もして――
「そういうの、あばたもえくぼって云う? 過大評価してる」
「惚れた欲目とも云うな」
 京吾はにやりとして、ポケットからリップを取りだすと蓋を取って、智奈の顎を持ちあげてくちびるに当てた。
「京吾、さっき……」
「黙って、口裂け女になる」
 智奈は小さく吹きだして、笑みに広がったくちびるにリップが沿う。
「……はい、終わりだ」
「社長のポケットにリップが入ってるの、見つかったら評判がガタ落ちになりそうじゃない?」
 ポケットにしまわれるリップを見ながら智奈がからかうと、京吾は挑むように顎をしゃくった。
「いまそうなったら、それは智奈のものだと出回るだろうな」
「……どうしよう」
「どうもしなくていい。だれがおれたちの関係に反対する?」
 確かにだれにも反対はされないだろうけれど。
「さっきおじいちゃんに会ったの。ここに来てたって」
 反対といっても、結婚しないことに反対している京介のことを口にしたとたん、京吾はうんざりした面持ちになった。
「ああ、来てた」
「家に訪ねてきてって云われたの」
「家族ごっこがやりたいらしいな」
 相変わらず皮肉っぽいけれど、京吾は自らそれに気づいたのか肩をそびやかすと。
「そのうち連れていく」
「京吾のお母さんも強烈だけど、わたしのお母さんよりずっとマシだと思う」
「はっ。だったら、お母さんには本当に気をつけることだ」
「うん。仕事に戻っていい? 好き勝手にしてるって思われたくないから」
「智奈はおれのことを公明正大だって云ったことがあるけど、智奈がそうでありたがってるな。行っていい。ただし、ひとつ要望だ」
「何?」
「今夜は寝かせない」
 オフィスに内ではあるまじき言葉だ。
 無言で咎めた智奈は、早く行かないとどうなるかわからないからな、という威し文句で追い払われた。
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