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19.恋をした

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 先週あのとき、堂貫が惚けて振る舞っていたとしたら役者顔負けだ。いや、それくらいのことは驚くまでもなく、淡々とやってのけるだろう。だからこそ、この地位に上り詰めている。ここぞという、智奈の危機を容易に回避したのもうなずける。
 堂貫は、ああ、と、かすかにうなずく素振りを見せながらくちびるを歪めた。
 眼鏡のせいで眼差しがシャットアウトされているぶん、いまの堂貫の表情にはよけいに悪人のようないびつさがある。智奈の場合、へんに慕う気持ちがあるから、もう怖くはない。
 智奈はわずかに首をかしげて、続く言葉を待った。
「母親のことも調べはついていたが、夫にだけではなく娘にまでたかっているとは思っていなかった。調査員のミスだな」
 その云い方は、何か罰を与えかねないと、そんな疑うような危うさを孕んでいる。
 はじめて堂貫が会社を訪れたとき、若いゆえに成功者であることが、やり手という以上に冷酷に見えたものだ。先週まで、その印象は変わらなかった。いま、同じ年代らしく、わりとフレンドリーに話せて怖くもないけれど、根本には第一印象とたがわない非情さがあるのだろうとは感じている。
「ミスというには手厳しいです。朝の六時から夜の十二時まで一カ月毎日、それくらい見張っていないと、母に遭遇するなんて無理だと思います。母のことは、父の事務所の整理ができて、それを譲ればすっきりすると思うんです。……清算してお金が残るかどうかもわかりませんけど」
「母親にそこまでしてやる必要があるのか疑問だが……。お父さんの事務所の件は、おれに預けてくれれば責任を持って引き継いで清算してやる。どうする?」
「でも……」
「べつに見返りを求めてはいない。これはビジネスとは違う。きみを欺く形になったお詫びだ」
「……お詫びって?」
「訊きもしないのに、きみはお父さんのことを自ら打ち明けた。思ってもみなかった。後ろめたい気分になったのははじめてだ」
 智奈こそ、思ってもみなかった。堂貫はどれだけ優位な立場にあっても、良心を持ち合わせて気取ってはいない。気づけば笑っていた。
 堂貫は不可解だといったふうにかすかに首をひねった。
「何が可笑しい?」
「すみません。可笑しいわけじゃなくて、うれしくなった感じです」
 智奈が云うと、堂貫は何やら考えめぐるように宙に目をやった。そして、何か思いついたように智奈に目を戻す。
「お父さんの件で、ほっとしたということか?」
 正解ではないけれど、堂貫が出した答えもうれしくなった一因かもしれないと思う。すると、うれしい気分も倍増しになる。
「それもありますけど……さっきの話、打ち明けたのは堂貫オーナーもそうですよ。わたしは両親のことを打ち明けてしまってたから、堂貫オーナーがそのことに関して口を滑らせるとか、そんな危険に陥ることはないし、だから、身辺調査のことを黙ってても支障ありませんでしたよね?」
 智奈の言葉を受けて、堂貫は肩をそびやかした。
「云っただろう、後ろめたいと。それを解消したかった」
「堂貫オーナーは正々堂々ですね。ただ人に厳しいだけじゃなくて、自分にも厳しいんだって知りました。それに、公明正大です。わたしと父の犯罪を混同して避ける人ばっかりだったのに、堂貫オーナーはちゃんと個人として判断してくれました。……あ」
「なんだ」
「あ、いえ、避けなかったのはキョウゴさんもそうでした」
 そう云うと、堂貫は顔を背けるように目を逸らした。気に入らないことはなんだろう。そう思ってしまうような雰囲気だ。
 怒らせたかもしれない。何を云ったから?
 智奈は思い返してみても、さっぱり原因をつかみだせない。ひょっとしたら、勝手に堂貫と近づけた気になった結果、馴れ馴れしくしすぎたうえ、堂貫のことを評価したことで機嫌を損ねた。いま、この数カ月の孤独という反動で、お喋りになっていることは自覚している。
 謝ろうと智奈が口を開きかけたとき、堂貫は深く息をついて無言のうちにそれをさえぎった。そうして、おもむろに立ちあがった。
「堂貫オーナー」
 思わず立ちあがりかけた瞬間に、堂貫は反対に身をかがめて、顔と顔がぶつかりそうなくらい間近に迫った。グリーングラス越しに、堂貫の伏せた瞼が上がっていくのを智奈はびっくり眼で見つめた。
「弁当が台無しになるぞ」
 呼吸がくちびるに触れそうなくらいの近さで目と目が合い、どぎまぎして、なんのことか智奈が理解するまでに時間を要した。
 ハッと我に返ってから手もとをみると、腿の上に置いたお弁当が落ちないよう堂貫が支えている。
「あ……す、すみません……ありがとうございます」
 中腰のまま、智奈はお弁当を受けとる。堂貫の大きな手に指が触れたことにもドキドキしたけれど、なんとか平気なふりを装えた。
 ベンチにお弁当を置いて、智奈はまっすぐ背を伸ばして堂貫と向き合った。
「あの、うるさくしてすみませんでした。いまみたいに話ができたのはひさしぶりで、調子に乗ってしまいました。これから気をつけ……」
「話し相手ならキョウゴがいるだろう」
 堂貫は不思議そうに首をひねった。
 確かにそうだ。キョウゴはただの話し相手にとどまっていないけれど、と、そこに思い至ると俄に頬が火照った。智奈は顔が赤くなっていないようにと願いつつ、その原因になっていることが堂貫に知られていないようにと不安な気持ちで願った。
「キョウゴさんは……その……よくわからない人で、話しててもからかわれたり、かわされたりして、マイペースだから振りまわされて宙ぶらりんな感じで……」
 智奈はうまく云えないまま、中途半端に言葉を途切れさせた。堂貫はキョウゴと親友だし、それを考えると智奈の発言は不快でもあるだろう。そうわかっていても云ってしまったのは、似ているだけではなく、いま家にいるのがキョウゴではなく堂貫だったら、と一瞬でも思ったせいだ。たぶん、あのとき安心したと同時に堂貫に恋をした。たったいま、智奈はそう自覚した。
「そう感じるのなら、きみの感覚は健全だ。だが、キョウゴは心配ない」
 堂貫の言葉は矛盾しているように思う。それに、何よりも智奈は落ちこんだ。それ以上に、ショックを受けている。いや、どう考えてもふたりの住む世界が違っていて、もとから望みは儚い。
「……はい。でもお喋りは気をつけます」
 せめて嫌われないように。
 智奈はどうにか笑みを浮かべて、コーヒーをありがとうございました、とあらためて云った。
「ああ。それから、話はうるさくはなかった」
 そうして、ふと堂貫は身をかがめた。何かと思いきや、智奈の頭の後ろに手を添わせ、引き寄せた。
 え……!
 吃驚した声はどうにか呑みこんだ。されるがまま、緑色で二本の縦ラインが刺繍された、黒地のネクタイが目の前に迫る。状況が把握できないうちに、智奈の頭の天辺に何かが触れた。かすかに匂いを嗅ぐような呼吸音がして、それから頭に添えられた手は離れていった。
「やっぱり髪の匂いだ。さっきいい香りがした」
 驚きが冷めやらぬうちに、堂貫はさらに混乱するようなことを云う。そして。
「またあとで」
 問うようにかすかに堂貫の首がかしいで、智奈は半ば無意識にうなずいていた。ワンテンポ遅れて、はい、と応じた声を聞き遂げた堂貫はうなずいて背中を向けた。
 まだ一緒にいたい。背中を追いかけたい衝動を、智奈はぐっと脚を踏ん張って堪えた。
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