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本編

54,菫

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 セシルは門を開け放った。霧が身体を抜けていく。瞼を閉じて、両眼を開く。菫色の瞳が光り、霧を散らす。霧は、潮が引くように晴れていった。

(デュレクは大丈夫だろうか)

 前線で活躍した者の判断に任せるしかない。セシルにできることは、霧を払うだけである。  

(浄化の魔眼は、攻撃には向かない。一方的な守りだ)

 デュレクのように、門の上に立ち、塀を走り抜けるという発想もなかった。前線でもまれてきた者がとる行動に、セシルはついていける気がしなかった。
 
 門を開いたことで、御所内に入り込んだ霧もすっかり消えている。

(開け放った時に入り込んだ霧が前よりも濃かった。霧が充満する速度が回を重ねるごとに早くなっているな)

 霧の残滓が残っている。
 セシルは菫色の瞳を輝かせながら、御所へと引き返した。




 デュレクは背後から突風が吹いたかと思った。霧がずさっと巻き戻されていく。セシルの浄化が行われたと直感する。

 まるで霧が、そこらじゅうに張り付いている魔族生の生物へと吸い込まれて行くかのようだ。
 
 なにを映しているのか分からない虚ろな子どもの青い眼からも光が失われている。

(ここはいったいなんなんだ。見たこともない魔族生の生物も含めて……)

 デュレクはこの数年間で、それなりの数を見てきた自負があった。対する相手について記された本も時間があれば目を通していた。しかし、この生物は、形状から、性質から、見たこともない。

(魔眼を持つ人間を取り込み、霧を発生させている時に瞳が光り、霧が消失していけば魔眼の働きが衰えている)

 この魔族生の生物は、魔眼を持つ人間を取り込み、その能力を増幅させているようにも見えた。さらに生かす程度に栄養を補給している。
 王宮の、しかも太子御所の裏手に、なぜ。
 疑問は尽きないが、デュレクの知識には手がかりはない。

(まずは子どもを助けなければ、体を傷つけずに引っ張り出すぞ)

 腰を軽く屈し、飛び上がった。手を伸ばし、魔族生の生物を掴む。
 左目に光が灯る。ざわざわと重なり合っていた魔族生の生物が波立つようにざわついた。デュレクは気にせず、魔族生の生物内部へと腕をめり込ませた。
 足が浮き、もがくままに前後に揺れた。

(届くか!)

 張り付いたまま、ざわつく魔族生の生物たちをかき分けて、デュレクは真っ直ぐに子どもへと手を伸ばす。

(足でもいい、手でもいい。どこでもいいから、掴めれば……)

 魔族生の生物がうねり始めた。子どもを抱えた彼らが、荒波のようにもぞもぞと動き出す。その動きにデュレクはバランスを崩しかけた。歯を食いしばって、宙に浮いた足を揺らす。ぐいっと上に向けて、上部に張り付き蠢く者に足を引っかけようとした。
 うまくいかず、足がめり込む。

 デュレクは体をねじり、子どもがわに体を寄せようと試みる。腕をさらに伸ばす。子供まではなかなか届かない。
 その間も魔族生の生物はずざっずざっと蠢いていく。魔族生の生物に両足と片手を取られたまま、デュレクは押されて横滑りする。

 子どものと距離は一向に縮まらない。

 空いた手でデュレクは柄に手をかけた。変わらず煌々と片目は赤く光る。

 剣を引き抜くと、そのまま魔族生の生物に切っ先を滑らせる。剣はデュレクの魔眼と同色の光を放ちながら、魔族生の生物の塊を引き裂いた。

 ぼろりとさかさまに落ちかける。
 子どももぐらりと傾いた。腕がぶらりと垂れ下がる。
 デュレクはいまだとばかりに、手を伸ばした。

 体が落下する間際にデュレクは子どもの腕を掴めた。ぐいっとその腕を引き寄せる。力任せに引っ張れば、めり込んでいた子どもの身体が、ぶすぶすと魔族生の生物から引っ張り出された。

 デュレクは落ちる先を目視する。真下には、泉があった。 
  
(水の中に落ちるか!)

 掴んだ子どもをさらに引き寄せ、頭部を抱えた。
 
 鍾乳石の突起が視界の端に入る。体をよじり、足で石を蹴り、横に飛んだ。辛うじて水に落ちることなく、地面にデュレクと子どもは転がった。




 セシルは御所内に入ると、足を速めた。
 廊下を突っ切っていく。

 自然といつも殿下と謁見するたびに通される庭を眺められる広い居室に向かっていた。

 そこに殿下は、女官とともにいた。窓に手をかけて、庭を見ている。

「殿下!」
 
 セシルの呼び声に、殿下は振り向く。
 振り向いた殿下は満面の笑みを浮かべる。

「ああ、セシル。霧の浄化、見事であった。デュレクはどうした」
「デュレクは……、門の上に立ち、塀を走り抜けていきました」
「では、林にむかったのだね」

 殿下は再び庭に目を向ける。

「さあ、始まりはこれからだ」

 殿下の呟きに、セシルは菫色の瞳に不可思議の色を乗せて瞬かせた。

(始まりは、これから?)




 デュレクは子どもを抱き、その頬をぺちぺちと叩いた。体はあたたかく、心音が伝わってくる。反応は無くても辛うじて生きていた。

「おい、大丈夫か。おい」

 呼びかけても、返事はない。どれくらい魔族生の生物に取り込まれていたのかは分からないものの、体は衰弱し、細くなっている。しばらく固形物を口にしていない様子だ。頬もこけ、栄養も運動も不足していると見るからに分かる。衣類もぼろぼろであり、歳月を感じさせた。

(長い間、取り込まれていたのだな。俺がもう少し早く来ていれば……、すまない)

 知らなかったとはいえ、デュレクは心より子どもに申し訳ない気持ちになる。もっと早く来ていれば、もう少し元気な姿で助け出せたかもしれないなど、思っても詮無いことだ。

 魔族生の生物同士が共生し合うのに似ている状態だったのだろう。食事をとらなくても、密着する魔族生の生物から栄養が入り込んで、生きながらえていたのだ。

 反応のない子どもに、デュレクは脱いだ上着をかけて、包み込んだ。近くに、手から抜けた剣が落ちている。拾い、鞘に納めた。

 子どもを抱き、デュレクは、洞を後にするため立ち上がった時だった。

 ひゅんと風切る音がした。
 反射的に子どもを抱えて屈みこむと、頭上をナイフが飛んでいく。そのまま、遠くの鍾乳石に突き刺さった。

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