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第四章 人魚姫

32.

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 一歩後退したアンリの半身が海中に沈む。
 手放すものか、逃がすものかと、タイラーはアンリの手首をつかんだ。離すまいと力がこもる。

 アンリは掴まれていない腕の手でタイラーの腕をつかみ、引っ張った。

 タイラーの一本の腕にアンリの全体重がかかってくる。

 男の腕を強く引き、女は背をそり返す。

 バランスを崩したタイラーの片足が浮く。地面が見えにくい海中に慌てて踏む混むと、そこはコケが生えた石の上だった。ぬめりに足裏をとられ、豪快にすべる。

 前のめりに倒れこめば、背面から海水へ沈み込むアンリの身の上にかぶさるように落ちていく。アンリの体が海面を叩いた。水飛沫みずしぶきが高らかと舞い、人二人を飲み込む水音が、洞窟に轟いた。

 小さな水泡にまみれた水中にほおり投げられる。視界が白く濁り、アンリを見失った。しぶき音がかき消えると、ゴプゴプと鳴る海中独特の音響に包まれる。
 月明かりを取り込んだ水中で、重力を失った二人が向き合いながら、浮いていた。

 つかんでいたはずのアンリの手首をタイラーは離していた。
 アンリもまた、タイラーにかけていた手をほどき、両手を大きく広げている。

 彼女を失う焦慮から手を伸ばす。指先がもがくも届かない。

 口内に残ったわずかな空気が、ブクブクと音を立て、口角から流れ出ていく。酸素を失い、海中に留まる時間が短くなるなど気にしていられなかった。
 目の前にいる手放したくない女性ひとに指先さえ届かない。口惜しさに歯噛みした。

 スカイブルーの見開かれた双眸が閉じていく。水の流れに任せた長い髪がゆらゆらと漂う。

 髪一房をつかむため、腕を伸ばすも水圧に押し返される。歯を食いしばり、片目に力がこもる。水圧に阻まれ数ミリも前に進まない。届きそうで、一向に届かない。

(アンリ。行くな、行くな)

 願っても、願っても、再びアンリははなれていく。

 海底へ沈みゆくことを受け入れているかのように、アンリは海底へと身を投げる。四方に散る青い髪がただよう。その髪の合間から大粒の泡が流れ込んできた。
 
 伸ばした腕がひるみ、恐れおののいた肘が曲がる。あっという間に泡が世界を包むと、アンリを見失うどころか、タイラーは方向感覚さえわからなくなった。

 泡の中で翻弄される。周囲に気を配るも、アンリの気配が感じられない。

 白い泡の世界が青みがかる。海底から強い力で海水ごと押し上げられた。水圧に枯れ葉のように踊らされ、タイラーは膝を抱え込むように身をかがめた。一回転すると、背に石があたった。痛みで、口が開くと、残った空気が泡と消えた。海水が喉へと入り込む。

 体が横転し、砂浜に打ち上げられた。真っ先に上半身をもたげる。ごほっと喉奥を鳴らし、無遠慮に流れ込んだ海水にむせた。

 大きな影がタイラーを覆う。月が陰ったのかとむせ続けながら見上げる。
 世界有数の大きさを誇る竜種が頭をもたげて、タイラーを見下ろしていた。

「アンリか……」

 彼女の語ったすべてが真実だと脳天に鉄槌が放たれ、吃驚し青ざめた。

 リバイアサンは青い姿態をくねらせ反転し、大仰な水音を響かせ海中へと消えた。大きな泡がブクゥブクゥと水面に半透明の半円を現れては割れるを繰り返す。その泡は徐々に海へつながる出入り口に近づいていく。程なく、それさえ見られなくなると、涼やかな波音だけが反響した。

 光散る洞窟に、男は一人残される。

 タイラーは片膝を立てて座り込んだ。押し寄せる波が足首まで濡らす。
 海水を叩いた。水しぶきが高く飛ぶほど力いっぱい、寄せる海水に何度も拳を叩きつけた。

「……ちっくしょう……」
 
 単調な波が寄せて返す。月明かりは変わらず、洞窟へ降りそそぐ。
 彼女の靴だけが揃えられ残されていた。それより遠くに投げたタイラーの靴は不格好に転がっている。

「アンリ。なんで黙っているんだよ……」
 膝をたてて、うなだれ、頭を抱えた。
「最初から、言ってくれよぉ……」

 三年かけてやっと振り切ったアンリへの想い。ソニアと出会い、もう一度愛そうと決意した。この童話調の街に魔法をかけられ、二十歳の少女に恋をした。

「俺だって、恥ずかしいんだ……十歳も年下の女の子に年甲斐もなく告白するなんて……」

 この数日、今までの三年間と比べても楽しい日々だった。シーザーの影を恐れながら、キスして抱きしめて、愛しているとささやいた。 
 果物を食べさせてもらい。一緒にお酒も飲んだ。脳裏にソニアの一言が浮かぶ。

「味見程度でいいなんて……アンリと同じじゃないか」

 どうして気づかなかったんだろうとタイラーは自責の念に溺れる。
 頭を撫でれば頬を赤らめ、髪を撫でれば緊張し、額にキスすれば戸惑う。

「反応が……、いちいち初々しいんだよ」

 あの小さな反応のすべてがアンリの反応だったのだ。甘えたいという彼女の望みを叶えて、もう一度愛せたと思えば、恋情で胸が熱くなる。

 恋人がいるか、配偶者がいるか危惧していたのも、離れていた三年間をどう過ごしていたかわからなかったためなのかもしれない。

「忘れられているのか気がかりだった。そういうことなのか。なあ、アンリ……」

 両手足を投げ出し、砂浜に寝ころんだ。洞窟の天井が割れている。月は隠れていたが、星空が見えた。波が寄せると、腰あたりまで濡らしていく。

「じゃあ、あの時、愛していると間接的に本人に言っていたことに、なるのか……」

 アンリを愛していたとソニアに伝えたつもりで、奇しくも本人に伝えてしまっていたことに気づくとタイラーは急に照れくさくなる。

「ああああ……」

 額に手を寄せ、目隠しする。誰に見られているわけではないのに、顔が一気に火照った。

『これからも大切にしてほしい』
『お願い。タイラー、私たちを助けて』

 アンリの声が蘇る。

「ロビンを連れて、海へ迎えに行けばいいんだよな。……なあ、アンリ」

 タイラーはぐっと濡れた前髪をかき上げた。

「もう一度、迎えに行ってやる」

 胸にひんやりと張りつくリングを、今度こそ彼女へと渡すのだ。
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