15 / 40
第二章 うちあげられた少女
15.
しおりを挟む
ソニアは斜め上を見て、考えあぐねるように口元へ手を寄せる。更に斜め下に視線を落とした。
言ってしまった言葉は戻せない。
寄せては返す波の音が異様に大きく聞こえ、耳が痛む。
鼓動が早くなると、身体が強張り緊張してきた。
生唾を飲み込むタイラーは、言った傍から後悔していた。
イエスを得るための状況を作れていない。交渉とは、答えを求める時にはすでに決している。イチかバチかはありえない。説得と言っても、押し切るわけではない。説明が巧みでも結果はついてこないだろう。
相手の反応に合わせて、外堀を埋め切れていない提案なんて、断られるのが必然だ。
(俺がソニアに自分の気持ちを重ねてしまったからだ)
彼女の気持ちを確認しない先走った誘いである、まったくもって、相手に配慮していない。さらに、彼女はシーザーの別荘で妹の世話をする使用人であり、十歳近く若い娘だ。
(いい年をして、何をしているのか)
タイラーは向こう見ずな誘いをかけた愚かさに恥ずかしくなる。
普段なら耐えられる沈黙にも我慢できなくなった。
「いや、いいいんだ。無理にとは……」
「そうね」
タイラーの思考などつゆ知らずソニアはつぶやく。
「そろそろ、いいかもしれないわ。時期がきたのかしら」
時期が来た。
その一言に、タイラーは既視感を覚える。
彼女が漏らした答えは、海辺の街に行く時にタイラーが出した決断とよく似ていた。
空を見上げ、ソニアが言った。
「そろそろ戻りたいわ。ロビンが待っているもの」
「ああ、そうだな。そろそろ、戻ろうか」
イエスともノーとも、答えは得られなかったが、タイラーはそれでいいと思った。
(どうせ、人魚島には一人で行くつもりだったわけだし……)
二人は来た道を引き返す。
下るより、登る方が辛かった。これは軽い登山だなとタイラーは、眉をしかめて息をつく。
その横を、すいすいと年配者が歩いて行く。これでは歳をとっているからと、言い訳もできない。
若いソニアもすいすいと進む。
(やはり、歩きなれていないせいだろうな)
軽い会話もできない、気の利かない男になっていた。
(なさけねえ)
呆れ半分に自嘲する。
広場に戻ると、人は少なくなっていた。店の数も減っている。お昼前だからだろうと短くなった影を見ながらタイラーは考えた。ソニアが、「店を見てくるから休んでいて」と言うので、その言葉に甘えた。見上げれば、まだまだ坂は続いている。
(先が長いな)
タイラーはため息をついた。
ソニアが買い物袋を提げて戻ってきて、その袋を受け取ると、二人はまた街を登り始める。
もうすぐ駅や線路が見えてくるあたりまであがってきて、車庫の屋根が見えかけた時、ソニアがふと横道にそれた。
「こっちにきて。少し、休もう」
疲れていたタイラーは素直にソニアについていく。
運動不足を自覚するほどに、額には汗が滲み、息もかるくあがっていた。
大きくでこぼことした四角い石が敷き詰められた公園に入り込んだ。低層の木が茂り、心地よさそうな木陰がちらほらみられる。石と石の隙間から草が生え、黄色や薄紫の花も顔をのぞかせている。
遊具はなく、ベンチが置かれているだけ。散歩にはいい場所だが、石のおうとつにより、子どもが遊ぶには不向きかもしれない。いや、子どもは喜んでも、保護者が好まないが正しいだろう。
街を見下ろすと、人魚島が浮かぶ海がよく見えた。
景色を楽しむ場だなとタイラーは眺める。
ソニアが、ベンチに腰をかけ、おいでと手招きした。
タイラーはソニアの隣に一人分あけて座る。足を投げ出し、手荷物を握ったまま、足の間に垂らす。
荷物が地面につき、手を離してもよさそうだったがタイラーは袋の持ち手を握ったままにした。両手を不自由に見せておく方が、今はいいかと判断していた。
男とは勘違いしやすい生き物だ。
自分が思う以上に距離を取っておいた方が安全なこともある。
シーザーの手前、自分の立場、彼女の年齢。条件をよく考えれば、人魚島へ誘うなど考えられないはずなのだ。冷静になればなるほど、変なことを口走ったと思わずにいられない。
好かれて困ると言いふらしていた男が、実は、相手から相当嫌われていたということは往々にしてあるものだ。
(とにもかくにも、ソニアとの距離感をどうしたらいいものか)
迷うタイラーの横で、ソニアがぽつりぽつりと語り始める。
「人魚島、ここからよく一人で眺めていたの。あそこに行けば、自分のことが分かるかもしれない。それはね、ずっと分かっていたのよ」
タイラーは海を見つめる、ソニアの横顔を見た。
感情の薄い瞳で彼女は海を見つめる。
「ロビンが都市部の病院に行く間に、行けばよかったのだけど。一人で行くには、踏ん切りがつかなくて、時間だけが経ってしまったわ。
彼女を言い訳にするのはずるいわね。きっと、怒られてしまうわ」
「ロビンを一人にはできないのでは」
タイラーの提案を断るなら、ロビンは丁度いい理由になるだろう。
考えておくと保留にするのも常套句だ。
シーザーの顔がちらつき、すでに怖気づいていたタイラーは断ってほしいと願っていた。
なのに、ソニアは首を横に振った。
「もうすぐ旦那様も来るから、そしたら、ロビンも一人にならないでしょ。人魚島に行くのも、いい機会かもしれない……。
バカみたいだけど、きっかけを待っていたのでしょうね」
一人分あけておいた隙間をソニアが詰めてきた。タイラーの方が、恐れるように身を引く。
ソニアが買い物袋に手を伸ばし、濃いオレンジ色の小さな柑橘系の果物を取り出した。
「ここまで来るの、大変だったでしょ。喉、乾かなかった」
「そう言えば……」
喉が渇くより、ソニアが近づいた緊張感にタイラーは戸惑っていた。
「ちょっとだけ、食べよう」
手で包んだ果物を顔のそばに寄せ、覗き込むように見せてくる。タイラーはそういうことをされると、男はすぐ勘違いするんだよと忠告したくなって、やめた。大袈裟にとらえたと思われ、呆れられても傷つきそうだった。
笑んだソニアが正面を向き、ベンチの背もたれにゆったりと座りなおす。その細い指先で丁寧に皮をむき始めた。半分ほど器用に皮をつなげたままむくと、ソニアはむき出しになった実を二つに割った。
差し出そうとして、タイラーの手がふさがっていることに気づき、彼女の手が止まる。
惑う彼女を見ていると、タイラーにも悪戯心が湧いてくる。
悪いことを考えているなと自覚はあった。
袋から手を離そうと思えばできるくせに、意識して強く袋の取っ手を握り締める。
「ソニア……、食べさせて」
ソニアが両目を瞬く。
どうすか、迷っているのだろう。
(さすがにずるいか……)
なに言っているの自分で食べてよと返されても、冗談だよと言い返せる。そんな安全なところで、女の子を試すなんて。
それでも、ただただ、ソニアの反応が見たかった。
彼女は手元に視線を落とす。あまり迷うそぶりもなく、半分に割った果実から一粒つまみあげる。
細い指先が果実を運ぶ。自分が誘っておいて逃げるわけにもいかないタイラーは、差し出された一粒を口にした。
噛むと果汁が口に広がり、甘酸っぱかった。
「美味しい?」
「……甘い」
(ソニアに食べせてもらったからだ)
嫌われていない。
確信もまた、果実の糖度をあげる。
再びソニアが果実つまむ。
自分の口に運んでから、もう一粒手にする。
なにも勘付いていない子を試している背徳感を感じながら、差し出された一粒をタイラーは食む。
果肉が弾け、彼女の指先に果汁が散った。
ひと雫つたい流れる。
ソニアが唇を寄せ、果汁の雫をなめとった。
流れるように、もう一粒つまもうと果実に手をかける。
海の香りをのせて潮風が吹いた。
ソニアの髪がなびく。
癖なのか、なびいた髪を邪魔そうに耳にかけようとして、手が止まった。
指先に果汁がついていると気づいたのだろう。
タイラーは片手を荷物から離した。
その空いた手で、ソニアの代わりに、風に流された髪に触れ、彼女の耳にかける。
ソニアがタイラーを見つめ、目を丸くする。
「もうひとつ、欲しい」
タイラーはねだった。
ソニアの指が一粒つまむと、果実をタイラーの口に運ぶ。
その一粒が唇に触れ、口内に放り入れられた時、タイラーはその指先の第一関節まで食べてしまいたいと思っていた。
言ってしまった言葉は戻せない。
寄せては返す波の音が異様に大きく聞こえ、耳が痛む。
鼓動が早くなると、身体が強張り緊張してきた。
生唾を飲み込むタイラーは、言った傍から後悔していた。
イエスを得るための状況を作れていない。交渉とは、答えを求める時にはすでに決している。イチかバチかはありえない。説得と言っても、押し切るわけではない。説明が巧みでも結果はついてこないだろう。
相手の反応に合わせて、外堀を埋め切れていない提案なんて、断られるのが必然だ。
(俺がソニアに自分の気持ちを重ねてしまったからだ)
彼女の気持ちを確認しない先走った誘いである、まったくもって、相手に配慮していない。さらに、彼女はシーザーの別荘で妹の世話をする使用人であり、十歳近く若い娘だ。
(いい年をして、何をしているのか)
タイラーは向こう見ずな誘いをかけた愚かさに恥ずかしくなる。
普段なら耐えられる沈黙にも我慢できなくなった。
「いや、いいいんだ。無理にとは……」
「そうね」
タイラーの思考などつゆ知らずソニアはつぶやく。
「そろそろ、いいかもしれないわ。時期がきたのかしら」
時期が来た。
その一言に、タイラーは既視感を覚える。
彼女が漏らした答えは、海辺の街に行く時にタイラーが出した決断とよく似ていた。
空を見上げ、ソニアが言った。
「そろそろ戻りたいわ。ロビンが待っているもの」
「ああ、そうだな。そろそろ、戻ろうか」
イエスともノーとも、答えは得られなかったが、タイラーはそれでいいと思った。
(どうせ、人魚島には一人で行くつもりだったわけだし……)
二人は来た道を引き返す。
下るより、登る方が辛かった。これは軽い登山だなとタイラーは、眉をしかめて息をつく。
その横を、すいすいと年配者が歩いて行く。これでは歳をとっているからと、言い訳もできない。
若いソニアもすいすいと進む。
(やはり、歩きなれていないせいだろうな)
軽い会話もできない、気の利かない男になっていた。
(なさけねえ)
呆れ半分に自嘲する。
広場に戻ると、人は少なくなっていた。店の数も減っている。お昼前だからだろうと短くなった影を見ながらタイラーは考えた。ソニアが、「店を見てくるから休んでいて」と言うので、その言葉に甘えた。見上げれば、まだまだ坂は続いている。
(先が長いな)
タイラーはため息をついた。
ソニアが買い物袋を提げて戻ってきて、その袋を受け取ると、二人はまた街を登り始める。
もうすぐ駅や線路が見えてくるあたりまであがってきて、車庫の屋根が見えかけた時、ソニアがふと横道にそれた。
「こっちにきて。少し、休もう」
疲れていたタイラーは素直にソニアについていく。
運動不足を自覚するほどに、額には汗が滲み、息もかるくあがっていた。
大きくでこぼことした四角い石が敷き詰められた公園に入り込んだ。低層の木が茂り、心地よさそうな木陰がちらほらみられる。石と石の隙間から草が生え、黄色や薄紫の花も顔をのぞかせている。
遊具はなく、ベンチが置かれているだけ。散歩にはいい場所だが、石のおうとつにより、子どもが遊ぶには不向きかもしれない。いや、子どもは喜んでも、保護者が好まないが正しいだろう。
街を見下ろすと、人魚島が浮かぶ海がよく見えた。
景色を楽しむ場だなとタイラーは眺める。
ソニアが、ベンチに腰をかけ、おいでと手招きした。
タイラーはソニアの隣に一人分あけて座る。足を投げ出し、手荷物を握ったまま、足の間に垂らす。
荷物が地面につき、手を離してもよさそうだったがタイラーは袋の持ち手を握ったままにした。両手を不自由に見せておく方が、今はいいかと判断していた。
男とは勘違いしやすい生き物だ。
自分が思う以上に距離を取っておいた方が安全なこともある。
シーザーの手前、自分の立場、彼女の年齢。条件をよく考えれば、人魚島へ誘うなど考えられないはずなのだ。冷静になればなるほど、変なことを口走ったと思わずにいられない。
好かれて困ると言いふらしていた男が、実は、相手から相当嫌われていたということは往々にしてあるものだ。
(とにもかくにも、ソニアとの距離感をどうしたらいいものか)
迷うタイラーの横で、ソニアがぽつりぽつりと語り始める。
「人魚島、ここからよく一人で眺めていたの。あそこに行けば、自分のことが分かるかもしれない。それはね、ずっと分かっていたのよ」
タイラーは海を見つめる、ソニアの横顔を見た。
感情の薄い瞳で彼女は海を見つめる。
「ロビンが都市部の病院に行く間に、行けばよかったのだけど。一人で行くには、踏ん切りがつかなくて、時間だけが経ってしまったわ。
彼女を言い訳にするのはずるいわね。きっと、怒られてしまうわ」
「ロビンを一人にはできないのでは」
タイラーの提案を断るなら、ロビンは丁度いい理由になるだろう。
考えておくと保留にするのも常套句だ。
シーザーの顔がちらつき、すでに怖気づいていたタイラーは断ってほしいと願っていた。
なのに、ソニアは首を横に振った。
「もうすぐ旦那様も来るから、そしたら、ロビンも一人にならないでしょ。人魚島に行くのも、いい機会かもしれない……。
バカみたいだけど、きっかけを待っていたのでしょうね」
一人分あけておいた隙間をソニアが詰めてきた。タイラーの方が、恐れるように身を引く。
ソニアが買い物袋に手を伸ばし、濃いオレンジ色の小さな柑橘系の果物を取り出した。
「ここまで来るの、大変だったでしょ。喉、乾かなかった」
「そう言えば……」
喉が渇くより、ソニアが近づいた緊張感にタイラーは戸惑っていた。
「ちょっとだけ、食べよう」
手で包んだ果物を顔のそばに寄せ、覗き込むように見せてくる。タイラーはそういうことをされると、男はすぐ勘違いするんだよと忠告したくなって、やめた。大袈裟にとらえたと思われ、呆れられても傷つきそうだった。
笑んだソニアが正面を向き、ベンチの背もたれにゆったりと座りなおす。その細い指先で丁寧に皮をむき始めた。半分ほど器用に皮をつなげたままむくと、ソニアはむき出しになった実を二つに割った。
差し出そうとして、タイラーの手がふさがっていることに気づき、彼女の手が止まる。
惑う彼女を見ていると、タイラーにも悪戯心が湧いてくる。
悪いことを考えているなと自覚はあった。
袋から手を離そうと思えばできるくせに、意識して強く袋の取っ手を握り締める。
「ソニア……、食べさせて」
ソニアが両目を瞬く。
どうすか、迷っているのだろう。
(さすがにずるいか……)
なに言っているの自分で食べてよと返されても、冗談だよと言い返せる。そんな安全なところで、女の子を試すなんて。
それでも、ただただ、ソニアの反応が見たかった。
彼女は手元に視線を落とす。あまり迷うそぶりもなく、半分に割った果実から一粒つまみあげる。
細い指先が果実を運ぶ。自分が誘っておいて逃げるわけにもいかないタイラーは、差し出された一粒を口にした。
噛むと果汁が口に広がり、甘酸っぱかった。
「美味しい?」
「……甘い」
(ソニアに食べせてもらったからだ)
嫌われていない。
確信もまた、果実の糖度をあげる。
再びソニアが果実つまむ。
自分の口に運んでから、もう一粒手にする。
なにも勘付いていない子を試している背徳感を感じながら、差し出された一粒をタイラーは食む。
果肉が弾け、彼女の指先に果汁が散った。
ひと雫つたい流れる。
ソニアが唇を寄せ、果汁の雫をなめとった。
流れるように、もう一粒つまもうと果実に手をかける。
海の香りをのせて潮風が吹いた。
ソニアの髪がなびく。
癖なのか、なびいた髪を邪魔そうに耳にかけようとして、手が止まった。
指先に果汁がついていると気づいたのだろう。
タイラーは片手を荷物から離した。
その空いた手で、ソニアの代わりに、風に流された髪に触れ、彼女の耳にかける。
ソニアがタイラーを見つめ、目を丸くする。
「もうひとつ、欲しい」
タイラーはねだった。
ソニアの指が一粒つまむと、果実をタイラーの口に運ぶ。
その一粒が唇に触れ、口内に放り入れられた時、タイラーはその指先の第一関節まで食べてしまいたいと思っていた。
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる