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第一章 海難事故

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 フライパンを洗いながらタイラーは背にかすかに残るアンリの感触に思いをはせる。ふいに恐る恐る触れてくる甘えは、自分しか知らないアンリの特別な一面であることをタイラーはよく分かっていた。

 いつ帰るか知れない出張でしばらく会えなくなることを惜しんでくれる。道すがら手もつながない距離感を保ちつつ、家のなかではさりげなく甘えてくれることがうれしい。アンリと一緒にいたいというタイラーの気持ちは、ささやかな日々の積み重ねによって育まれていた。



(生涯一緒にいてほしい)

 急にマグマのように、気持ちがせり上がってくる。

 リングが入った小箱はポケットにしまい込んだままである。明日からいなくなるアンリに、今こそ手渡すチャンスだろうか。考えあぐねるタイラーであっても、愛しさが胸にくすぶる今のうちなら告げられるような気がした。

 皿まで洗い終えたタイラーが手に残った水滴を払う。シャワーから出たばかりのアンリが濡れた髪をタオルで拭きながら現れた。

 手をふくタイラーの横にアンリが立つ。

「いつもありがとう。タイラー」
「いいよ。簡単なことだから」

 小さなことで、ありがとうと言ってくれるアンリ。その何気ない感謝がうれしくて、次もまた洗おうとタイラーは思う。




 冷蔵庫を開けながら、アンリが「なにか飲む」と尋ねてくる。

「ビールある?」
「ないわ。前に開けた赤ワインならあるけど、いい」

 半分ほど残っているワインボトルの首をつかんで掲げて見せる。

「うん、いいね」

 グラスを二つ棚から出したアンリが軽やかにローテーブルに弾んでいく。



 アンリはいつも床に座る。タイラーがソファに座ると、太ももに身体をよせる。
 赤ワインを注いだグラス受け取ったタイラーは注がれる赤い液体をくるりと回した。

「準備しなくて大丈夫なのか」
「少し、休んでからにするわ」

 アンリは舐めながら、タイラーの足にもたれて目を閉じた。
 甘え、寛ぐアンリの髪がタイラーの足に触れる。一房つまみ、タイラーは指先で弄ぶ。



 グラスに入った赤ワインを飲み干しタイラーがボトルに手を伸ばす。
 かすめ取るようにアンリの手が伸びて、ボトルをつかんだ。
「入れてあげる」
 赤ワインが入ったボトルをタイラーが手にするグラスに向けて傾けてきた。
「ありがとう」
 タイラーはなすがまま、アンリにワインを注いでもらう。

 テーブルに置かれたアンリのグラスには、まだ半分ほど残っていた。

「アンリはそんなに飲まないよね」
「味見出来たら満足なのよ。残りは、よかったらぜんぶ飲んで。明日からいないもの。残しても仕方ないわ」

 立ち上がったアンリが、棚に置いた仕事用のカバンを持って寝室へ消えていった。




 タイラーは、ボトルが空になるまでゆっくりと飲むことにした。
 アンリの動きを背後に感じつつ、数回グラスに注ぎ入れるとワインボトルは空になった。
 彼女のグラスに残った赤ワインにも手を伸ばす。
 ワインを飲み干したタイラーは、ソファに座ったまま、腕を伸ばし、体を左右にひねってから立ち上がった。

 台所で、空にしたボトルを水ですすぎ、そのまま台所へ置いておく。グラス二つもすすぎ洗いをし、ふきんでふくと棚に戻した。

 アンリの家では彼女のルールに従っている。やればできるものだとタイラーはつくづく思う。




 後は寝るだけであり、タイラーが寝室に入る。
 アンリはクローゼットから出したスーツケースにしまう荷物を確認している最中だった。

「もう居間には用事はないかい」

 タイラーが声をかけると、顔をあげたアンリが「ないわ」とそっけなく答え、またスーツケースに視線を戻す。

 寝室以外の電気をすべて消し、扉を閉めたタイラーは、壁面にある本棚から一冊手に取り、ベッドへ転がった。

 アンリがスーツケースのふたを閉める頭上にタイラーの服がかかっている。
 本を開きつつも、アンリの背を盗み見るタイラーは、ポケットにしまった小箱を取りに行くか行かないか、取りに行くならどんなタイミングがいいか、本を読むふりをしながら思案していた。

 

 アンリがスーツケースの蓋をしめ、それを立てて壁に寄せる。開け放していたクローゼットも閉じ、ベージュのカバンはスーツケースの手前に置いた。

 今回の出張は軽装のようだ。海洋に出る時のような重装備を準備しているようには見えない。



「今回は、荷物が簡易だね」

 本を閉じ体を横にしたタイラーはアンリに話しかける。

「観光地みたいにきれいな場所に行くの。そこから見える小島が目的地なのよ」

 ベッドの脇に座るアンリが、体をひねりタイラーの顔を覗き込む。

「人魚島と言うのよ」

 手にしていた本をベッドサイドに置いたタイラーがアンリの首に手を伸ばした。少し触れるとくすぐったそうに身をよじり、タイラーの手にアンリの手が添えられ、引き離そうとする素振りを見せた。待ってとじらすようなアンリの手つきに、一旦タイラーは手を引いた。



「古くから住む漁民が、伝統的な漁で生計をたてているの」

 アンリがベッドに上がり込み、タイラーの横に座りなおす。

「海に潜って魚介を採取するのよ。潜水時間も長いらしいの。長年続く漁法から心肺機能が高くなっているのかしらね」

 ふーんと聞き流しながら、アンリの足に触れた。特に嫌がる様子がないのでそのまま撫でる。

「そういう海に潜る習慣があるものだから、何らかの形でリバイアサンと遭遇することもありそうよね」

 夢中になり話し続ける彼女はいつものアンリだ。彼女らしさが見えてタイラーもほっとする。

「海に潜っている最中に、あの大きなリバイアサンが目の前にきたらどうしよう。私なら、食べられると思ってしまうわ。サメに遭遇するぐらい恐ろしいことよね。
 そういう目撃ケースが募っていけば伝承が生まれるのも当然かもしれない。
 島独特の不死伝説が生まれてもおかしくないのかもしれない……」

 アンリの腰に手をまわし、太ももに顔をうずめた。

「今回は伝承の確認にでもいくのかい」

 頬ずりしながら訪ねると、アンリの手が頭部を撫でる。

「それもあるわ」

 アンリはそれきり口をつぐんだ。
 太ももからいい匂いが漂う。
 明日からアンリがいないと思うと、タイラーも寂しくて仕方ない。

 太ももから腹、胸へと体をすり寄せる。
 タイラーの動きに合わせて、アンリもベッドに背をつける。
 甘い吐息を漏らすアンリ。 
 片手を下着の隙間に滑り込ませたタイラーは平手で彼女の腹を撫で、頂を目指す。

 両目を瞑ったアンリは、タイラーの誘いを拒むように、平静を装い話し続ける。

「島にいく船が出る街がね。すごくきれいな海辺の街らしいのよ。観光地というほど栄えてもいないらしいけど、富裕層向けに知る人ぞ知るような別荘地ではあるらしいの。
 噂通りのきれいな海辺の街だったら、今度一緒に行ってみない。タイラー」
「そうだね。アンリが気に入る海辺の街なら、俺も一緒に行ってみたいよ」

 アンリを抱き込んだタイラーは頬に、額に、唇を落す。
 彼女も口元をほころばせれば、もういいだろうと、両手で衣類を剝ぎにかかる。

(プロポーズは後にしよう。明日から忙しいアンリを悩ませても仕方ない。戻って、落ち着いたところで切り出そう。時間はまだあるのだから)

 言い訳を並べているものの、本当はアンリに触れたことで離れがたくなっただけだった。







 海難事故の一報が届いたのは、それから数日後のことだった。
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