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金春の淡雪
3.
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社長室は秘書室や役員室のあるフロアの一つ上にある。
エレベーターから降りると、フロア全てが黒の絨毯で覆われていた。
「社長は効率性を重視するから、無駄な動きは極力避けて。でも何かあったらすぐ言ってくれればフォローするし、理由があるなら社長も怒らないわ」
横でフォローしてくれる九条女史の声が遠くなっていく。
葉琉は本能がすぐに逃げろと言っているのが分かるが、仕事であるので足を止める訳にはいかない。九条女史は、葉琉が緊張していると勘違いしていた。
社長室の扉の前に来る。九条女史がノックし、扉が開かれるまでの間がとてもスローモーションに見えた。
開いた扉からムスクの香りが漂ってくる。
「社長、本日から第二秘書に就きます、神代です」
九条女史の紹介は一切耳に入ってこない。それはデスクに座ってすでに仕事をしていた七々扇社長も同じらしく、目を見開いている。
しかし、九条女史に何度か名前を呼ばれ、我に返ってたどたどしくも自己紹介し低頭した。
「社長、早速ですがいくつか報告が上がっております」
挨拶もほどほどに、始業時間になり九条女史が仕事を始める。七々扇社長も切り替えたらしく、葉琉の方をチラチラ見るがそれだけだった。
うまく切り替えができないながらも、九条女史に指示されるままに書類仕事を裁いていく。先週、そして昨日まで秘書として就いていた常務や専務と違い、社長の仕事は量が多い。最初はチラチラとこちらを見る七々扇社長の視線が気になっていたが、葉琉はものの数分で仕事に集中していた。
「神代君、休憩行ってきていいわよ」
九条女史からの言葉で、我に返る。集中していて気付かなかったが、どうやら昼休憩の時間のようだ。社長は30分ほど前からランチミーティングに行っており、今社長室にいるのは九条女史と葉琉のみだった。
「分かりました。今やってる書類が切りの良いところで一度終わりますね」
企画部から挙げられた企画書が、正しく予算内で無駄な出費がないかの確認作業をしていた葉琉は、途中のデータに目を通しながら九条女史に返事をした。「あまり無理はしないようにね」と笑顔で昼休憩に向かった彼女。社長室にはデスクトップと書類を見比べる葉琉のみになった。
「…よし、こんな感じか」
15分程で終わり、背伸びをして立ち上がる。社内カフェでパスタランチにしようか。それとも本社の目の前にある定食屋さんで日替わりランチにしようか。そんな事を考えながら扉へ向かう。開ける為に手をかけようとした瞬間、扉が勝手に動いた。
「…お前か」
扉を開けたのはランチミーティングから戻ってきた七々扇社長だった。
「失礼しました」
葉琉は驚いたのも束の間、すぐに横にズレ、低頭する。そのまま入室した社長は、葉琉の目の前で立ち止まった。
何も発しない七々扇社長。葉琉の気まずさはマックスになる。
「…Subが秘書か」
その一言で、自分がSubである事がバレたのを知った。
別に、特に知られてはいけないという訳ではない。この会社は実力主義なところが顕著であり、例えDomでも使えなければ採用されない。そんな会社だからこそ、Subであるからという理由だけで嫌がらせされる事もない。
だが、このDomにはバレたらいけないような気がしていた。
「…あの」
「ああ、いや。あまりにもSubに見えないから、ついな」
冷静にそういわれ、何と返したらいいか分からない。今の様子から、特にSubに嫌悪感を抱いていたり変に思っている事はなさそうだとは思いつつ、葉琉はどうしたらいいか分からず困惑していた。
「…秘書室はDomだらけだろう。その、大丈夫なのか?」
そうやらこの顔色を一切変えない社長は、オレの事を心配しているらしい。入り口で立ったまま、しかも向かい合っているこの状況に困惑しながらもそれだけは理解できた。
「えっと、はい。抑制剤もありますし」
「あれは副作用も酷いと聞くが」
「確かに酷いですが、定期的にplayをするような関係のDomも、パートナーもいませんので。仕方ありません」
Subは長期間commandを貰う機会がなければ、不安に苛まれて病んだり、精神的に辛くなる。
commandとは、DomがSubに与える命令の様なものである。それぞれの欲求を満たすために行うPlayをする時に使うものであった。そのcommandを個人差はあれど、定期的に受けなければSubは不安に押しつぶされてしまうのだ。自分の二次性を検査するのは高校入学と同時である。大体のSubは20歳くらいまでには、自分の精神的安定のためにもDomのパートナーを選び、番になっている事がほとんどだが、葉琉はそのパートナーさえいなかった。
そんな自分の命を脅かしてしまうものを、葉琉はハイクラスのSubだからという理由で楽観視する傾向にあった。commandを貰わなくても、頭痛や吐き気、発熱といった激しい副作用を乗り切れば大丈夫だと言い切ったのだ。
そんなDomの様な雰囲気を持っている秘書を前に、AクラスのDomである社長は何かを考え込んでいた。早く昼休憩に行きたい。と口には出さないがそう思っていた葉琉は、自分の表情筋をフル活用して困った様な笑みをキープしていた。
ややあって、七々扇社長がふと口を開く。
「…今日の夜、Playしてみないか」
「……えっと?」
「君さえよければ、私とパートナーになってほしい」
盛大な爆弾を投下しくださったようだ。
「……は?」
上司であるが、思わず口が悪くなったのはご愛敬だろう。
エレベーターから降りると、フロア全てが黒の絨毯で覆われていた。
「社長は効率性を重視するから、無駄な動きは極力避けて。でも何かあったらすぐ言ってくれればフォローするし、理由があるなら社長も怒らないわ」
横でフォローしてくれる九条女史の声が遠くなっていく。
葉琉は本能がすぐに逃げろと言っているのが分かるが、仕事であるので足を止める訳にはいかない。九条女史は、葉琉が緊張していると勘違いしていた。
社長室の扉の前に来る。九条女史がノックし、扉が開かれるまでの間がとてもスローモーションに見えた。
開いた扉からムスクの香りが漂ってくる。
「社長、本日から第二秘書に就きます、神代です」
九条女史の紹介は一切耳に入ってこない。それはデスクに座ってすでに仕事をしていた七々扇社長も同じらしく、目を見開いている。
しかし、九条女史に何度か名前を呼ばれ、我に返ってたどたどしくも自己紹介し低頭した。
「社長、早速ですがいくつか報告が上がっております」
挨拶もほどほどに、始業時間になり九条女史が仕事を始める。七々扇社長も切り替えたらしく、葉琉の方をチラチラ見るがそれだけだった。
うまく切り替えができないながらも、九条女史に指示されるままに書類仕事を裁いていく。先週、そして昨日まで秘書として就いていた常務や専務と違い、社長の仕事は量が多い。最初はチラチラとこちらを見る七々扇社長の視線が気になっていたが、葉琉はものの数分で仕事に集中していた。
「神代君、休憩行ってきていいわよ」
九条女史からの言葉で、我に返る。集中していて気付かなかったが、どうやら昼休憩の時間のようだ。社長は30分ほど前からランチミーティングに行っており、今社長室にいるのは九条女史と葉琉のみだった。
「分かりました。今やってる書類が切りの良いところで一度終わりますね」
企画部から挙げられた企画書が、正しく予算内で無駄な出費がないかの確認作業をしていた葉琉は、途中のデータに目を通しながら九条女史に返事をした。「あまり無理はしないようにね」と笑顔で昼休憩に向かった彼女。社長室にはデスクトップと書類を見比べる葉琉のみになった。
「…よし、こんな感じか」
15分程で終わり、背伸びをして立ち上がる。社内カフェでパスタランチにしようか。それとも本社の目の前にある定食屋さんで日替わりランチにしようか。そんな事を考えながら扉へ向かう。開ける為に手をかけようとした瞬間、扉が勝手に動いた。
「…お前か」
扉を開けたのはランチミーティングから戻ってきた七々扇社長だった。
「失礼しました」
葉琉は驚いたのも束の間、すぐに横にズレ、低頭する。そのまま入室した社長は、葉琉の目の前で立ち止まった。
何も発しない七々扇社長。葉琉の気まずさはマックスになる。
「…Subが秘書か」
その一言で、自分がSubである事がバレたのを知った。
別に、特に知られてはいけないという訳ではない。この会社は実力主義なところが顕著であり、例えDomでも使えなければ採用されない。そんな会社だからこそ、Subであるからという理由だけで嫌がらせされる事もない。
だが、このDomにはバレたらいけないような気がしていた。
「…あの」
「ああ、いや。あまりにもSubに見えないから、ついな」
冷静にそういわれ、何と返したらいいか分からない。今の様子から、特にSubに嫌悪感を抱いていたり変に思っている事はなさそうだとは思いつつ、葉琉はどうしたらいいか分からず困惑していた。
「…秘書室はDomだらけだろう。その、大丈夫なのか?」
そうやらこの顔色を一切変えない社長は、オレの事を心配しているらしい。入り口で立ったまま、しかも向かい合っているこの状況に困惑しながらもそれだけは理解できた。
「えっと、はい。抑制剤もありますし」
「あれは副作用も酷いと聞くが」
「確かに酷いですが、定期的にplayをするような関係のDomも、パートナーもいませんので。仕方ありません」
Subは長期間commandを貰う機会がなければ、不安に苛まれて病んだり、精神的に辛くなる。
commandとは、DomがSubに与える命令の様なものである。それぞれの欲求を満たすために行うPlayをする時に使うものであった。そのcommandを個人差はあれど、定期的に受けなければSubは不安に押しつぶされてしまうのだ。自分の二次性を検査するのは高校入学と同時である。大体のSubは20歳くらいまでには、自分の精神的安定のためにもDomのパートナーを選び、番になっている事がほとんどだが、葉琉はそのパートナーさえいなかった。
そんな自分の命を脅かしてしまうものを、葉琉はハイクラスのSubだからという理由で楽観視する傾向にあった。commandを貰わなくても、頭痛や吐き気、発熱といった激しい副作用を乗り切れば大丈夫だと言い切ったのだ。
そんなDomの様な雰囲気を持っている秘書を前に、AクラスのDomである社長は何かを考え込んでいた。早く昼休憩に行きたい。と口には出さないがそう思っていた葉琉は、自分の表情筋をフル活用して困った様な笑みをキープしていた。
ややあって、七々扇社長がふと口を開く。
「…今日の夜、Playしてみないか」
「……えっと?」
「君さえよければ、私とパートナーになってほしい」
盛大な爆弾を投下しくださったようだ。
「……は?」
上司であるが、思わず口が悪くなったのはご愛敬だろう。
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