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Chap.27
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マリーが心を込めて用意してくれた竜のための祝いの晩餐は素晴らしかった。メインディッシュの詰め物をしたローストグース(リルのソースをかけて食べる)も最高に美味しかったけれど、自他共に認める甘党の竜が一番気に入ったのはデザートのどっしりとしたコーヒーチョコレートケーキで、大きく切ってもらったのをなんと三つもお代わりしてしまった。
エミルとカールが、まんざら冗談でもなさそうな顔で、もしかしてこの凶暴ともいえる食欲は、魔法の喪失の兆候だと言えないだろうか、などと議論し始めた横で、竜は三つ目のコーヒーチョコレートケーキをゆっくり楽しみながら、満足のため息をついた。
「美味しい…」
思わず唸った竜にマリーが微笑んだ。
「そんなに喜んでくれて、作った甲斐があったわ」
「シェフになろうとか思わなかったんですか?パティシエとか」
決してお世辞ではなくそう訊くと、マリーは笑顔でくるりと目を回してみせた。
「まあありがとう!そうね、お料理は昔から好きだったけど、でも絵の方がもっと好きだったから」
竜は勝手口のそばのキャビネットに載せてある二つのキャンバスに、心からの称賛の眼差しを向けた。
一つはライラと竜の絵で、向かいあっているふたりの間にきらきら光る水滴が光を反射させながら浮かんでいる。一昨日、竜がライラを相手に、できるようになったばかりの水を出したり消したりする魔法をやっていたシーンだ。竜は「ほら!」と言っているようなわくわくした顔をしていて、ライラは大きな黒い瞳を輝かせて、楽しそうににこにこしている。
もう一つはエミルと竜の絵だった。果樹園の木戸に並んで寄り掛かった二人が楽しそうに何か話している。光の感じから、午後の時間だとわかる。もちろん絵だから、何の動きもないはずなのだけれど、果樹園の木々をわたる緑の風が確かに感じられ、木々の葉擦れの音が聞こえる。エミルと竜の髪が微かに揺れているように見える。
「…すごい…」
竜は目を細めた。絵の中の空間にふうっと吸い寄せられる。さらさらという葉擦れの音に混じって、エミルと自分の笑い声が聞こえてくるようだ。ずっと続いて欲しい幸せな時間がそこにある。
こんなふうに絵が描けたらなあ、と竜は心から思った。こんなふうに描けたら、描いている間中どんな幸せを感じることができるんだろう。
「ところで竜、」
エミルと話していたカールがこちらを向いた。
「そろそろ道具のことを説明しておきたいと思うんだけど、今夜これからどうかな」
マリーが呆れた顔をして言う。
「こんなに食べた後で?そんなことしないでゆっくり休む方がいいわ」
「大丈夫だよ。何も飛んだり跳ねたりするわけじゃないんだから」
「大丈夫です。腹八分ですから」
カールに続けて竜が言ったので、マリーは目を丸くし、カールとエミルは顔を見合わせた。
「昨日の朝もこうだったんですよ。ピエールのところでびっくりするほど食べた後で、腹八分だ、って」
「うーん…スティーブンにもう一度兆候のことを詳しく訊いた方がいいんじゃないかねえ」
「そうしましょう」
冗談とも本気ともつかぬ調子で言う二人に、竜はちょっと口を尖らせた。
「兆候なんかじゃありません。確かに、自分でもいつもよりたくさん食べてるのはわかってますけど、でもそれはすごく美味しいからで…。それに育ち盛りですし、魔法で普段は使わない力を使うから、いつもよりももっとエネルギーの補給が必要なだけです」
「でもこれだけ食べても満腹じゃないんだろう?」
エミルが真面目くさって訊く。
「お腹いっぱいで動けない、ってほどじゃありませんけど、でも気持ちよくいっぱい、っていうか、それのちょっと手前っていう感じです」
負けずに真面目に竜が答えると、カールが笑い出した。
「まあ、育ち盛りの若い食欲、ということなのだろうね、きっと。それじゃ、竜が大丈夫なようなら、食べ終わったら書斎へ行こう。エミル、お前もね」
「はい」
エミルと竜の声が重なった。
数時間後、竜は自分の部屋の机に向かって、せっせとペンを走らせていた。書斎では、カールの話を聞いたり質問したりしながら、それをエミルにもらった古いノートにできるだけ速く殴り書きでメモした。今はそれをきちんとまとめて、できるだけ小さい字で手帳に書いているところだ。
書斎で聞いたことは、どれも重要なことばかりだった。けれど、竜の心に重く突き刺さったのは、カールが客人を向こうに送り返すための公式の魔法は安全ではないと考えていることだった。
「もちろん、魔法そのものが危険だということではないよ。シールドがないことが問題なんだ。こちらから向こうへの移動自体が身体に及ぼす影響というのはかなり大きいというのが私の持論だ。すぐに死を意味するような即効性のあるものではないにせよね。だから私の魔法にはシールドがあるんだ」
カールは静かに言った。
「私はもともと、母が向こうとの行き来をできるようにと思って、この発明の道に入ったわけだからね。だから、最初から安全面については時間をかけてありったけの情報を探し、塾考に塾考を重ねた。絶対に母の…使い手の安全を守れるものを作りたかったんだよ」
残念ながら間に合わなかったが。夕方果樹園でカールが言った言葉がもう一度聞こえたような気がした。
「公式の魔法にシールドがないのはどうしてなんですか?」
「政府が、シールドなしでも安全面に問題はないと考えているからだろうけれど、まあいちばんの理由は、難しいからだろうね」
エミルも頷く。
「僕の魔法で時間がかかっているのもそこだからね。シールドは難題中の難題なんだ」
「え?だって、マルギリスを使うんじゃないんですか?」
「シールドとしてじゃないよ。まるっきり別の用途で使っているんだけど、ふと、あれを歌わせればジリスとフュリスが作り出すシールドと同格のものになるって気づいて、竜が帰るときに臨時のバリアとして使えるんじゃないかと思っただけだ」
「いいひらめきだったよ」
カールが目を細める。竜も心からうなずいた。エミルがマルギリスのことに気づいてくれなかったら一体どうなっていたことか…。
少し開けた窓から入ってくる微風が時折カーテンを揺らす。手帳に書きこんでいた手を止めて、竜は唇を引き結んだ。
なんとしても、相手を自分の次元に引き入れる魔法を作り出して、健太を守らなくては。この世界の政府のことなんてよく知らないけれど、魔法発明学界の頂点にいたカールが安全じゃないというなら、安全じゃないに決まっていると竜は思った。どうやって新しい魔法を作り出したらいいのか、見当もつかないけれど、でもやるしかない。やらなきゃいけない。できなきゃいけないんだ。自分だけ記憶も安全も手に入れておいて、健太を危険な目に遭わせるなんて、そんなことは絶対にできない。なんとかしなきゃ。
背後からはライラの寝息、窓の外からは微かに虫の音が聞こえてくる。時計を見ると、もう11時半だった。そろそろ寝なくては。竜は書き忘れたことがないか、もう一度ノートと手帳を見直した。
道具にどうやってジリスとフュリスの混合物(字数を節約するために、竜はそれをカールリスと呼ぶことにした)をはめ込むかは、単純明快、間違おうとしても間違えられないくらい簡単だったので、大して書くことがなかった。カールに見せてもらった道具もとてもシンプルな作りだったので、絵の才能のからっきしない竜でも、簡単なわかりやすい図を描くことができた。
道具は、前にエミルが言っていた通り、子供の二つの手で握れるくらいの大きさで、どう見ても木でできているようにしか見えなかったが、パルリスという金属だとカールが説明してくれた。見た目だけでなく、手触りも重さも、よく磨き込まれた木工品のようで、何となく銀色のごつごつした重いものを想像していた竜は、とても意外に思った。旅先のお土産屋さんで、様々な木工品が並べてある中に置いても違和感がなさそうな物体だった。
両サイドが膨らんだ形になっていて、骨型の犬のおもちゃに似ている。ライラが喜んで前足で押さえて齧っているところが容易に想像できてしまう。気をつけないとね、と首をのばして興味深そうに道具に鼻を近づけたライラを見て、カールが笑って言った。
その道具は、事故の後カールがもう一度作ったものであって、事故で木っ端微塵になってしまった道具そのものではないけれど、エミルがそれを手に取ったとき、竜ははっとしてエミルの顔から目を逸らした。見てはいけない気がした。突き刺すような鋭い気持ちがエミルの周りに感じられた。
「…もっと重くて大きかったような気がする」
道具を持った手を握ったり開いたりしながら、エミルは呟いた。
「ジリスとフュリスが入っていない分軽いだろうね」
カールは口では実際的なことを言ったけれど、エミルを気遣っているのが竜にはよくわかった。
「…そうか。そうですね」
エミルは低い声でそう言ってまた少しの間道具を眺め、それから微笑して竜にそれを手渡してくれた。その時触れたエミルの手は冷たくて、微かに震えていた。
竜はあの時エミルの周りに感じられた突き刺すような空気を思い出して、胸の奥が痛くなった。まったくマコのやつ。エミルは真を責めるなと言ったけれど、竜はやはり心の中でちょっと真を責めずにはいられなかった。やっぱり一緒にカナダに行こうなんて言い出した真が悪いと思う。真がそんなことを言い出さなければあの事故は起こらなかったはずだ。
道具の作りについてのカールの説明を読み直した竜は、その他に書き留めたことにも目を走らせた。
道具を真と竜が一緒に使っても問題ないであろうこと。
その際に使うこちらの世界に属するものを忘れずに持って帰ること。忘れてしまった場合は、この手帳のページを破いて丸めて道具に入れることもできる(でも竜は絶対にそんなことはしたくなかった。果樹園の小石を持って帰るつもりだ)。
こっちに戻ってくる時どこに戻ってくるかは、道具に入れる物が魔法によって動かされる前にどこにあったかによって決まること。つまり、今回はスティーブンの書斎から公式の魔法によって向こうの世界に帰るわけだから、道具に入れる物が果樹園の小石であろうがなんであろうが、こっちに戻ってくる時はスティーブンの書斎に戻ってくることになる。
「『元いたところに戻る』魔法というのは、魔法で動かされる前にいたところに戻る、ということだからね。だから、例えば、魔法を使わずに、普通に手を使って本棚から机に持ってきた本を、『元いたところに戻る』魔法で本棚に戻すということはできないわけだ」
「なるほど…」
果樹園で拾った石を使えば果樹園に戻ってこられるのだと思っていた竜はちょっとがっかりしたけれど、あの超高速の汽車に乗ればスティーブンの書斎から四時間でここに帰ってこられるのだからいいや、と思い直した。それに、その次からは果樹園に帰ってこられるのだから。
「そうだ、あの車掌さんに顔を覚えられてないといいですけど…」
エミルがうーんと腕組みした。
「まあ、同じ車掌に当たるとは限らないけど…でも可能性は高いな。いつ頃戻ってくるんだ?」
とっくにそのことを考えてあった竜は、勢いこんで言った。
「キャンプは3泊4日なんです。向こうに戻るのが2日目の朝7時。キャンプの解散は4日目の朝10時で、昨年も一昨年も、家には午後2時頃には着いていたと思います。真は今水泳部の合宿に行ってますけど、僕たちがキャンプから戻る一日前に家に戻ることになってますから、僕が着く頃には家にいるはずです。だからすぐに何があったかを話して、ジリスとフュリスを道具に組み込んで、『ちょっと出かけてきます、夕飯には戻ります』って置き手紙をして、3時頃には発てるんじゃないかと思うので、それで56時間。56日後ってことになります」
カールが微笑んだ。
「もうすっかり計画を立てたんだね」
「56日か…。約2ヶ月。それくらいだったら、まだ顔を覚えてるかもしれないな。大抵の客人は数日の滞在だから、2ヶ月経ってまだいるっていうのは変に思われるかもしれないけど…。まあ、ないとは思うけど、もし何か訊かれたら、移住したんだって言えばいいよ」
竜は笑顔でうなずいた。
「そうですよね。だって、すぐに本当に移住するんですから」
そう。絶対に移住する。本当に移住するんだ。なんだか急にすごく嬉しくなって、竜は椅子から立ち上がると、眠っているライラのところへそっと近づいた。うんと静かに近づいたつもりだったけれど、ライラはすぐに目を開けて笑顔になり、横になったままベッドに尻尾をぱたぱたと打ちつけた。
「ごめんね。起こしちゃって」
ライラの大きなベッドに肘をついて寝転んだ竜は、ライラの白とライトグレイの首を撫でながら囁いた。
「…ねえライラ。僕、もうすぐ向こうに帰るけど、56日経ったら戻ってくるからね。僕のこと、覚えててくれるよね。その時は向こうの夕飯前に帰らなきゃいけないから、3日間くらいしかいられないけど、その後移住するから。移住ってなんのことか知ってる?こっちに戻って来て、ずーっといるんだよ。ずーっとだよ。もちろん途中でたまに向こうに帰ったりするけど…。ああ、それに、僕、魔法大学に行くから、大学に入った後は毎日は会えなくなっちゃうけど…。でもきっとちょくちょく帰ってくるからね。いっぱい遊ぼうね。いっぱい一緒にいようね」
顔を近づけると、にこにこ顔のライラは竜の鼻を大きなピンク色の舌でぺろんと舐めた。マリーが見たら顔を洗えと言われるところだけれど、これくらいならいいっていうことにしておこう、とライラをハグしながら竜は思った。
ライラのベッドはふかふかで気持ちがいい。中にはラミィという花の乾燥させたものが入っている。一昨日マリーに見せてもらった。白くてふわふわしたぼんぼりのような花だ。たんぽぽの綿毛によく似て、たくさんの小さい綿毛のような花が球形に集まっているのだけれど、たんぽぽより一回りくらい大きい。布団やベッドに入れても、その丸みのある形を優に1年間くらいは保つので、羽毛布団よりもさらに軽く、ふかふかするのだそうだ。ただ、温かさはやはり羽毛布団の方が上らしい。
夏のこととて、竜自身はまだラミィの布団を試したことはなかったけれど、いつか使える日が楽しみだった。きっと雲の中で眠っているような感じがするんだろうな…。ライラのベッドに頬をのせて竜は思った。ライラのベッドは本当に心地いい。ぺしゃんと潰れたりしないし、いつも軽くてふかふかふわふわしている。ほのかにハーブの香りもする。竜のベッドと同じ香りだ。
うとうとしながら、竜はまだ読み直している途中の手帳のことを思った。そうだ、まだ今日書斎で聞いた話で手帳に書いてないことがいくつかある。カールの魔法の道具の使い方に直接関係のないことなので、日記の方のページに書こうと思っていたことがいくつかあるのだ。なぜあの日事故が起こったのか。なぜ真が守られてエミルは守られなかったのか。魔法を封じ込める物質のこと…。起きていって、書かなくちゃ…。
「竜、」
そっと肩を揺すられて眠い目を開けた竜の目の前は、白とライトグレイの毛でできた壁だった。
「…?」
「ちゃんとベッドで寝ろ。風邪ひくぞ」
寝返りを打って上を見ると、屈み込んだエミルが苦笑していた。
「…あれ、寝ちゃった…。今何時ですか」
「1時ちょっと前だ」
エミルに助け起こされて、竜はまだ半分眠りながらごそごそと自分のベッドに入りこんだ。
「消すぞ」
「…はい…」
窓を閉める音がして、机の上の灯りが消された。部屋が暗くなる。廊下からの微かな明かりで、エミルのシルエットが夢の中のようにぼんやりと浮かんでいる。竜は眠りの中に引き込まれながら声を絞り出した。
「…エミル…」
「ん?」
「…なんでも…聞いてくれるんですよね…」
「いいよ。なんだい」
言わない方がいいかもしれない。でも言わなくちゃ。竜は眉をしかめた。ぼうっと光る姿が見える。妖精だ。願い事を言わなくちゃ。妖精が、僕が三つの願い事を言うのを待っている。
「…いなくならないでください」
「え?」
「…消えたり…しないで…」
「…竜」
「…死んだり…しないでください」
竜はどんどん暗くなっていく夢の中で意識のかけらをかき集め、必死に耳を澄ませた。
「わかった。約束するよ」
遠くからエミルの声が柔らかく響いてきたのを、確かに聞いたと竜は思った。これでもう大丈夫。妖精が願いを叶えてくれる。エミルは消えたり死んだりしない。いなくなったりしない。心からの安堵のため息と共に、竜はより深い眠りに落ちていった。
エミルとカールが、まんざら冗談でもなさそうな顔で、もしかしてこの凶暴ともいえる食欲は、魔法の喪失の兆候だと言えないだろうか、などと議論し始めた横で、竜は三つ目のコーヒーチョコレートケーキをゆっくり楽しみながら、満足のため息をついた。
「美味しい…」
思わず唸った竜にマリーが微笑んだ。
「そんなに喜んでくれて、作った甲斐があったわ」
「シェフになろうとか思わなかったんですか?パティシエとか」
決してお世辞ではなくそう訊くと、マリーは笑顔でくるりと目を回してみせた。
「まあありがとう!そうね、お料理は昔から好きだったけど、でも絵の方がもっと好きだったから」
竜は勝手口のそばのキャビネットに載せてある二つのキャンバスに、心からの称賛の眼差しを向けた。
一つはライラと竜の絵で、向かいあっているふたりの間にきらきら光る水滴が光を反射させながら浮かんでいる。一昨日、竜がライラを相手に、できるようになったばかりの水を出したり消したりする魔法をやっていたシーンだ。竜は「ほら!」と言っているようなわくわくした顔をしていて、ライラは大きな黒い瞳を輝かせて、楽しそうににこにこしている。
もう一つはエミルと竜の絵だった。果樹園の木戸に並んで寄り掛かった二人が楽しそうに何か話している。光の感じから、午後の時間だとわかる。もちろん絵だから、何の動きもないはずなのだけれど、果樹園の木々をわたる緑の風が確かに感じられ、木々の葉擦れの音が聞こえる。エミルと竜の髪が微かに揺れているように見える。
「…すごい…」
竜は目を細めた。絵の中の空間にふうっと吸い寄せられる。さらさらという葉擦れの音に混じって、エミルと自分の笑い声が聞こえてくるようだ。ずっと続いて欲しい幸せな時間がそこにある。
こんなふうに絵が描けたらなあ、と竜は心から思った。こんなふうに描けたら、描いている間中どんな幸せを感じることができるんだろう。
「ところで竜、」
エミルと話していたカールがこちらを向いた。
「そろそろ道具のことを説明しておきたいと思うんだけど、今夜これからどうかな」
マリーが呆れた顔をして言う。
「こんなに食べた後で?そんなことしないでゆっくり休む方がいいわ」
「大丈夫だよ。何も飛んだり跳ねたりするわけじゃないんだから」
「大丈夫です。腹八分ですから」
カールに続けて竜が言ったので、マリーは目を丸くし、カールとエミルは顔を見合わせた。
「昨日の朝もこうだったんですよ。ピエールのところでびっくりするほど食べた後で、腹八分だ、って」
「うーん…スティーブンにもう一度兆候のことを詳しく訊いた方がいいんじゃないかねえ」
「そうしましょう」
冗談とも本気ともつかぬ調子で言う二人に、竜はちょっと口を尖らせた。
「兆候なんかじゃありません。確かに、自分でもいつもよりたくさん食べてるのはわかってますけど、でもそれはすごく美味しいからで…。それに育ち盛りですし、魔法で普段は使わない力を使うから、いつもよりももっとエネルギーの補給が必要なだけです」
「でもこれだけ食べても満腹じゃないんだろう?」
エミルが真面目くさって訊く。
「お腹いっぱいで動けない、ってほどじゃありませんけど、でも気持ちよくいっぱい、っていうか、それのちょっと手前っていう感じです」
負けずに真面目に竜が答えると、カールが笑い出した。
「まあ、育ち盛りの若い食欲、ということなのだろうね、きっと。それじゃ、竜が大丈夫なようなら、食べ終わったら書斎へ行こう。エミル、お前もね」
「はい」
エミルと竜の声が重なった。
数時間後、竜は自分の部屋の机に向かって、せっせとペンを走らせていた。書斎では、カールの話を聞いたり質問したりしながら、それをエミルにもらった古いノートにできるだけ速く殴り書きでメモした。今はそれをきちんとまとめて、できるだけ小さい字で手帳に書いているところだ。
書斎で聞いたことは、どれも重要なことばかりだった。けれど、竜の心に重く突き刺さったのは、カールが客人を向こうに送り返すための公式の魔法は安全ではないと考えていることだった。
「もちろん、魔法そのものが危険だということではないよ。シールドがないことが問題なんだ。こちらから向こうへの移動自体が身体に及ぼす影響というのはかなり大きいというのが私の持論だ。すぐに死を意味するような即効性のあるものではないにせよね。だから私の魔法にはシールドがあるんだ」
カールは静かに言った。
「私はもともと、母が向こうとの行き来をできるようにと思って、この発明の道に入ったわけだからね。だから、最初から安全面については時間をかけてありったけの情報を探し、塾考に塾考を重ねた。絶対に母の…使い手の安全を守れるものを作りたかったんだよ」
残念ながら間に合わなかったが。夕方果樹園でカールが言った言葉がもう一度聞こえたような気がした。
「公式の魔法にシールドがないのはどうしてなんですか?」
「政府が、シールドなしでも安全面に問題はないと考えているからだろうけれど、まあいちばんの理由は、難しいからだろうね」
エミルも頷く。
「僕の魔法で時間がかかっているのもそこだからね。シールドは難題中の難題なんだ」
「え?だって、マルギリスを使うんじゃないんですか?」
「シールドとしてじゃないよ。まるっきり別の用途で使っているんだけど、ふと、あれを歌わせればジリスとフュリスが作り出すシールドと同格のものになるって気づいて、竜が帰るときに臨時のバリアとして使えるんじゃないかと思っただけだ」
「いいひらめきだったよ」
カールが目を細める。竜も心からうなずいた。エミルがマルギリスのことに気づいてくれなかったら一体どうなっていたことか…。
少し開けた窓から入ってくる微風が時折カーテンを揺らす。手帳に書きこんでいた手を止めて、竜は唇を引き結んだ。
なんとしても、相手を自分の次元に引き入れる魔法を作り出して、健太を守らなくては。この世界の政府のことなんてよく知らないけれど、魔法発明学界の頂点にいたカールが安全じゃないというなら、安全じゃないに決まっていると竜は思った。どうやって新しい魔法を作り出したらいいのか、見当もつかないけれど、でもやるしかない。やらなきゃいけない。できなきゃいけないんだ。自分だけ記憶も安全も手に入れておいて、健太を危険な目に遭わせるなんて、そんなことは絶対にできない。なんとかしなきゃ。
背後からはライラの寝息、窓の外からは微かに虫の音が聞こえてくる。時計を見ると、もう11時半だった。そろそろ寝なくては。竜は書き忘れたことがないか、もう一度ノートと手帳を見直した。
道具にどうやってジリスとフュリスの混合物(字数を節約するために、竜はそれをカールリスと呼ぶことにした)をはめ込むかは、単純明快、間違おうとしても間違えられないくらい簡単だったので、大して書くことがなかった。カールに見せてもらった道具もとてもシンプルな作りだったので、絵の才能のからっきしない竜でも、簡単なわかりやすい図を描くことができた。
道具は、前にエミルが言っていた通り、子供の二つの手で握れるくらいの大きさで、どう見ても木でできているようにしか見えなかったが、パルリスという金属だとカールが説明してくれた。見た目だけでなく、手触りも重さも、よく磨き込まれた木工品のようで、何となく銀色のごつごつした重いものを想像していた竜は、とても意外に思った。旅先のお土産屋さんで、様々な木工品が並べてある中に置いても違和感がなさそうな物体だった。
両サイドが膨らんだ形になっていて、骨型の犬のおもちゃに似ている。ライラが喜んで前足で押さえて齧っているところが容易に想像できてしまう。気をつけないとね、と首をのばして興味深そうに道具に鼻を近づけたライラを見て、カールが笑って言った。
その道具は、事故の後カールがもう一度作ったものであって、事故で木っ端微塵になってしまった道具そのものではないけれど、エミルがそれを手に取ったとき、竜ははっとしてエミルの顔から目を逸らした。見てはいけない気がした。突き刺すような鋭い気持ちがエミルの周りに感じられた。
「…もっと重くて大きかったような気がする」
道具を持った手を握ったり開いたりしながら、エミルは呟いた。
「ジリスとフュリスが入っていない分軽いだろうね」
カールは口では実際的なことを言ったけれど、エミルを気遣っているのが竜にはよくわかった。
「…そうか。そうですね」
エミルは低い声でそう言ってまた少しの間道具を眺め、それから微笑して竜にそれを手渡してくれた。その時触れたエミルの手は冷たくて、微かに震えていた。
竜はあの時エミルの周りに感じられた突き刺すような空気を思い出して、胸の奥が痛くなった。まったくマコのやつ。エミルは真を責めるなと言ったけれど、竜はやはり心の中でちょっと真を責めずにはいられなかった。やっぱり一緒にカナダに行こうなんて言い出した真が悪いと思う。真がそんなことを言い出さなければあの事故は起こらなかったはずだ。
道具の作りについてのカールの説明を読み直した竜は、その他に書き留めたことにも目を走らせた。
道具を真と竜が一緒に使っても問題ないであろうこと。
その際に使うこちらの世界に属するものを忘れずに持って帰ること。忘れてしまった場合は、この手帳のページを破いて丸めて道具に入れることもできる(でも竜は絶対にそんなことはしたくなかった。果樹園の小石を持って帰るつもりだ)。
こっちに戻ってくる時どこに戻ってくるかは、道具に入れる物が魔法によって動かされる前にどこにあったかによって決まること。つまり、今回はスティーブンの書斎から公式の魔法によって向こうの世界に帰るわけだから、道具に入れる物が果樹園の小石であろうがなんであろうが、こっちに戻ってくる時はスティーブンの書斎に戻ってくることになる。
「『元いたところに戻る』魔法というのは、魔法で動かされる前にいたところに戻る、ということだからね。だから、例えば、魔法を使わずに、普通に手を使って本棚から机に持ってきた本を、『元いたところに戻る』魔法で本棚に戻すということはできないわけだ」
「なるほど…」
果樹園で拾った石を使えば果樹園に戻ってこられるのだと思っていた竜はちょっとがっかりしたけれど、あの超高速の汽車に乗ればスティーブンの書斎から四時間でここに帰ってこられるのだからいいや、と思い直した。それに、その次からは果樹園に帰ってこられるのだから。
「そうだ、あの車掌さんに顔を覚えられてないといいですけど…」
エミルがうーんと腕組みした。
「まあ、同じ車掌に当たるとは限らないけど…でも可能性は高いな。いつ頃戻ってくるんだ?」
とっくにそのことを考えてあった竜は、勢いこんで言った。
「キャンプは3泊4日なんです。向こうに戻るのが2日目の朝7時。キャンプの解散は4日目の朝10時で、昨年も一昨年も、家には午後2時頃には着いていたと思います。真は今水泳部の合宿に行ってますけど、僕たちがキャンプから戻る一日前に家に戻ることになってますから、僕が着く頃には家にいるはずです。だからすぐに何があったかを話して、ジリスとフュリスを道具に組み込んで、『ちょっと出かけてきます、夕飯には戻ります』って置き手紙をして、3時頃には発てるんじゃないかと思うので、それで56時間。56日後ってことになります」
カールが微笑んだ。
「もうすっかり計画を立てたんだね」
「56日か…。約2ヶ月。それくらいだったら、まだ顔を覚えてるかもしれないな。大抵の客人は数日の滞在だから、2ヶ月経ってまだいるっていうのは変に思われるかもしれないけど…。まあ、ないとは思うけど、もし何か訊かれたら、移住したんだって言えばいいよ」
竜は笑顔でうなずいた。
「そうですよね。だって、すぐに本当に移住するんですから」
そう。絶対に移住する。本当に移住するんだ。なんだか急にすごく嬉しくなって、竜は椅子から立ち上がると、眠っているライラのところへそっと近づいた。うんと静かに近づいたつもりだったけれど、ライラはすぐに目を開けて笑顔になり、横になったままベッドに尻尾をぱたぱたと打ちつけた。
「ごめんね。起こしちゃって」
ライラの大きなベッドに肘をついて寝転んだ竜は、ライラの白とライトグレイの首を撫でながら囁いた。
「…ねえライラ。僕、もうすぐ向こうに帰るけど、56日経ったら戻ってくるからね。僕のこと、覚えててくれるよね。その時は向こうの夕飯前に帰らなきゃいけないから、3日間くらいしかいられないけど、その後移住するから。移住ってなんのことか知ってる?こっちに戻って来て、ずーっといるんだよ。ずーっとだよ。もちろん途中でたまに向こうに帰ったりするけど…。ああ、それに、僕、魔法大学に行くから、大学に入った後は毎日は会えなくなっちゃうけど…。でもきっとちょくちょく帰ってくるからね。いっぱい遊ぼうね。いっぱい一緒にいようね」
顔を近づけると、にこにこ顔のライラは竜の鼻を大きなピンク色の舌でぺろんと舐めた。マリーが見たら顔を洗えと言われるところだけれど、これくらいならいいっていうことにしておこう、とライラをハグしながら竜は思った。
ライラのベッドはふかふかで気持ちがいい。中にはラミィという花の乾燥させたものが入っている。一昨日マリーに見せてもらった。白くてふわふわしたぼんぼりのような花だ。たんぽぽの綿毛によく似て、たくさんの小さい綿毛のような花が球形に集まっているのだけれど、たんぽぽより一回りくらい大きい。布団やベッドに入れても、その丸みのある形を優に1年間くらいは保つので、羽毛布団よりもさらに軽く、ふかふかするのだそうだ。ただ、温かさはやはり羽毛布団の方が上らしい。
夏のこととて、竜自身はまだラミィの布団を試したことはなかったけれど、いつか使える日が楽しみだった。きっと雲の中で眠っているような感じがするんだろうな…。ライラのベッドに頬をのせて竜は思った。ライラのベッドは本当に心地いい。ぺしゃんと潰れたりしないし、いつも軽くてふかふかふわふわしている。ほのかにハーブの香りもする。竜のベッドと同じ香りだ。
うとうとしながら、竜はまだ読み直している途中の手帳のことを思った。そうだ、まだ今日書斎で聞いた話で手帳に書いてないことがいくつかある。カールの魔法の道具の使い方に直接関係のないことなので、日記の方のページに書こうと思っていたことがいくつかあるのだ。なぜあの日事故が起こったのか。なぜ真が守られてエミルは守られなかったのか。魔法を封じ込める物質のこと…。起きていって、書かなくちゃ…。
「竜、」
そっと肩を揺すられて眠い目を開けた竜の目の前は、白とライトグレイの毛でできた壁だった。
「…?」
「ちゃんとベッドで寝ろ。風邪ひくぞ」
寝返りを打って上を見ると、屈み込んだエミルが苦笑していた。
「…あれ、寝ちゃった…。今何時ですか」
「1時ちょっと前だ」
エミルに助け起こされて、竜はまだ半分眠りながらごそごそと自分のベッドに入りこんだ。
「消すぞ」
「…はい…」
窓を閉める音がして、机の上の灯りが消された。部屋が暗くなる。廊下からの微かな明かりで、エミルのシルエットが夢の中のようにぼんやりと浮かんでいる。竜は眠りの中に引き込まれながら声を絞り出した。
「…エミル…」
「ん?」
「…なんでも…聞いてくれるんですよね…」
「いいよ。なんだい」
言わない方がいいかもしれない。でも言わなくちゃ。竜は眉をしかめた。ぼうっと光る姿が見える。妖精だ。願い事を言わなくちゃ。妖精が、僕が三つの願い事を言うのを待っている。
「…いなくならないでください」
「え?」
「…消えたり…しないで…」
「…竜」
「…死んだり…しないでください」
竜はどんどん暗くなっていく夢の中で意識のかけらをかき集め、必死に耳を澄ませた。
「わかった。約束するよ」
遠くからエミルの声が柔らかく響いてきたのを、確かに聞いたと竜は思った。これでもう大丈夫。妖精が願いを叶えてくれる。エミルは消えたり死んだりしない。いなくなったりしない。心からの安堵のため息と共に、竜はより深い眠りに落ちていった。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ゾンビ発生が台風並みの扱いで報道される中、ニートの俺は普通にゾンビ倒して普通に生活する
黄札
ホラー
朝、何気なくテレビを付けると流れる天気予報。お馴染みの花粉や紫外線情報も流してくれるのはありがたいことだが……ゾンビ発生注意報?……いやいや、それも普通よ。いつものこと。
だが、お気に入りのアニメを見ようとしたところ、母親から買い物に行ってくれという電話がかかってきた。
どうする俺? 今、ゾンビ発生してるんですけど? 注意報、発令されてるんですけど??
ニートである立場上、断れずしぶしぶ重い腰を上げ外へ出る事に──
家でアニメを見ていても、同人誌を売りに行っても、バイトへ出ても、ゾンビに襲われる主人公。
何で俺ばかりこんな目に……嘆きつつもだんだん耐性ができてくる。
しまいには、サバゲーフィールドにゾンビを放って遊んだり、ゾンビ災害ボランティアにまで参加する始末。
友人はゾンビをペットにし、効率よくゾンビを倒すためエアガンを改造する。
ゾンビのいることが日常となった世界で、当たり前のようにゾンビと戦う日常的ゾンビアクション。ノベルアッププラス、ツギクル、小説家になろうでも公開中。
表紙絵は姫嶋ヤシコさんからいただきました、
©2020黄札
昭和少年の貧乏ゆすり
末文治
現代文学
迫り来る「2025問題」ーー超高齢化社会。いろいろと複雑な事情が絡んでくるようです。
ここまで生きてきた・・・・・・こんな感慨に耽るとき、決まって遠い昔のこと、子供のころの情景が頭に浮かんできます。
戦後の昭和時代を「少年」として歩んできた事実。あれから何十年も過ぎているのに、その時々のシーンを昨日のことのように思い出せる不思議。
これは一風変わった少年記です。
団塊世代あたりの人たちに、その懐かしさを共鳴・共感してもらいたい。
令和をいく若い人には貧しさ豊かさの、今の時代との違いを嗅ぎ取ってもらえれば、の思いです。
美容師マリコのスピリチュアルな日常
三島永子
現代文学
亡き母から受け継いだ小さな美容室を経営するシングルマザーのマリコ。カットの腕前はイマイチだけれど、シャンプーはピカイチ。人気メニューNo.1はヘッドスパ。そんなマリコの店には裏メニューがあって、スペシャルヘッドスパをオーダーすると、施術中に亡くなった人と会話ができるという噂が…。
今日も、美容室マリコにはそんな噂を聞いたお客様がご来店。
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