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Chap.26
しおりを挟むリルを宙に浮かばせながら、魔法でそれをスケッチすることに竜が成功したのは正午ごろだった。その後、昼食前には、二つの魔法を同時に使うということにとにかく慣れるべく、簡単なことを少しだけやってみた。
魔法でリルの皮を剥きながら、手帳を宙にを浮かばせる。宙に浮かびながら(危なくないようにほんの10cmほど)、魔法で果樹園の木戸を開ける。空中にペンを浮かばせながら、魔法でリルの実を採る、などなど。まだ意識の空間を使わなくてはできないし、動きも少しギクシャクしてしまうが、少しずつ慣れてきた。
午後は、「歌わせる魔法」をやってみることに二人の意見は一致していた。
「さて、じゃあまずは、この小石くらいから始めるか」
例によって大きなりんごの木の下に座ったエミルが、向かい合って座る竜に小さな石を渡した。
「はい。それじゃあえーと…このリルの実を浮かばせながら、この小石を歌わせてみるっていうのでどうでしょう」
「いいね」
エミルはうなずいて、
「いいか、絶対に無理するなよ。途中で何かおかしいと思ったら、すぐに中止しろ。目眩とか、頭痛とか、息切れとか、動悸とか、急な倦怠感とか」
「はい。エミル、」
「ん?」
竜は頬を緩めて言わずにいられなかった。
「結構心配性ですよね」
エミルが苦笑する。
「誰のせいだと思ってる。竜がもうちょっと心配するタイプだったら、僕はこんなに心配しなくてすむんだぞ」
竜はえへっと笑った。
「すみません」
エミルは真面目な顔で竜を見た。
「本当に気を付けろ」
「はい」
竜も真面目にうなずいた。十分気をつけるつもりだった。魔法の喪失なんかが起きてしまったら、ここに帰ってこられない。魔法大学にも行かれない。エミルにもライラにもカールにもマリーにも二度と会えなくなってしまう。二度と。
薄青い空間に入る。光のボールを二つ作る。この過程は初めての時に比べてずいぶん速くできるようになってきた。一つ目のボールに小石が映っている。もう一つにリルの実。
やはり、どうしても二つのボールに全く同じ瞬間に働きかけることはできないので、まずリルの実を浮かばせた。そして次に小石を歌わせ始める。ピッコロのような音が聞こえ始め、実際の空間で目の前の草の上に置いた小石が振動しているのが見える。リルの実もちゃんと宙に浮いている。竜は心の中で小さくガッツポーズを作った。よし、できた!
小石の歌が終わるまで待ってから、竜はリルの実を右の手のひらに落とし、大きく息をついた。肩に力が入っていたのがわかる。
「大丈夫か」
エミルが気掛かりそうに尋ねた。
「午前中の…普通の魔法より、力を使った感じがします」
「そうだろうな。『歌わせる』魔法だからな」
「あと、なんていうか、両方の魔法を同じように続けるのに…バランスをとるのに…すごく力が入っちゃって。二つのボールでジャグリングをやっていたのが、一方が全然違うもの、例えば南瓜か何かに変わったみたいな感じです。バランスがすごく悪くて、ものすごく緊張して集中していないと両方一緒に続けられないような」
言葉を探しながら説明して、竜は凝りをほぐすように首を回した。エミルがちょっと眉を寄せて腕組みをする。
「まあ、『歌わせる』のと物を浮かばせるんじゃ、使う集中力のレベルが全然違うからな。二つの魔法を一緒にやるときは、行う魔法のバランスっていうのも難しさに繋がるのかもしれない」
「なるほど…。マルギリスを歌わせる魔法と、相手を自分の次元に引き込む魔法のバランスって、どうなんでしょう」
「それは…わからないな。まだ存在しない魔法だから。でも大まかに分類するなら、『歌わせる』と同じようなカテゴリーに入るだろうね。だから、バランスとしては多分問題ないと思う。でも、それだけ使う力も多くなる」
竜はうなずいた。
「使う力の量だけなら、まだまだいけると思います。バランスを取るために、次は両方とも歌わせる魔法にしてみたらどうでしょう。例えば、この小石とレウリスとか」
エミルは心配そうに眉を潜めた。
「歌わせる魔法をダブルでか…」
ちょっと考えていたが、
「よし、やってみよう」
「はい!」
「まず僕がやってみるよ」
「え?」
「どんな風だか、ちょっとやってみるから」
言いながら、持ってきたリュックサックからレウリスの箱を取り出す。
「もちろん、こういうのは個人差があるからあんまり意味がないかもしれないけど、一応毒見役だ」
そんなことを言われて、竜はにわかに心配になった。
「で、でも…。もし、魔法の喪失が起こったら…」
「竜に起こるより僕に起こる方がいいだろ」
「そんな」
エミルは笑って片目をつぶった。
「大丈夫だよ。一度やっただけで喪失が起こるとは思えないし。兆候が出たら二度とやらなければいい。さっきも言ったようにこういうことには個人差があるけど、でも僕に兆候が出なかったら、竜も多分大丈夫だと思っていいと思う。じゃ、やるぞ」
あぐらをかいたエミルは目の前の草の上にレウリスとさっきの小石を置き、淡いグリーンの意識の空間に入ったと思う間もなく二つの光のボールを作り上げ、魔法を始めた。その流れるような素早さに竜は目を見張った。昼前に初めてやった時は、もうずっと魔法をやるのに意識の空間だの光の球だのを使っていなかったからやりにくい、と苦労していたのに。さすがだ。
レウリスと小石がぶれて見える。相変わらずのエミルの高い確かな集中力が感じられる。その力の美しさに竜は身体中がぞくぞくした。すごい。エミルは軽く目を閉じてリラックスした表情で座っている。難しさは感じていないようだ。
やがてレウリスがぼろぼろと崩れた。小石はまだ振動している。エミルが目を開けて竜を見た。
「大丈夫そうだな。思ったほど力は要らないし、注意していたけど今のところ身体にも何の影響も感じない」
少しして小石の振動が止まった。
「やれやれ。ひどいのは『歌』を二つ同時に聞かなきゃいけないことだな。両方とも甲高い音で参るよ。しかも調が違う。不協和音もいいとこだ」
レウリスの残骸を消しながらエミルがぼやいた。竜はくすっと笑い、膝を抱えてしみじみと言った。
「…エミルが魔法をやるときの集中力って、美しい、って感じなんです。集中力が美しいなんてちょっと変な言い方かもしれないけど、でもいつもそう思います。強くて確かで、美しい…。どうやったらそんなふうにできるんだろう」
エミルは照れたように笑った。
「美しい…ね。そんな風に言われたのは初めてだな」
「そうですか?」
竜は意外に思った。こんなに美しいのに。エミルは竜を見て微笑んだ。
「そんなことまで感じられる人間は、あんまりいないと思うよ」
「…そうなんですか?魔法を使う人はみんなこういうことを感じるのかと思ってました。他の人が魔法をやる時の、なんていうのか、やり方っていうか、力の動きみたいなものを」
「いや、僕のこれまでの経験によると、多分、意識の空間を使わない人は、そういうことは全然感じないんだと思う。そして、意識の空間を使う人だって全員がそういうことを感じるわけじゃないと思うよ」
何かを思い出すような目になり、
「そういえば、真が言ってたことがある。竜は繊細で鋭いアンテナを持ってる、って」
「え」
「もちろん、魔法のことじゃなくてね。確か、チェロとピアノで遊んでた時だったんじゃないかな。ピアノの練習の話になったんだ。で、真曰く、竜は先生に直されると、すぐにその通りに弾ける。抽象的なことを言われても、先生の言わんとすることを正しく理解して、直ちにその通りに弾ける。水泳でも同じ。直されるとすぐその通りに泳げて、コーチは竜のことを耳がいいって言っている」
エミルは竜を見てにこりとした。
「今はまだピアノも水泳も自分の方が辛うじて上だけど、すぐに竜の方が上手くなるし速くなる。竜は自分にはない繊細で鋭いアンテナを持ってるから」
「……」
竜はびっくりした。真がそんなことを言ってたなんて。
「それを聞いた時は、ただ、いい姉弟関係なんだなと思っただけだったけど、今はちょっと感心してる。真は竜のことちゃんと見てるんだなって」
竜は照れくさいのと嬉しいのとで頬が熱くなった。本人のいないところで悪口を言うのは陰口だけど、いいことを言うのはなんていうんだろう?
「やあ、やってるね」
5時ごろ、カールが果樹園にやってきた。音大から戻ってきたばかりらしく、鞄とヴァイオリンケースを持っている。
「お帰りなさい」
エミルと竜の声が重なる。
「ただいま。どんな塩梅だい」
「はい。今、レウリスを歌わせながら物を作り出す練習をしているところです」
竜が答えると、カールは何か言おうとして口を開けたまま、固まってしまった。その様子を見てエミルがぷっと吹き出した。カールは眼鏡の奥の目を数回瞬きさせて、
「……レウリスを、歌わせながら、物を作り出す、と言ったのかい?」
「はい」
竜の答えを聞いたカールは、確認するようにエミルを見た。エミルがおかしそうに頬を緩めたまま頷く。
「レウリスを歌わせながら、同時に、物を作り出す魔法を行う練習をしているんです」
「…じゃ、二つの魔法を同時にできるようになったんだね?」
「はい」
「ちょうど正午頃にできるようになりました」
エミルが付け加える。
「そうか…」
カールは感心したように大きく息をつくと、眉を上げてにやりとエミルを見やった。
「今朝私が何と言ったかね、エミル。竜には十分な力があると言っただろう」
「はい、お父さん。仰るとおりです」
おどけて言って、エミルは片手を胸に当てお辞儀をしてみせた。が、すぐに真面目な口調に戻り、
「今朝、スティーブンに電話して、魔法の喪失について訊いたんです。無理をせず、合間に十分な休息をとって、魔法の喪失の前に身体に起こる兆候に気をつけながら練習しています」
カールも真面目な顔をしてうなずいた。
「それがいい」
そして竜を見て、
「十分気をつけなくてはいけないよ。焦ってはいけない。練習はゆっくりと慎重に。健太君のためだからといって無理をしてはいけないよ」
しみじみと言ったので、エミルが目を丸くした。エミルと目が合うと、カールはちょっと笑って、
「今は、今朝のお前の心配がわかるよ、エミル。こんな速度で上達するなんて、信じがたいことだ。私でさえ心配になってしまう」
エミルが微笑んだ。
「そうでしょう。僕もまだ時々我と我が目が信じられなくなります」
「マルギリスを歌わせる方はどうなったんだい」
「完璧です。何の問題もありません」
エミルが言うと、カールは竜を見た。竜はうなずいた。
「昨日よりもずっと簡単にできるようになりました」
「そうか…」
カールは考え深げに竜を見つめたが、すぐににこりとして、
「そうそう、お土産を買ってきたよ。今日は竜のお祝いだからと思って」
鞄から、小さな紙包を取り出して、竜に渡した。香ばしい香り。竜は思わず歓声を上げた。
「ピエールさんのクッキー!」
「大のお気に入りだと言っていたからね」
「ありがとうございます!」
午後の光がきらきらする緑の草の上にカールも腰を下ろし、しばし休憩となった。
「ピエールがよろしくと言っていたよ。また会いたいって」
「ぜひまたお邪魔したいです」
チョコレートクッキーを食べながら、竜は幸せで幸せで心の底からため息が出た。おいしい。ほっぺたを膨らませて幸せそうにもぐもぐやっているその様子を見て、エミルとカールが楽しそうに笑う。
「こういう時は年相応の顔なんだなあ」
カールが目を細めて言った。
「いつもはあんなに大人びているのに」
竜は赤くなった。ちょっとはしたなかった。
「まるで昔のお前を見ているようだ」
カールが言うと、バタークッキーをかじりながらエミルが笑った。
「僕は竜ほど才能があったわけじゃありませんでしたけどね」
「14歳でフリアに入学したんだ。大したものだよ。本当はね、」
カールは竜を見て、
「12歳の時に入学できたんだ。でも、エミルはまだ大学には行きたくないと言ってね」
「そうだったんですか」
真がいたからかな…。そう思いながらエミルを見ると、エミルはちょっと片目をつぶってみせた。
「まあ、まだ12歳じゃいくら何でも少し早すぎるかもしれないとマリーも私も思ったから、本人が行きたくなるまで待つことにしたんだよ」
早すぎる…。竜は少し心配になった。
「どうして早すぎると思ったんですか?」
「頭脳的にということではないよ。18歳以上の大きな子供たちに混じって大学生活を送るということが、精神的に少し大変かもしれないなと思ったんだ」
「ホームシックになっちゃいますよね」
「いや、それは…」
言いさして、カールは竜を見つめた。
「竜はフリアに行きたいのかい?」
「はい」
「そうか…」
カールは頷くと、あとは何も言わずにコーヒークッキーを取ってかじった。竜は恐る恐る訊いてみた。
「…早すぎると思いますか?」
「ご両親はきっと、そう思うだろうね」
キャラメルとナッツのクッキーをかじりながら、竜はため息をついた。それはそうだろうなあ。
「エミルが12歳だった時、もしエミルがフリアに行きたいって言ったら、行かせたと思いますか?」
カールは微笑した。
「それは本人が行きたいというのなら行かせただろうね。その頃は私もフリアで教えていたから、エミルはここから毎日私と一緒に通えたわけだし」
「ああ、そうか…。そうですよね」
忘れていた。例の事故が起きるまでは、カールはフリア魔法大学で研究をしながら教えていたんだった。それじゃエミルはホームシックの心配なんかもなかったわけなんだ。
「竜がもし来年にでもフリアに入学したいというのなら、エミルもいるし、ここには私たちもいるから、竜は何も心配することはないよ。でも、ご両親はこちらに来ることができないのだし、こちらの世界のことを何一つ知らないのだから、それはとても心配するだろうし、賛成してもらうのは難しいだろうね」
カールが静かに言った。
「はい…」
魔法の練習に夢中になっている間は忘れていたその問題を突きつけられて、竜は心が重くなった。大体、心配するとか、賛成してもらうとか以前に、こちらの世界のことを信じてくれるだろうか。向こうの世界では魔法が使えないらしいから、魔法を使ってみせて説得することもできないんだし。いくら真と二人で色々言ったところで…。いや、カールの魔法がある!両親の目の前でカールの魔法を使い、こっちに戻ってきて、ちょっと時間を過ごしてまた向こうに帰る。マリーから写真を借りていって両親に見せたっていい…
「こちらの世界のことを信じてもらうことはできるかもしれないけど、それと竜がフリアに行くのを許してもらうのとは別問題だよ」
カールが言ったので、竜は考えていたことを聞かれてしまったようでどきっとした。
「フリアに行く間はこちらに移住することになる。ということはつまり、向こうの世界では行方不明ということになるのだし…」
カールは食べかけのコーヒークッキーを手にしたままため息をついた。
「母はね、家族のことをよく話していたよ。両親と、姉と妹がいたそうだ。突然自分がいなくなって、どんなに心配しているかと…。まあ竜の場合は、少なくともご両親にとっては行方不明ということにはならないのだし、いつでも会いに帰れるのだから…」
エミルが遮った。
「ちょっと待ってください。母って、お父さんのお母さんのことですか?」
カールがあっと言って苦笑して、軽く自分の額を叩いた。
「ああ、口が滑ってしまったな」
「お父さんのお母さんは、向こうの世界の人だったんですか?!」
目を丸くしているエミルに、カールはうなずいた。
「そう。だから私は、向こうの世界から来た魔法の使い手が二つの世界を行き来できる魔法を作ったんだよ。残念ながら間に合わなかったが」
そしてカールは驚愕の表情のエミルに、昨日の朝竜にした話をした。
「どうして…」
エミルはまだ信じられないというように首を振った。
「どうして隠してたんですか」
カールは微笑んだ。
「隠していたわけじゃない。訊かれなかったから話さなかっただけだ。これは、訊かれた場合にだけ話す類のことだからね」
そう言ってカールは竜をちらりと見てうなずいた。
「竜には昨日の朝話した。なぜ向こうの人間のための魔法を作ったのかと訊かれたからね。竜がお前にも話していいかと訊いたので、もし訊かれたら話してもいいと言ったんだよ。竜はそれを守ってくれていたようなのに、私の口が滑ってしまった」
カールは愉快そうに笑った。
「僕も今日、うっかり言ってしまうところだったんです」
竜は白状した。
「こっちに何年も暮らした後で向こうに帰りたくなったらっていう話をしていた時、カールのお母さんのことを思い出して。向こうに帰って、どうしただろうなあって思って…」
カールはうなずいた。
「私もそのことをよく考えたものだよ。若い女の子が、一年ほど行方不明になり、中年の女性になって現れる。しかもおそらく記憶を失って。一体どうやって向こうの生活に戻ったのか…辛い目にあっていないだろうかと…」
遠くを見るようにして言ったカールは悲しそうで、竜は胸が痛んだ。
「お母さんは知ってるんですか?」
エミルが訊く。
「もちろんだよ。マリーの他にはマーカスにも話した。一体なんだって向こうの人間しか使えない魔法を発明したいんだ、と追求されたからね。そしてあとは竜とお前が知っているというわけだ」
その時、エミルの隣にくっついてバタークッキーをもらっていたライラが、はっと顔を上げ、にこにこして尻尾を振り出した。果樹園の木戸の方を見つめている。三人は一様にそちらを振り返ったけれど、誰もいない。竜は思わずぞっとした。もしかして、ライラには幽霊が見えるのかな?今マーカスさんの話をしていたから、もしかして、マーカスさんがここに来たとか…。
すると、カールがぴくりと何かに反応したように体を動かした。そして、ちょっと失礼、というように二人に人差し指を立ててみせて、
「ああ、果樹園にいるよ。…うん、ちょっと二人の様子を見にね」
マリーからの魔法電話だ。竜は胸を撫で下ろした。それでライラが木戸の方、つまり家の方を見て尻尾を振っていたんだ、きっと。幽霊なんているはずがない。
「わかった、すぐ行くよ。…そうかい?じゃ、それくらいに行こう」
カールは二人を見て、
「あと30分くらいで食事の支度ができるそうだよ。その頃に帰ろう」
「手伝わなくていいでしょうか」
竜が言うと、エミルが笑って、
「寓話に出てきそうな良い子だなあ、竜は」
「そんなことないです」
家では、夕食前に手伝いもせずキッチンから見える居間でダラダラしていると、さっさと来て手伝え、何も言われなくても自分から来て手伝うのが当然だ、と母さんに怒られるので、ついこういう反応をしてしまうだけなのだ。
カールがにっこりした。
「なんだかサプライズがあるようだよ。だからまだ来ないでほしいらしい」
エミルがははあという顔をして、
「竜の絵じゃないかな」
「多分ね」
カールが片目をつぶる。
「久しぶりに、ずいぶん熱中して描いていたからね。仕上がりを見るのが楽しみだ」
竜はなんだかくすぐったいような気持ちになったが、
「さて、あと30分ある。練習するかい」
カールの言葉に、はっとして姿勢を正した。
「はい!」
チョコレートクッキーを手に取ったところだったエミルが、眉をしかめた。
「休憩のはずだっただろう」
竜はにこっと笑ってみせた。
「もう十分休みました」
「本当に大丈夫か。疲れてないか」
「大丈夫です」
エミルはちょっと腹立たしそうにカールを見やったが、諦めたようにため息をついた。
「わかった。じゃあさっきの続きからやろう」
チョコレートクッキーを頬張って、リュックサックからレウリスの箱を取り出し、レウリスを摘み出して竜に渡す。そして、
「僕と同じのでいいだろう」
と言いながら、草の上に置いてあった焦げ茶色のアルマンサのブレスレットを竜にほいっと放って寄越した。
「なんだいそれは」
カールが眼鏡に手をやる。
「僕が昔作ったアルマンサのブレスレットですよ。竜が見たいって言うんで、出してきたんです」
「ああ…」
カールは何かを思い出すような目つきをした。
「確か四年生の時だったね」
エミルがちょっと驚いたように眉を上げた。
「よく覚えてますね」
「そりゃあね」
カールは微笑んだ。眼鏡の奥の細めた目を見て、竜はなんだか温かいものを感じた。カールはエミルを誇らしく思っている。小さい頃のエミルも、大人になったエミルも。
「さっきも言ったけど、バランスは問題ないと思う。僕はほぼ同じくらいに感じた。ただ、両方持続させるのがちょっと疲れるかな。結構力を使うと思うから、途中でちょっとまずいと思ったらすぐやめた方がいい。ぎりぎりまで力を出し切ってしまわないこと。くれぐれも兆候に気をつけろ」
「はい」
竜はしっかりうなずいて、薄青い意識の空間に入った。
まずアルマンサのブレスレットを手に取り、細心の注意を払って眺めた。
綺麗な焦げ茶色で、太さは腕時計ベルトより少し細いくらい。何本もの細いアルマンサを編み上げたようになっている。肌触りがよくて柔らかい。腕時計ベルトよりもずいぶん薄い革だ。
目からの情報も指先からの情報も、全てを一つの光のボールの中に写し取る。
もう一つのボールにはレウリスが映っている。竜はまずレウリスを歌わせ始めた。周囲が、竜にだけ聞こえる高いよく響くグロッケンのような音で満ちあふれる。
レウリスの映ったボールに意識を集中したまま、もう一つのボールに映るアルマンサのブレスレットにも意識を向け始める。二つだけ投げていたジャグリングボールを三つにするときのような感覚だ。流れを止めずに、意識を、力を、分割する。
頭のどこかが熱くなるような感じがする。
竜は目を閉じた。実際の世界の映像がシャットアウトされる。
レウリスの歌が続いていることを意識しつつ、光のボールの中のアルマンサの全ての情報に、同時に、満遍なく、丁寧に集中していく。
腕時計ベルトを作った時は、目を閉じていてもベルトができていくのがはっきりとわかったけれど、今はレウリスの歌が邪魔になって、ブレスレットができていく過程を感じるのが難しい。
もっとはっきり感じたくて、竜は目を凝らすように力を込めた。
頭のどこかがさらに熱くなる。
レウリスの歌は続いている。ブレスレットの存在が感じられる。
もうちょっとだ。
水泳のレースのラストスパートの時のように、竜は自分の中でアクセルを踏み込んだ。
レウリスの歌が止んだ。
少し遅れて、ブレスレットができたという手応えがあった。
竜は大きく息をついて目を開けた。目の前の草の上に、焦げ茶色のアルマンサのブレスレットがちゃんとできていた。そのそばに崩れたレウリスがある。それを消してから、竜は顔を上げた。
カールは感嘆の笑みを浮かべていたが、エミルは眉を寄せていた。
「力を出し切るなって言っただろう」
竜は首を縮めた。やっぱりエミルにはわかってしまう。
「ごめんなさい」
「大丈夫か」
「…ちょっときつかったです」
正直にそう言って息をついてから、竜は自分の身体の感覚を探ってみた。
「疲れましたけど、でも、異常な倦怠感とか…そういう感じはしません。昨日マルギリスを歌わせた時と同じような、水泳の練習の後みたいな疲れ方です。やっている途中で、頭のどこかが熱くなる感じは何回かありましたけど、でも力を入れた時だけで、しばらくしたら消えたから、魔法の喪失の兆候じゃないと思います。目眩とか気分の悪さとか痛みとかもありません」
「…そうか、それならいいけど」
まだ心配そうに眉を寄せているエミルに、竜は二つのブレスレットを手渡した。
「こっちが今作った方。こっちがオリジナルです」
二つを見比べたエミルの口元がようやくほころんだ。
「完璧。いかがですか、ブリュートナー先生」
カールに二つのブレスレットを差し出す。微笑んで二人のやりとりを見ていたカールは、
「どれどれ」
と言ってブレスレットを受け取り、仔細に眺めた。
「素晴らしい。レウリスを歌わせながらこれをやってのけるとはね。今すぐにでもトップの成績でフリアに入学できる。」
竜に称賛の笑顔を向けてから、エミルを見やった。
「エミル、さっき言っていたことから推察すると、お前もレウリスを歌わせながら物を作り出す魔法をやったのかい」
「ええ。僕が試してからの方が安心してできますから」
カールは感心したというように腕組みをしてうなずいた。
「すごいじゃないか。大したものだ」
エミルは眉を上げて微笑んだ。
「どうしちゃったんですか、今日は。なんだかずいぶん褒めてくれますね」
カールは少し恥ずかしそうに笑った。
「いや、昔、お前が竜くらいだった頃に、もっと褒めてあげればよかったと思ってね。だから代わりに今褒めてるんだ」
「それはどうもありがとうございます」
おどけた顔をして言ったエミルの幸せな気持ちを感じて、竜は心が温かくなった。
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