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Chap.25
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「で、偉大なる魔法の使い手の御命令は何かな」
真上から照りつける太陽の下、果樹園を出て昼食をとりに家に向かって歩きながら、エミルが言った。
「え?」
「負けた方が勝った方のいうことをなんでも聞くって言っただろう」
「ああ…」
竜はうーんと宙を見つめて考えた。
「なんでもいいんですか」
「もちろん」
「本当になんでもいいんですか」
わざと「本当に」に力を込めて言うと、エミルが眉を上げて笑う。
「いいよ、約束したんだから。なんだい」
「…まだ考え中です」
竜はにこりとして言った。
一番の願いは、エミルに例の実験をやめてもらうことだったけれど、そんなことをこんな状況で言うべきでないのは竜にもわかっていた。
菜園のところまでくると、二人の少し先を歩いていたライラが、ふいっと鼻先を高く上げて、うぉん!と言った。勝手口のドアが開いて、マリーが顔を出す。
「ちょうどよかったわ!健太君から電話よ!」
竜が急いで行くと、マリーは受話器を渡してくれながら微笑んだ。
「帰ってきたのをライラが教えてくれてよかったわ。どこにいるかわからなかったから、後でこっちから電話しますって切ってしまうところだったの」
竜は、隣にぴったりくっついてにこにこしているライラの大きな顔をごしごし撫でた。
「ライラ、お利口さんだね。ありがとう」
ライラの真っ黒な目がきらきら光ってどういたしましてと言っている。168年後だなんて冗談じゃない。絶対にすぐ帰ってこなくちゃ、と竜は決意を新たにした。
「健太?」
「竜。ごめん、練習中だった?」
「ううん、休憩中だよ。健太も?」
「うん…ドクターストップ中」
「えっ」
「さっきバスケの試合中に急にくらくらして、立っていられなくなっちゃって。対戦相手のコーチがお医者さんでさ。診てくれたんだけど、過労だって言われて、今日は安静にしてろってドクターストップ。さっき車で送ってもらって帰ってきたんだ」
竜は健太に聞こえないようにそっとため息をついた。今朝スティーブンが言っていた通りになってしまった。このままでは身体を壊してしまうって。
「そうだったんだ…」
「その人、リカルドっていうんだけど、スティーブンとも知り合いで…。だからスティーブンの家がどこかも知ってて送ってくれたんだけど、出かけるところだったスティーブンとちょうど門のところで会って…。『君がついていながら何してるんだ』とか、もちろん冗談っぽくだけどスティーブンに言ったりしてて、僕、スティーブンに悪くって…」
「今、スティーブンのとこなの?」
「うん。書斎のソファで寝かせてもらってる。最近ここが僕の部屋みたいになっちゃって」
健太はちょっと笑った。
「まだくらくらするの?」
「ううん。もう大丈夫。でも多分今夜は魔法の練習は無理かな。スティーブンに、今夜はやめておいた方がいいって言われちゃったから。それに…」
健太はため息をついて、
「悔しいけど、もしかして、魔法は諦めたほうがいいんじゃないかって考えてるんだ。やっぱりバスケと魔法の両方はできない。ここでのことは覚えていたいけど、でも思い切りバスケがやりたい。両方できないんだったら…どっちかを選ばなきゃいけないんだったら、僕、やっぱり全力でバスケがやりたいって思う。例え記憶が残らないとしても」
竜は唇を噛んだ。言ってしまおうか。どうしようか。
「あのさ、健太。その…」
だめだ。期待させてその期待を裏切ることになったら…。
「…日記、つけてる?」
「日記?…ああ、向こうに帰った後で読めるように?」
「そう。僕も昨日書き始めたんだ」
「だって竜は魔法で覚えてられるんでしょ?」
「まだ確実にできるわけじゃないから。覚えてられなかったときのために、ちゃんとこっちで経験したことを全部書いておこうと思って。ポケットサイズの手帳に書いてるんだ」
「そうか…そうだね。いいアイディアだね。僕も書こう。今日からは魔法の練習をやらない分時間があるし。でも…」
健太はくすっと笑った。
「向こうに帰ってからその日記見たら、一体なんだろうと思うだろうね。自分が書いたってことも覚えてないんだから」
「そうだね…」
竜も想像してみた。ポケットに覚えのない手帳。書いた覚えのない奇想天外なことが、自分の字でぎっしり書かれている。
「きっと、頭がおかしくなったんだと思うだろうな」
「そうだね」
そう言って健太はため息をついた。
「忘れないでいられたらいいのに…」
そしてはっとしたように、
「でも、仕方ないよね」
と明るい口調で言った。
「それに、竜は覚えてられるかもしれないんだもの。覚えてたらさ、僕に、手帳に書いてあることは本当に起きたことだってちゃんと言ってね」
「うん。健太がどんなに『そんなはずない』って言っても、絶対に本当に起きたことだったんだって言い張るよ。頭がおかしくなったんだって思われて、救急車呼ばれちゃってもね」
健太と一緒に笑いながら、竜は胸がちくりと痛むのを感じた。
しばらく話した後で受話器を置いた竜は、ぴったりくっついて座って待っていたライラの首を撫でながら、しばし考え込んだ。
健太に、僕が健太の記憶も守れるかもしれないって言って、何が悪いんだろう?期待させおいて、それを裏切ってしまったらよくない、って思ったからさっきは話さなかったけど、でも、考えてみれば、もし健太の記憶を守れなかった場合、健太は期待させられていたことも忘れてしまうんだから、そのことで健太が辛い思いをすることはないはずだ。むしろ、僕が健太の記憶を守れるって言うことで、健太は思う存分バスケを楽しむことができるんじゃないかな。
じゃあ脚の魔法のことは?守ってあげられるかもしれないって話した方がいいかな?話したら、健太はもっと楽しい気持ちでここでの残り数日間を過ごせるんじゃないかな。
「竜?」
キッチンの戸口からマリーが顔を覗かせた。
「時間があったら、ちょっとサンルームに来ない?絵を出してみたから」
エミルが言っていた真の絵のことだろう。
「はい」
竜が戸口に向かうと、ライラも当然という顔でついてくる。竜はふと心配になった。
「マリー」
もうサンルームの方へ姿を消したマリーに呼ばわる。
「ライラも行って大丈夫ですか」
ライラの尻尾の破壊力はすごい。絵がイーゼルに載せてあったりしたら、大変なことになる。
「大丈夫よ。絵はみんなキャビネットの上に載せてあるから」
サンルームからマリーの答えが返ってきた。
ライラと一緒に幅の広い薄暗い廊下を通り、広々とした明るいサンルームに入る。竜はこの部屋がとても気に入っていた。すぐ外にあるテラスとつながっていて、テラスの上は葡萄棚になっている。ガラス越しに見える葡萄の葉の緑が日を浴びてとても綺麗だ。
細かいことを言うと、これは葡萄ではなく、葡萄の仲間のカルーサという果物だそうで、エミル曰く「酸っぱくてとてもじゃないけど食べられない」のだそうだ。
「毎年母がカルーサ酒を作るんだ。で、小さい時、カゴに山盛りのカルーサをキッチンで見つけて、葡萄だと思って1粒食べちゃったんだな」
そう言ってエミルは綺麗な顔を思い切りしかめてみせた。
「すごい衝撃だった。一緒にいた兄達は僕の顔を見て涙が出るほど大笑い。いまだに家族が集まると必ずと言っていいほどこの話が出るんだ」
竜はその話を聞いた時のことを思い出して頬を緩めたまま、部屋の奥の方にある大きなキャビネットに目をやった。いくつかの絵が壁に立てかけて置いてある。
左側から、壁にかける大きめのカレンダーくらいの大きさの絵が五枚、続いてそれの二倍くらいの大きさの絵が三枚、壁の幅いっぱいの作りつけのキャビネットの上に並んでいた。
最初の五枚は真の肖像画だった。微笑んでいる真。生真面目な顔の真。眉を寄せて真剣な顔をしている真。楽しそうに笑っている真。何かを考えているような真。視線をこちらへ向けていたり、誰かあるいは何かを見ていたり、宙を眺めていたり、動きがあったり、静止していたり、色調も雰囲気もそれぞれ違っているけれど、どれも見事に「本当の」真だった。実物よりよく見えるとか、可愛く描いてあるとかいうのとは違い、どの絵にも真の一番いいところが結集されている。
「すごい…」
竜は思わず呟いた。マリーの描いた真を眺めていると、真に対する想いが増すような気がする。真が家族でよかった。これからもずっと仲のいい姉弟でいたい。何があっても僕は絶対に真の味方でいよう。そんな想いが竜の心の中で交差した。
大きな絵の一枚目には真とエミルとカールが描かれていた。明らかに真が何かの魔法を練習していて、それをエミルとカールが見ているところだ。場所はテラスの前の庭。明るい日差しに照らされて、赤や黄色に染まった葉が見える。意識を集中している真。それをいかにも師匠という雰囲気で腕組みをして見ているカール。その斜め横で真に負けないくらい真剣な顔をして見つめているエミル。セリフをつけるとしたら、「よし、その調子」と「頑張れ!」だなと竜は思って微笑んだ。その場の雰囲気がとてもよく伝わってくる。
二枚目は、夜の果樹園だった。竜は思わず息を飲んだ。これは…これは、まさかあの場面?月明かりに照らされて木々の間に立っている、真剣な顔をした真とエミル。エミルは僅かにうなずいているように見える。「じゃ、行ってくる」「うん」という言葉が聞こえてくるようだ。でもそんなはずはない。マリーはその場にいなかったのだし…。けれど竜にはどうしてもこれがあの夜の二人のように思えてならなかった。
三枚目は、あの砂浜だった。エミルのデスクにあったあの写真と同じ、美しい夕焼けの砂浜に並んで座っているエミルと真。写真とは違って、二人はこちらを振り向いて笑ってはいない。エミルは真を見つめ、真もエミルを見つめ、二人の横顔は僅かに微笑んでいる。
竜が「アイラブユーとか言わなかったの?」とふざけて訊いたとき、真は言わなかったと言った。でもこの絵の中では絶対に言っているような気がする、と竜は思った。なんだかすごく照れくさくて見ていられないような、でも心から見惚れてしまうような美しい場面だった。
ふと気がつくと、いつの間に来たのか、エミルがすぐ隣に立っていた。そっと顔を見上げると、やはり三枚目の絵をじっと見ている。口元に僅かに微笑が漂っているように見えた。竜と目が合うと、エミルは茶目っ気たっぷりにおどけたしかめっ面を作って、マリーの方に向き直った。
「お母さん、こういうのをプライバシーの侵害っていうと思いませんか」
マリーも負けずに茶目っ気たっぷりに芝居がかった身振りをする。
「プライバシーの侵害ですって。まあ一体なんのことかしら」
そして微笑むと、目を細めて三枚目の絵を見つめた。
「あんまり綺麗な瞬間だったから。描かずにいられなかったのよ」
つられて竜ももう一度絵に目をやった。夕陽が海に反射してきらきらしている。眩しくて思わず目を細めてしまう。でも眩しいのは海ではなかった。
「この夜の果樹園の絵は?」
エミルが訊くとマリーはうなずいた。
「これはね、私の想像なの」
「真が初めて向こうに帰るシーンじゃないですか?」
竜が言うと、
「その通りよ!まあ、竜…」
マリーは嬉しそうに目を細めて竜を眺めた。
「さすがだわ」
竜は慌てて、
「いえ、だってその話はエミルに聞いてましたから」
「聞いてても、わかるとは限らないわ。頭の中に描く力…想像力がないとね」
エミルがわざとらしく声を潜めて、
「気をつけろ、『画家にならないか』攻撃が始まるぞ」
マリーもわざとらしくため息をついてみせて、
「いいえ。残念ながら竜が魔法一筋なのは承知していますからね」
竜は赤面した。さっき魔法で手帳に描いたリルの実の絵を思い出す。あれを見たら、マリーだって誰だって、たとえお世辞でも僕に画家にならないかなんて言わないに決まってる。真と違って、絵は得意じゃないのだ。
ふとエミルと目があった竜は、エミルもあのリルの絵のことを考えているのが一瞬にしてわかった。二人は同時にぷっと吹き出した。
「まあ、なあに?二人とも」
笑いこけている二人を見て、マリーがきょとんとする。
「…いや、お母さんの言う通り、竜は魔法一筋ですからね」
笑いながらエミルが言った。
「本当にとっても残念だけど、画家にはならないんじゃないかな」
昼食の後、また果樹園へ向かって歩きながら、竜は健太のことを考えていた。
さっきキッチンで一緒にサラダとサンドイッチを作りながら、エミルとマリーに健太のことを話した。ドクターストップのこと。魔法の練習は諦めようと思っていること。日記を書くように勧めたこと。そして、健太の記憶と脚の魔法を守ってあげられるかもしれないことを健太に話した方がいいかどうか、二人の意見を訊いてみた。
マリーは話してあげる方がいいと思うと言った。竜が考えたように、もし魔法がうまくいかなくて記憶も脚の魔法も守ってあげられなかったとしても、その場合、健太は全て忘れてしまうのだから、そのことで悲しまずにすむのだし、話してあげた方がこっちでの残りの日々を楽しく過ごせるだろうから、と。
するとエミルが日記のことを指摘した。記憶は無くなっても、日記の記録は残る。それを読めば、竜の魔法がうまくいかなかったから記憶も脚の魔法も守られなかったのだということはわかってしまう。
「それを読んで健太君がどう思うかはわからないけど、とにかく『全て忘れてしまうからそのことで悲しまずにすむ』というわけにはいかないよ」
竜は、前を行くライラの楽しげに揺れる立派な尻尾を見ながら考えた。僕が健太の記憶も脚の魔法も守れなかったことを知った時、健太はどんな気持ちがするだろう。僕のことをどう思うだろう。僕はなんて言って謝ればいいんだろう…。
「そうだ。さっき、大学に訊いてみたよ」
エミルの声で、竜の思考は途切れた。
「竜みたいな場合、学科試験は免除。ただし、大学で授業についていくのに必要とみなされた場合、入学前から個人的に補習授業をとるべし。暮らすのは15歳まではできれば学生寮ではなく、保護者と一緒が望ましい。そんなとこだ」
「大学は秋からですよね」
「そう。10月から。だから、残念だけど今年入学っていうのはさすがにちょっと無理だな」
向こうに帰って1ヶ月したら、こっちではもう2年経ってしまう。帰ってすぐに父さんと母さんを説得して、さっさとこっちに戻ってこなくちゃ。できれば1週間以内に。竜は唇を噛んだ。1週間か…。かなりきついなあ。
「入学試験はいつですか?」
「夏だよ。7月末だったと思ったな」
「じゃ、その補習授業っていうのはその後ですよね」
「そうだな。もちろん、竜がやりたければその前からでも始められる。父だって僕だって教えられるからね」
「ぜひお願いします!」
飛びつくように言うと、エミルが呆れた顔をした。
「まさか今回の滞在中ってわけじゃないだろうな」
「できたらぜひお願いします!少しずつでも、今から始められれば、その方がいいです」
「竜…」
言いかけてエミルは笑った。
「まあ、いいか。初歩の数学や物理じゃ、魔法の喪失みたいなことは起きないだろうし」
「やった!」
「…数学だの物理だのを勉強するのにそんな嬉しそうな顔をする子供なんて、珍生物として博物館に展示されそうだな」
「だって、魔法大学で勉強するのに必要なんでしょう?早くやりたいです!大学でついていけるレベルになるまでには、すごくいっぱい勉強しなきゃいけないでしょうから、早く始めないと」
果樹園の木戸を開けてライラを通しながら、エミルは竜に指を振ってみせた。
「言っとくけど、徹夜で勉強したりは禁止だぞ。睡眠はちゃんと取ること。スティーブンが言ってただろう」
「はい、ブリュートナー先生」
おどけて答えながら、徹夜、という言葉で竜はまた健太のことを考えた。エミルもそうだったらしい。木戸を閉めながら、
「それから、竜、健太君のことであんまり心配するなよ」
「…はい」
竜はため息をついた。図星だ。
「エミルが僕だったら、どうしますか。健太に話しますか?」
エミルはちょっと首を傾げた。
「そうだな。僕が竜の立場だったら話すかな。そして健太君の立場だったら、話して欲しいって思うだろうと思う。本当に仲の良い友達同士ならね」
「でも、僕の力が及ばなくて、僕のせいで記憶も脚の魔法も守れなかったってわかったら…健太はどう思うでしょう」
さっきからずっと頭の中でぐるぐる回っていた思いが、口をついて出てしまった。エミルは木戸にもたれて、竜をじっと見た。
「…竜は、健太君が竜を責めると思うのか?」
「口ではきっと何も言わないと思います。健太はすごく…何ていうか、大人だから。気にしないでいいよって言ってくれると思います。僕のせいじゃないって。でも心の中では…わかりません」
「竜。誰も、人の心の中までは知り得ないんだよ。もし健太君が気にしないでいいって言ってくれるなら、それを受け取ればいいんだ。本当はこう思ってるのかもしれないとか、そんなことを推測したって仕方がない。それに、今からそんなことが心配になるくらいなら、記憶を守ってあげられるかもしれないなんて健太君に言わないことだ」
「…」
竜はエミルを見上げた。
「例え失敗して自分の力不足を健太君に責められようとも構わない、どんな責めも受ける、と思えるようになったら、話せばいい」
夏の午後の青い空を背景にエミルはそう言って微笑んだ。果樹園の木々を渡る微かな緑の風が、エミルの額にかかる髪を揺らして過ぎていく。
「はい」
竜はうなずいた。重苦しかった心がすうっと軽くなって、竜はちょっと笑った。
「それにまだ相手を自分の次元に引き込む魔法も作れてないんですものね」
「そういえばそうだ。よし、じゃあ練習といくか」
「はいっ」
エミルの隣を歩きながら、竜は大きく息を吸い込んだ。エミルが大好きだ、と心から思った。エミルのようになりたい。いつか僕もこんなカッコよくなれるかなあ。
真上から照りつける太陽の下、果樹園を出て昼食をとりに家に向かって歩きながら、エミルが言った。
「え?」
「負けた方が勝った方のいうことをなんでも聞くって言っただろう」
「ああ…」
竜はうーんと宙を見つめて考えた。
「なんでもいいんですか」
「もちろん」
「本当になんでもいいんですか」
わざと「本当に」に力を込めて言うと、エミルが眉を上げて笑う。
「いいよ、約束したんだから。なんだい」
「…まだ考え中です」
竜はにこりとして言った。
一番の願いは、エミルに例の実験をやめてもらうことだったけれど、そんなことをこんな状況で言うべきでないのは竜にもわかっていた。
菜園のところまでくると、二人の少し先を歩いていたライラが、ふいっと鼻先を高く上げて、うぉん!と言った。勝手口のドアが開いて、マリーが顔を出す。
「ちょうどよかったわ!健太君から電話よ!」
竜が急いで行くと、マリーは受話器を渡してくれながら微笑んだ。
「帰ってきたのをライラが教えてくれてよかったわ。どこにいるかわからなかったから、後でこっちから電話しますって切ってしまうところだったの」
竜は、隣にぴったりくっついてにこにこしているライラの大きな顔をごしごし撫でた。
「ライラ、お利口さんだね。ありがとう」
ライラの真っ黒な目がきらきら光ってどういたしましてと言っている。168年後だなんて冗談じゃない。絶対にすぐ帰ってこなくちゃ、と竜は決意を新たにした。
「健太?」
「竜。ごめん、練習中だった?」
「ううん、休憩中だよ。健太も?」
「うん…ドクターストップ中」
「えっ」
「さっきバスケの試合中に急にくらくらして、立っていられなくなっちゃって。対戦相手のコーチがお医者さんでさ。診てくれたんだけど、過労だって言われて、今日は安静にしてろってドクターストップ。さっき車で送ってもらって帰ってきたんだ」
竜は健太に聞こえないようにそっとため息をついた。今朝スティーブンが言っていた通りになってしまった。このままでは身体を壊してしまうって。
「そうだったんだ…」
「その人、リカルドっていうんだけど、スティーブンとも知り合いで…。だからスティーブンの家がどこかも知ってて送ってくれたんだけど、出かけるところだったスティーブンとちょうど門のところで会って…。『君がついていながら何してるんだ』とか、もちろん冗談っぽくだけどスティーブンに言ったりしてて、僕、スティーブンに悪くって…」
「今、スティーブンのとこなの?」
「うん。書斎のソファで寝かせてもらってる。最近ここが僕の部屋みたいになっちゃって」
健太はちょっと笑った。
「まだくらくらするの?」
「ううん。もう大丈夫。でも多分今夜は魔法の練習は無理かな。スティーブンに、今夜はやめておいた方がいいって言われちゃったから。それに…」
健太はため息をついて、
「悔しいけど、もしかして、魔法は諦めたほうがいいんじゃないかって考えてるんだ。やっぱりバスケと魔法の両方はできない。ここでのことは覚えていたいけど、でも思い切りバスケがやりたい。両方できないんだったら…どっちかを選ばなきゃいけないんだったら、僕、やっぱり全力でバスケがやりたいって思う。例え記憶が残らないとしても」
竜は唇を噛んだ。言ってしまおうか。どうしようか。
「あのさ、健太。その…」
だめだ。期待させてその期待を裏切ることになったら…。
「…日記、つけてる?」
「日記?…ああ、向こうに帰った後で読めるように?」
「そう。僕も昨日書き始めたんだ」
「だって竜は魔法で覚えてられるんでしょ?」
「まだ確実にできるわけじゃないから。覚えてられなかったときのために、ちゃんとこっちで経験したことを全部書いておこうと思って。ポケットサイズの手帳に書いてるんだ」
「そうか…そうだね。いいアイディアだね。僕も書こう。今日からは魔法の練習をやらない分時間があるし。でも…」
健太はくすっと笑った。
「向こうに帰ってからその日記見たら、一体なんだろうと思うだろうね。自分が書いたってことも覚えてないんだから」
「そうだね…」
竜も想像してみた。ポケットに覚えのない手帳。書いた覚えのない奇想天外なことが、自分の字でぎっしり書かれている。
「きっと、頭がおかしくなったんだと思うだろうな」
「そうだね」
そう言って健太はため息をついた。
「忘れないでいられたらいいのに…」
そしてはっとしたように、
「でも、仕方ないよね」
と明るい口調で言った。
「それに、竜は覚えてられるかもしれないんだもの。覚えてたらさ、僕に、手帳に書いてあることは本当に起きたことだってちゃんと言ってね」
「うん。健太がどんなに『そんなはずない』って言っても、絶対に本当に起きたことだったんだって言い張るよ。頭がおかしくなったんだって思われて、救急車呼ばれちゃってもね」
健太と一緒に笑いながら、竜は胸がちくりと痛むのを感じた。
しばらく話した後で受話器を置いた竜は、ぴったりくっついて座って待っていたライラの首を撫でながら、しばし考え込んだ。
健太に、僕が健太の記憶も守れるかもしれないって言って、何が悪いんだろう?期待させおいて、それを裏切ってしまったらよくない、って思ったからさっきは話さなかったけど、でも、考えてみれば、もし健太の記憶を守れなかった場合、健太は期待させられていたことも忘れてしまうんだから、そのことで健太が辛い思いをすることはないはずだ。むしろ、僕が健太の記憶を守れるって言うことで、健太は思う存分バスケを楽しむことができるんじゃないかな。
じゃあ脚の魔法のことは?守ってあげられるかもしれないって話した方がいいかな?話したら、健太はもっと楽しい気持ちでここでの残り数日間を過ごせるんじゃないかな。
「竜?」
キッチンの戸口からマリーが顔を覗かせた。
「時間があったら、ちょっとサンルームに来ない?絵を出してみたから」
エミルが言っていた真の絵のことだろう。
「はい」
竜が戸口に向かうと、ライラも当然という顔でついてくる。竜はふと心配になった。
「マリー」
もうサンルームの方へ姿を消したマリーに呼ばわる。
「ライラも行って大丈夫ですか」
ライラの尻尾の破壊力はすごい。絵がイーゼルに載せてあったりしたら、大変なことになる。
「大丈夫よ。絵はみんなキャビネットの上に載せてあるから」
サンルームからマリーの答えが返ってきた。
ライラと一緒に幅の広い薄暗い廊下を通り、広々とした明るいサンルームに入る。竜はこの部屋がとても気に入っていた。すぐ外にあるテラスとつながっていて、テラスの上は葡萄棚になっている。ガラス越しに見える葡萄の葉の緑が日を浴びてとても綺麗だ。
細かいことを言うと、これは葡萄ではなく、葡萄の仲間のカルーサという果物だそうで、エミル曰く「酸っぱくてとてもじゃないけど食べられない」のだそうだ。
「毎年母がカルーサ酒を作るんだ。で、小さい時、カゴに山盛りのカルーサをキッチンで見つけて、葡萄だと思って1粒食べちゃったんだな」
そう言ってエミルは綺麗な顔を思い切りしかめてみせた。
「すごい衝撃だった。一緒にいた兄達は僕の顔を見て涙が出るほど大笑い。いまだに家族が集まると必ずと言っていいほどこの話が出るんだ」
竜はその話を聞いた時のことを思い出して頬を緩めたまま、部屋の奥の方にある大きなキャビネットに目をやった。いくつかの絵が壁に立てかけて置いてある。
左側から、壁にかける大きめのカレンダーくらいの大きさの絵が五枚、続いてそれの二倍くらいの大きさの絵が三枚、壁の幅いっぱいの作りつけのキャビネットの上に並んでいた。
最初の五枚は真の肖像画だった。微笑んでいる真。生真面目な顔の真。眉を寄せて真剣な顔をしている真。楽しそうに笑っている真。何かを考えているような真。視線をこちらへ向けていたり、誰かあるいは何かを見ていたり、宙を眺めていたり、動きがあったり、静止していたり、色調も雰囲気もそれぞれ違っているけれど、どれも見事に「本当の」真だった。実物よりよく見えるとか、可愛く描いてあるとかいうのとは違い、どの絵にも真の一番いいところが結集されている。
「すごい…」
竜は思わず呟いた。マリーの描いた真を眺めていると、真に対する想いが増すような気がする。真が家族でよかった。これからもずっと仲のいい姉弟でいたい。何があっても僕は絶対に真の味方でいよう。そんな想いが竜の心の中で交差した。
大きな絵の一枚目には真とエミルとカールが描かれていた。明らかに真が何かの魔法を練習していて、それをエミルとカールが見ているところだ。場所はテラスの前の庭。明るい日差しに照らされて、赤や黄色に染まった葉が見える。意識を集中している真。それをいかにも師匠という雰囲気で腕組みをして見ているカール。その斜め横で真に負けないくらい真剣な顔をして見つめているエミル。セリフをつけるとしたら、「よし、その調子」と「頑張れ!」だなと竜は思って微笑んだ。その場の雰囲気がとてもよく伝わってくる。
二枚目は、夜の果樹園だった。竜は思わず息を飲んだ。これは…これは、まさかあの場面?月明かりに照らされて木々の間に立っている、真剣な顔をした真とエミル。エミルは僅かにうなずいているように見える。「じゃ、行ってくる」「うん」という言葉が聞こえてくるようだ。でもそんなはずはない。マリーはその場にいなかったのだし…。けれど竜にはどうしてもこれがあの夜の二人のように思えてならなかった。
三枚目は、あの砂浜だった。エミルのデスクにあったあの写真と同じ、美しい夕焼けの砂浜に並んで座っているエミルと真。写真とは違って、二人はこちらを振り向いて笑ってはいない。エミルは真を見つめ、真もエミルを見つめ、二人の横顔は僅かに微笑んでいる。
竜が「アイラブユーとか言わなかったの?」とふざけて訊いたとき、真は言わなかったと言った。でもこの絵の中では絶対に言っているような気がする、と竜は思った。なんだかすごく照れくさくて見ていられないような、でも心から見惚れてしまうような美しい場面だった。
ふと気がつくと、いつの間に来たのか、エミルがすぐ隣に立っていた。そっと顔を見上げると、やはり三枚目の絵をじっと見ている。口元に僅かに微笑が漂っているように見えた。竜と目が合うと、エミルは茶目っ気たっぷりにおどけたしかめっ面を作って、マリーの方に向き直った。
「お母さん、こういうのをプライバシーの侵害っていうと思いませんか」
マリーも負けずに茶目っ気たっぷりに芝居がかった身振りをする。
「プライバシーの侵害ですって。まあ一体なんのことかしら」
そして微笑むと、目を細めて三枚目の絵を見つめた。
「あんまり綺麗な瞬間だったから。描かずにいられなかったのよ」
つられて竜ももう一度絵に目をやった。夕陽が海に反射してきらきらしている。眩しくて思わず目を細めてしまう。でも眩しいのは海ではなかった。
「この夜の果樹園の絵は?」
エミルが訊くとマリーはうなずいた。
「これはね、私の想像なの」
「真が初めて向こうに帰るシーンじゃないですか?」
竜が言うと、
「その通りよ!まあ、竜…」
マリーは嬉しそうに目を細めて竜を眺めた。
「さすがだわ」
竜は慌てて、
「いえ、だってその話はエミルに聞いてましたから」
「聞いてても、わかるとは限らないわ。頭の中に描く力…想像力がないとね」
エミルがわざとらしく声を潜めて、
「気をつけろ、『画家にならないか』攻撃が始まるぞ」
マリーもわざとらしくため息をついてみせて、
「いいえ。残念ながら竜が魔法一筋なのは承知していますからね」
竜は赤面した。さっき魔法で手帳に描いたリルの実の絵を思い出す。あれを見たら、マリーだって誰だって、たとえお世辞でも僕に画家にならないかなんて言わないに決まってる。真と違って、絵は得意じゃないのだ。
ふとエミルと目があった竜は、エミルもあのリルの絵のことを考えているのが一瞬にしてわかった。二人は同時にぷっと吹き出した。
「まあ、なあに?二人とも」
笑いこけている二人を見て、マリーがきょとんとする。
「…いや、お母さんの言う通り、竜は魔法一筋ですからね」
笑いながらエミルが言った。
「本当にとっても残念だけど、画家にはならないんじゃないかな」
昼食の後、また果樹園へ向かって歩きながら、竜は健太のことを考えていた。
さっきキッチンで一緒にサラダとサンドイッチを作りながら、エミルとマリーに健太のことを話した。ドクターストップのこと。魔法の練習は諦めようと思っていること。日記を書くように勧めたこと。そして、健太の記憶と脚の魔法を守ってあげられるかもしれないことを健太に話した方がいいかどうか、二人の意見を訊いてみた。
マリーは話してあげる方がいいと思うと言った。竜が考えたように、もし魔法がうまくいかなくて記憶も脚の魔法も守ってあげられなかったとしても、その場合、健太は全て忘れてしまうのだから、そのことで悲しまずにすむのだし、話してあげた方がこっちでの残りの日々を楽しく過ごせるだろうから、と。
するとエミルが日記のことを指摘した。記憶は無くなっても、日記の記録は残る。それを読めば、竜の魔法がうまくいかなかったから記憶も脚の魔法も守られなかったのだということはわかってしまう。
「それを読んで健太君がどう思うかはわからないけど、とにかく『全て忘れてしまうからそのことで悲しまずにすむ』というわけにはいかないよ」
竜は、前を行くライラの楽しげに揺れる立派な尻尾を見ながら考えた。僕が健太の記憶も脚の魔法も守れなかったことを知った時、健太はどんな気持ちがするだろう。僕のことをどう思うだろう。僕はなんて言って謝ればいいんだろう…。
「そうだ。さっき、大学に訊いてみたよ」
エミルの声で、竜の思考は途切れた。
「竜みたいな場合、学科試験は免除。ただし、大学で授業についていくのに必要とみなされた場合、入学前から個人的に補習授業をとるべし。暮らすのは15歳まではできれば学生寮ではなく、保護者と一緒が望ましい。そんなとこだ」
「大学は秋からですよね」
「そう。10月から。だから、残念だけど今年入学っていうのはさすがにちょっと無理だな」
向こうに帰って1ヶ月したら、こっちではもう2年経ってしまう。帰ってすぐに父さんと母さんを説得して、さっさとこっちに戻ってこなくちゃ。できれば1週間以内に。竜は唇を噛んだ。1週間か…。かなりきついなあ。
「入学試験はいつですか?」
「夏だよ。7月末だったと思ったな」
「じゃ、その補習授業っていうのはその後ですよね」
「そうだな。もちろん、竜がやりたければその前からでも始められる。父だって僕だって教えられるからね」
「ぜひお願いします!」
飛びつくように言うと、エミルが呆れた顔をした。
「まさか今回の滞在中ってわけじゃないだろうな」
「できたらぜひお願いします!少しずつでも、今から始められれば、その方がいいです」
「竜…」
言いかけてエミルは笑った。
「まあ、いいか。初歩の数学や物理じゃ、魔法の喪失みたいなことは起きないだろうし」
「やった!」
「…数学だの物理だのを勉強するのにそんな嬉しそうな顔をする子供なんて、珍生物として博物館に展示されそうだな」
「だって、魔法大学で勉強するのに必要なんでしょう?早くやりたいです!大学でついていけるレベルになるまでには、すごくいっぱい勉強しなきゃいけないでしょうから、早く始めないと」
果樹園の木戸を開けてライラを通しながら、エミルは竜に指を振ってみせた。
「言っとくけど、徹夜で勉強したりは禁止だぞ。睡眠はちゃんと取ること。スティーブンが言ってただろう」
「はい、ブリュートナー先生」
おどけて答えながら、徹夜、という言葉で竜はまた健太のことを考えた。エミルもそうだったらしい。木戸を閉めながら、
「それから、竜、健太君のことであんまり心配するなよ」
「…はい」
竜はため息をついた。図星だ。
「エミルが僕だったら、どうしますか。健太に話しますか?」
エミルはちょっと首を傾げた。
「そうだな。僕が竜の立場だったら話すかな。そして健太君の立場だったら、話して欲しいって思うだろうと思う。本当に仲の良い友達同士ならね」
「でも、僕の力が及ばなくて、僕のせいで記憶も脚の魔法も守れなかったってわかったら…健太はどう思うでしょう」
さっきからずっと頭の中でぐるぐる回っていた思いが、口をついて出てしまった。エミルは木戸にもたれて、竜をじっと見た。
「…竜は、健太君が竜を責めると思うのか?」
「口ではきっと何も言わないと思います。健太はすごく…何ていうか、大人だから。気にしないでいいよって言ってくれると思います。僕のせいじゃないって。でも心の中では…わかりません」
「竜。誰も、人の心の中までは知り得ないんだよ。もし健太君が気にしないでいいって言ってくれるなら、それを受け取ればいいんだ。本当はこう思ってるのかもしれないとか、そんなことを推測したって仕方がない。それに、今からそんなことが心配になるくらいなら、記憶を守ってあげられるかもしれないなんて健太君に言わないことだ」
「…」
竜はエミルを見上げた。
「例え失敗して自分の力不足を健太君に責められようとも構わない、どんな責めも受ける、と思えるようになったら、話せばいい」
夏の午後の青い空を背景にエミルはそう言って微笑んだ。果樹園の木々を渡る微かな緑の風が、エミルの額にかかる髪を揺らして過ぎていく。
「はい」
竜はうなずいた。重苦しかった心がすうっと軽くなって、竜はちょっと笑った。
「それにまだ相手を自分の次元に引き込む魔法も作れてないんですものね」
「そういえばそうだ。よし、じゃあ練習といくか」
「はいっ」
エミルの隣を歩きながら、竜は大きく息を吸い込んだ。エミルが大好きだ、と心から思った。エミルのようになりたい。いつか僕もこんなカッコよくなれるかなあ。
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