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§ 追いかけてきた過去

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 暗闇の中、窓から差し込む月明かりが、薄らと家具の輪郭を照らしている。目の前のテーブルには、亮が入れてくれたミルクティーのカップ。手を伸ばし、すっかり冷めきったそれを少し口に含んだ。甘いはずの香りは何処へ行ったのか。飲み込むと、不快なぬめりが喉に貼り付いた。

 啓に励まされて仕事を得、小夜という同性の親友にも恵まれた。亮と出会い、二度とひとを愛さないとの戒めも解いた。それなのに——いや、それだからこそ。

 恐怖と困惑と。いま頃になって露わになったその感情に、カップを持つ手が震え出す。

「! う……っ」

 突然激しい吐き気に襲われて、口元を押さえながらトイレへ走った。何度も、何度も、吐いた。胃の中にあるものをすべて吐き出しても、吐き気が治まる気配がない。キリキリと締め上げられるように胃が痛む。壁に背を預けて小さく息をしながら、これは愚かな自分への罰なのだと思った。

 ようやく胃の痛みが治まりつつあるのを感じて立ち上がった。壁伝いによろよろと洗面所へ行き、身に付けている衣類を身体から毟り取る。脱ぎ捨てたそれはすべてゴミ箱へ詰め込んだ。

 全裸で洗面台の前に立ち、腕が怠く動かなくなるまで繰り返し歯を磨き、口を濯ぎ続けた。その足で風呂場へ行き熱いシャワーを頭から浴びる。まつわりつく不快な臭いを消し去るように、指の一本一本に至るまで何度も何度も力を込めて汚れた身体を洗った。

 真新しいタオルで水気を拭いて部屋着に着替え、部屋中のゴミを纏めて階下のゴミ捨て場へ運んだ。戻ってからは、掃除。窓を全開にし、部屋中すべて掃除機をかけ、リビングの床を水拭きする。家具は乾拭きし、カーテンを洗濯機に突っ込み、すべての窓も磨き終え、再び風呂へ。同様に、全身を隈なく何度も洗う。

 すべてを終えた頃にはもう、ドライヤーで髪を乾かす体力も気力も残っていなかった。濡れた髪にタオルを巻いて部屋の灯りを消し、ソファへ座り込む。

「明日も仕事だから寝なくちゃ……」

 ベッドに入ったからといって眠れるわけでもないけれど、耐えるのはほんの一時、きっとすぐに夜が明ける。瞼を閉じると目に涙を溜めた小夜の顔が浮かんだ。

 小夜は、啓が好きだ。想いを寄せる男が、他の女の身体を貪ろうとする狂気を目の当たりにして、小夜はなにを思っただろう。ショックを受けないわけはないのに、私のために怒鳴り、叩き、追い出してくれたその気持ちを思うと、辛い。

 亮だって、傷つけてしまった。

 不要な言葉をかけずにただ只管、体温を分けることで心を温めてくれた彼の想いが、苦しい。

 人と深く関われば、結果はいつも同じ。時を追う毎に重ねられる矛盾はいつか崩壊し、傷つけ合う。私はそれを痛いほどわかっているはずなのに、なぜ懲りずに繰り返すのか。

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