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§ 勝負の行方
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「彼を愛していたんだな」
ぼそりと呟く声音が不安に色づいているように聞こえた。
「……どうだろう?」
「どうだろう、って……おまえ、その人と結婚するつもりだったんだろう?」
「うん……そう、なんだよねぇ……」
「なんだそれ? 他人ごとみたいに」
今度は呆れ混じりにため息をつかれる。
ため息をつきたいのは——じつは、私自身だったりする。
周囲の厳しい目から解放され浮かれていたあの頃の私は、恋をしたこともなければ、愛し愛される経験も皆無。恋愛のなんたるかも、まったくわかっていなかったのだ。
彼を好きだったのはそうだと思える。けれども、あれが未来へ繋がる深い愛情だったか、と問われれば、わからないとしか答えられない。
さらに、あれから五年もの時が経っている。過去の感情なんて遙か彼方へ消えてしまった。だから、智史への気持ちがなんだったのか、いまはもうわからないとしか言いようがない。
「だって、忘れちゃったんだもの。あはは……」
ただ、本当に忘れたいと願うことは、忘れられられないもの。突然地の底へ突き落とされたように裏切られた傷だけは、いまもしっかり刻みつけられたあの頃のままに残っている。
「ただね、いまだから思えるの。あの頃の自分は、人を愛するってどんなことなのか、ぜんぜんわかっていなかったんだな、って」
「いまはわかる?」
「……うん。わかる、つもり」
あれは、愛なんかじゃなかった。亮と出会って、それだけは、はっきりと理解した。
西に傾きだした太陽の光が、風に煽られて細波を立てている湖面を照らしている。湖畔を渡る風は幾分冷たいが、こうして亮の胸に抱かれていると、寒さは感じない。
「あ!」
「どうした? 急に……」
私の顔を覗き込む亮を見つめて、言った。
「大変! お土産買うの忘れていたわ!」
「土産? 誰に?」
「えっとね、小夜でしょ、こっそり温泉旅行した挙げ句にお土産も無しじゃ、絶対に怒られるもの。それから、会社の人と……もちろん自分のも欲しいし。亮は? 会社にお土産買うでしょう?」
「俺はべつにいいよ」
「どうして? あ! そうだ、あと、関根さん!」
「関根? それこそいらないだろう? 俺だって、あいつから土産なんて一度ももらったことないぞ?」
男同士って、そんなものなのかな?
突然不機嫌を丸出しにした口調が面白くて、噴き出してしまう。なかなか止まらない笑いを堪えつつ、強引に手を引いてお土産を物色しにでかけた。
*
楽しい時間が過ぎるのは早い。明日からはまた都会の喧騒の中で、忙しい日々を過ごすのだ。
「嫌だな、帰りたくない」
ベッドの中で亮の胸に顔を埋めてため息をついた。
「また来年来ればいいだろう? 紅葉もいいし、若葉の頃でもいい」
「そうだね、来年……」
来年。私たちに来年はくるのだろうか。
私たちの賭け、勝負はまだ終わっていない。素顔を晒し生活を脅かされたくない私は、勝たなければならないのだ。
時間が経てば、人の心は変わるもの。亮は絶対に勝つ気でいるし、私に示してくれる愛を疑っているわけでもない。けれども、賭けを続けているうちに、私への愛が失せてしまうことだってあるだろう。いまもあるその不安は、これから先も日々積もっていくのだ。
「私が賭に勝って、もうお付き合いは終わりですって宣言したら、来年なんてないわね」
内心自嘲しつつ、嘯いた。
「どうして?」
「どうして? って? だって……」
「来年はあるよ。再来年も、その先も、ずっとある」
「へ?」
顔を上げると、にやりと笑う悪い顔が私を見下ろしていた。
「俺に、負けるつもりがないからな」
「なにそれ?」
なにが言いたいのか、意味がさっぱりわからない。
「わからないか? じゃあ訊くよ、賭けの期限は決めたかな?」
賭けの期限、とは、いつからいつまでの間に勝負をつけましょう、という——。
「あああああっ! いやそれ、ずるいっ!」
「ようやく気づいたか」
この賭けは、無期限。亮が負けを宣言しないかぎり、私が勝つこともなく、私たちの関係は、いつまでも続く。たとえ私が負けを認めて賭けが終了しても、亮の気持ち次第。いまとなにも変わらない。
私が負けて変わるのは、ただひとつ。私の素顔を晒すか晒さないか、それだけ。
簡単に言ってしまえばつまり、私は亮に謀られたのだ。
「騙したのね……」
「そうとも言う、な」
「ひどい……」
言葉にはしないけれど、認めてしまおう。私はきっと出会ったあの日から、身体に刻み込まれた甘い口づけの記憶に、負けていたのだと思う。
「どうして賭けをしようなんて言ったの?」
「逃げられたら困るからな。言っただろう? 俺は惚れた女しか抱かないって」
私の髪を梳いていた指が、頤にかけられた。唇がそっと触れ合うと同時に、瞼を閉じる。
歩き過ぎて脹ら脛は張っているし、太腿の筋肉痛も始まっている。それなのに、巧みに繰り出される甘い誘惑に、打ち勝つ意思の強さは無くて。
明日は帰るだけだから問題ないだろう、と、本気バージョンで貪られたのは言うまでもない。
ぼそりと呟く声音が不安に色づいているように聞こえた。
「……どうだろう?」
「どうだろう、って……おまえ、その人と結婚するつもりだったんだろう?」
「うん……そう、なんだよねぇ……」
「なんだそれ? 他人ごとみたいに」
今度は呆れ混じりにため息をつかれる。
ため息をつきたいのは——じつは、私自身だったりする。
周囲の厳しい目から解放され浮かれていたあの頃の私は、恋をしたこともなければ、愛し愛される経験も皆無。恋愛のなんたるかも、まったくわかっていなかったのだ。
彼を好きだったのはそうだと思える。けれども、あれが未来へ繋がる深い愛情だったか、と問われれば、わからないとしか答えられない。
さらに、あれから五年もの時が経っている。過去の感情なんて遙か彼方へ消えてしまった。だから、智史への気持ちがなんだったのか、いまはもうわからないとしか言いようがない。
「だって、忘れちゃったんだもの。あはは……」
ただ、本当に忘れたいと願うことは、忘れられられないもの。突然地の底へ突き落とされたように裏切られた傷だけは、いまもしっかり刻みつけられたあの頃のままに残っている。
「ただね、いまだから思えるの。あの頃の自分は、人を愛するってどんなことなのか、ぜんぜんわかっていなかったんだな、って」
「いまはわかる?」
「……うん。わかる、つもり」
あれは、愛なんかじゃなかった。亮と出会って、それだけは、はっきりと理解した。
西に傾きだした太陽の光が、風に煽られて細波を立てている湖面を照らしている。湖畔を渡る風は幾分冷たいが、こうして亮の胸に抱かれていると、寒さは感じない。
「あ!」
「どうした? 急に……」
私の顔を覗き込む亮を見つめて、言った。
「大変! お土産買うの忘れていたわ!」
「土産? 誰に?」
「えっとね、小夜でしょ、こっそり温泉旅行した挙げ句にお土産も無しじゃ、絶対に怒られるもの。それから、会社の人と……もちろん自分のも欲しいし。亮は? 会社にお土産買うでしょう?」
「俺はべつにいいよ」
「どうして? あ! そうだ、あと、関根さん!」
「関根? それこそいらないだろう? 俺だって、あいつから土産なんて一度ももらったことないぞ?」
男同士って、そんなものなのかな?
突然不機嫌を丸出しにした口調が面白くて、噴き出してしまう。なかなか止まらない笑いを堪えつつ、強引に手を引いてお土産を物色しにでかけた。
*
楽しい時間が過ぎるのは早い。明日からはまた都会の喧騒の中で、忙しい日々を過ごすのだ。
「嫌だな、帰りたくない」
ベッドの中で亮の胸に顔を埋めてため息をついた。
「また来年来ればいいだろう? 紅葉もいいし、若葉の頃でもいい」
「そうだね、来年……」
来年。私たちに来年はくるのだろうか。
私たちの賭け、勝負はまだ終わっていない。素顔を晒し生活を脅かされたくない私は、勝たなければならないのだ。
時間が経てば、人の心は変わるもの。亮は絶対に勝つ気でいるし、私に示してくれる愛を疑っているわけでもない。けれども、賭けを続けているうちに、私への愛が失せてしまうことだってあるだろう。いまもあるその不安は、これから先も日々積もっていくのだ。
「私が賭に勝って、もうお付き合いは終わりですって宣言したら、来年なんてないわね」
内心自嘲しつつ、嘯いた。
「どうして?」
「どうして? って? だって……」
「来年はあるよ。再来年も、その先も、ずっとある」
「へ?」
顔を上げると、にやりと笑う悪い顔が私を見下ろしていた。
「俺に、負けるつもりがないからな」
「なにそれ?」
なにが言いたいのか、意味がさっぱりわからない。
「わからないか? じゃあ訊くよ、賭けの期限は決めたかな?」
賭けの期限、とは、いつからいつまでの間に勝負をつけましょう、という——。
「あああああっ! いやそれ、ずるいっ!」
「ようやく気づいたか」
この賭けは、無期限。亮が負けを宣言しないかぎり、私が勝つこともなく、私たちの関係は、いつまでも続く。たとえ私が負けを認めて賭けが終了しても、亮の気持ち次第。いまとなにも変わらない。
私が負けて変わるのは、ただひとつ。私の素顔を晒すか晒さないか、それだけ。
簡単に言ってしまえばつまり、私は亮に謀られたのだ。
「騙したのね……」
「そうとも言う、な」
「ひどい……」
言葉にはしないけれど、認めてしまおう。私はきっと出会ったあの日から、身体に刻み込まれた甘い口づけの記憶に、負けていたのだと思う。
「どうして賭けをしようなんて言ったの?」
「逃げられたら困るからな。言っただろう? 俺は惚れた女しか抱かないって」
私の髪を梳いていた指が、頤にかけられた。唇がそっと触れ合うと同時に、瞼を閉じる。
歩き過ぎて脹ら脛は張っているし、太腿の筋肉痛も始まっている。それなのに、巧みに繰り出される甘い誘惑に、打ち勝つ意思の強さは無くて。
明日は帰るだけだから問題ないだろう、と、本気バージョンで貪られたのは言うまでもない。
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