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プロローグ

悪夢

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 酷く乱れた呼吸、煩い心臓の音――


「はあ……はあ……きゃあっ!」


 走っていた足は限界をむかえ、躓いてしまう。その際に変なひねり方をしたのか、足に強烈な痛みが走る。ヒールで走っていたこともあって、それがぽっきり折れてしまい靴は使い物にならない。
 這いずってでもここから逃げなければならないという意思が、私を突き動かしダメージを負った足を奮い立たせる。しかし、倒れた私の目の前に私の顔よりも大きな剣が落ちてきた。一歩でも前に動いていれば、その剣に脳天から突き刺さっていたことだろう。剣の大きさは、男性の平均身長よりも大きいように思えた。それも、大剣の三分の一程度が床に埋まっている。どれだけ強く投げれば、的確に投げれば、真っ直ぐに床に刺さるというのだろうか。そして、剣は、まさに大剣といったかんじで、使い込まれているのか、その柄から汗の臭いが漂ってきた。
 剣が落ちてきたことに驚いて息を飲むと、少し離れた所から高笑いが聞こえた。
 暗闇の中から黄金色の髪をもつ青年が現われ、スッとその群青色の瞳を向けてきた。先ほどの笑い声は、彼――ユーデクス・サリテットから発せられたものだった。こちらを嘲笑うように見ている彼と目が合うと背筋がぞくっと凍るようだった。なんて冷たく、狂気が滲んでいる瞳だろうと。


「ゆー……デクス、さま……っ」
「ああ、怯えないで。スピカ」


 彼は、私の前まで来ると膝をついて、その場に倒れている私の顔を掴み上げ、唇を黒い手袋をはめた手でそぉっとなぞった。そのゾワゾワする感触に再び背中が凍り付いていく。
 私を見下ろしている彼の瞳は恍惚としており、まるで興奮を抑えられないといった表情だった。

 彼……ユーデクス・サリテットはこの国の皇太子レオ・スカイ殿下の側近であり、帝国騎士団の試験を最年少でクリアしたソードマスターでもある。この大剣も、ユーデクス様しか使えない代物であり、名をソヴァールというかつて英雄が使っていた幻の剣。騎士団が太古の遺跡から発掘し、持ち帰ってきたところ、剣が主を選ぶという性質からユーデクス様が選ばれた。持ち帰られた当時は、こんな大きな剣ではなく、錆び付いたごく一般的な細身の剣であり、錆び付いてか鞘から引き抜くこともできなかったとか。しかし、ユーデクス様が触れた途端、そのサビは一気に剥がれ落ち、鞘から引き抜けば、その刀身を煌めかせた。まるでユーデクス様がその剣の主であることを示したかのように……。
 それからユーデクス様は騎士団で実績を積み、皇太子殿下の側近にまで上り詰めた。レオ殿下の護衛や側近を務めるようになってからは、ソヴァールがもう大いに使われていたそうだ。はじめこそ、英雄の剣を使うのを躊躇われていたのか、特注の剣を使っていたが、ソヴァールの力は偉大で、研磨をしなくても使い続けられるという特質からユーデクス様は常にソヴァールを持ち運ぶようになったとか。そして、それが今目の前に――


「大丈夫。殺したりはしないよ。でも、もし、これからも俺から逃げ続けるというのなら――」
「ひっ」


 そんな、英雄の剣を振るい、英雄とも言われる彼が何故私を追いかけ、追い詰めてくるのか私には理解できない。彼との接点といえば、社交の場でたまに顔を合わせるくらいのはず。長時間会話したこともなければ、二人きりになったこともない。
 だから、こんなふうに執着される理由が分からなかった。
 しかも、ユーデクス・サリテットという人間は、確かに誰にでも優しく笑顔を振りまく、ワンコ系男子として、絶賛の人気を誇っていて、殿下への忠誠心も厚く、自身の感情だけで動くような人間ではなかった。なのに、今、目の前にいる彼はその片鱗すらない。まるで別人のようで、私には彼が恐ろしい存在にしか見えない。


「ああ、可哀想に……足が変な方向に曲がってしまっているね」


 彼はそう言うと、ソヴァールを地に立てかけ、私の頭を両手で掴むと優しく撫でた。その手つきがやけに優しくて怖くなる。その狂気の笑みを消せばきっとただの美青年なのに……と思わずにはいられないほど整った容姿をしているし、令嬢たちからさぞや人気なのだろうなという姿が想像できるほど見栄えが良い。女性に対する気配りも欠かさずしているというし、何より私も、彼がいるパーティーにはほぼ出席しているからそれをよく理解している。遠くから眺めるだけで幸せだった、そんな憧れの騎士様が私に執着している! 本来であれば喜ぶべきことだろうし、彼を好きな令嬢たちに自慢できる話なのだろうが、実際執着という言葉は恐ろしく、身をもって体験してみれば、他人との距離感なんて近すぎずとも遠すぎずでいいと思ってしまうのだ。

 そう、それでも、憧れの人……初恋の人ではあった――


「……う、ぅう……」
「スピカ? どうして泣いてるの?」


 私は目から涙を流していた。それを見て、彼は黒い手袋をした手で私の涙を拭ってくれる。優しく丁寧な手つきで触れてくれるのだが、それがまた恐ろしいのだ。しかし、そんなことを考えているとはユーデクス様は思わないだろう。私が足が痛くて泣いているのだと……きっとそう思っているのだろうから。
 痛くて涙を流すならまだしも、恐怖で涙を流したなんて誰が信じるだろうか? 足の痛みよりも、これは恐怖の涙だ。 


「ユーデクス様が……」
「俺が、何?」
「…………」


 まるで、私が魔物から逃げているとでも言わんばかりの顔。自身が私を恐怖にたたき落としているという自覚がないのだろう。無自覚とは恐ろしいもので、彼は私を抱きしめてくるのだ。
 確かに感じるその温もりに、私の中の恐怖心は和らいでいくが、後ろに見えるソヴァールのせいで安心とはほど遠いところにいた。それでも、このまま絞め殺されるなんて事はないだろうと、そっと彼の背中に手を回す。恐怖で思考がぐちゃぐちゃになった人間が、正常な判断なんか出来るはずも無く。助けてくれる人がいないから、その恐怖の相手に縋るしかなくなってしまうのだ。
 助けて欲しいのはこの人。けれど、この人は私を生かすも殺すも、私の命を握っている。
 ああ、どうしてこうなったのか、私にはさっぱり分からなかった。


「ユーデクス様」
「何? スピカ」
「わたしを、わたしを、殺さないで下さい。何回も」
「――っ」


 私はこの人に何回も殺された。その、英雄の剣で、腹を貫かれたことも、首を絞められたこともあった。殺された回数は、両手で数えられなくなってからやめた。
 私の背中にまわっていた腕は、スッと離れていき、彼の体温が私から失われていく。命乞いをしたはずなのに、周りの空気がひんやりと冷えていくのを感じ、私はハッと顔を上げた。するとそこには、既にソヴァールを片手に、顔を一掃するユーデクス様の顔があった。真夜中の廊下。ぴしゃりと落ちた紫色の稲妻に照らされた彼の顔は、怒りで滲んでいるようだった。いや、怒り、悲しみ、恨み……混沌とした感情を浮べた彼はブツブツと何かを言っている。本能が逃げろといっているのに、足が動かなかった。


「ゆ、でくす……さま……?」
「――スピカ」
「ゆ、ユーデクス様……? あ、あの、わたしっ」
「俺のものにならないなら――っ」


 ヒュンと振り下ろされたソヴァールは、既に何度も人を殺したような返り血で錆びているように見えた。それが、私の最後に見た景色――




 ――――
 ――――――――――


「――はあっ、は……はあ……はあ……う、また、この夢」


 ぐっしょりと濡れたネグリジェ。荒くなった呼吸に、煩いほど早鐘を打つ心臓。呼吸を整えるために、深く息を吸えばかひゅっと、喉の奥から気味の悪い音が鳴った。
 部屋には日の光が差し込み、小鳥のさえずりが遠くから聞えてきていた。もうすっかり朝で、夜に雨が降っていたというわけでもなく、からっとしたお日様が昇っている。部屋で一人汗だくになって起きた私はそっとベッドを下りる。もう眠ることなどできないだろうし、起きなければ……


「どうしよう……どうしたら……」


 床にぺたんと座り込み、ぐしゃぐしゃになった頭を抱え込む。部屋に入ってきている日の光に自分の汗が反射して光っているように見えたが、拭うことも億劫だった。けれど一つだけ言えることは、今日も悪夢をみてしまったということだろう。
 トントン、と鳴らされるノックの音にすら敏感に反応してしまい、私はベッドへ脱兎のごとく飛んで毛布にくるまる。いつぞやの悪夢で、寝室にまで彼が乗り込んできて、そのまま殺されたというものを見てしまったからだ。でも、悪夢は大体夜の時間帯で、必ずといって良いほど雨が降っていた。私は雷が苦手だったので、さらに恐怖感を煽る演出がされているなと、何度悪夢を見ても、慣れることはなかった。


「だ、だれ……?」
「お嬢様、朝です。起こしに来ました」
「あ、ああ、ありがとう」


 声は、侍女のエラのもので、私はほっと胸をなで下ろす。 
 しかし、その安堵も束の間、エラは少し強ばったような声で続けざまに言った。


「それと――ユーデクス様がお待ちです」
「ひぇ……っ」


 ひゅっ、とまた喉から聞き慣れてしまった音が鳴り、私は再び恐怖で震え上がった。
 私、スピカ・アルビレオ侯爵令嬢は、不本意にも初恋の相手ユーデクス・サリテット様に殺される夢を見てしまいます。悪夢を見始めてから、私は怖くて怖くて仕方ありません。そして、悪夢を見る頻度が増えたと同時に、彼が侯爵家に訪れる頻度も増えた気がするのです。
 夢までではなく、もしかして私は現実世界でもユーデクス様に殺されてしまうのでしょうか。


(――神さま、いるのなら助けてください!!)


 悪夢から、ユーデクス様から!
 しかし、そんな願いが叶うわけもなく、無情にもあけられた扉の先には、笑顔の彼が立っていた。


「やあ、スピカ嬢。おはよう」


 黄金色の彼は、とびきりの笑顔で、私の名前を呼んで、群青色の瞳に熱を浮べ、私をうっとりと見つめていた。

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