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第4章
02 私は私
しおりを挟む地獄へ赴くときはいつだって一人だ。
「ちゃんと来てくれたのね、べテル。お利口ね」
「はい、お母様」
ベッドのわきに膝をついて、うれしそうに撫でるお母様から解放されるのを私はずっと待っていた。
私宛にお母様から手紙が来た。そこには一人で来てほしいという文章が書かれており、内密に、とも書かれていたが、私はもちろんこれをお兄様に話した。お兄様は「絶対に行かないで」といったが、それでも腐ってもお母様からの手紙を無視することはできず、行くという意思を伝え、日付も伝えてここに来た。
いつもなら兄弟そろって呼ぶお母様がなぜ私だけを呼んだのかいまだ理解できず、嫌な胸騒ぎはするけれど、お母様に会わないという選択肢はどうしても取れなかった。それは、べテルを望むお母様の呪縛から私が解放されていないからだろう。
(もう、殿下にはバレてしまったし、もう少しでべテルの役目は……)
お母様にこのことを話せば、暴れるに違いない。もしいうのであれば、それ相当の覚悟とお兄様がいるときだろう。お母様の体ももう長くないと聞くし、それまで黙っているのもいいかもしれないと思った。でも、それも違う気がして、私はどうすべきかと一人悩んでいた。
べテルとして生きてきた私を否定したいわけでも消したいわけでもない。でも、私が見つけた幸せというのはペチカでしかかなえられないものなのだ。もう一人二役を続けていられない。
お母様が愛おしそうに撫でているのは私じゃなくて、べテル。やっぱりお母様はどこまでいってもペチカをペチカとして見てくれなくて、嫌になる。けれど、そこから逃げ出せないのも私が逃げ出す勇気がないからだ。
髪の毛を切られたこと、べテルとしての人生を強制されたこと、いろんなものを押し付けられてうんざりして、お母様に対する反抗の気持ちは死んでしまったのかもしれない。お母様に愛してほしかったペチカは、お母様の前では死んでしまっているのだ。
「べテル。私ね、ずーっと考えていたの。貴方が騎士になってイグニスと並んで剣を交える日とか、出世して、かわいいご令嬢と結ばれる日とか」
「はい……」
「とっても素敵だと思うの。べテルは、私に似て美形だからね。そりゃもう、ご令嬢からの手紙はいっぱいよ。私のところいっぱい届いているの。送ってあげたけど見ている?」
「はい……お母様」
そう、よかった。と、お母様はうれしそうに私の頭を撫でる。
手紙は申し訳なく思いつつも、怖くて燃やした。お母様のままごとに付き合ってくれているのか、それとも本気でべテルという男が生きていると思っているのか。それも何もかも気持ち悪くて。ペチカがないがしろにされて殺されるようで。
べテルのことを嫌いになりたくないのに、嫌いになっていく自分がいた。
お母様が気が済むまで撫でられ続けようとしていたのだが、急にお母様がグっと私の髪を引っ張ったかと思うと、パシンと次の瞬間にはほほを叩かれ、私はぺたんとその場に尻もちをついた。
「おか、さま……?」
「でもね、でもね、でもね、でもね。思ったのべテル。貴方が、べテルになり切れていないっていうのを」
「なに、を……っ!?」
バタバタバタと入ってきた、騎士たちに私はとらえられ、両手を縛られる。騎士たちの胸には皇族に仕える騎士の紋様が刻まれていたが、色的にディレンジ殿下の派閥のものだとわかった。
お母様はふふふふふ、と不気味に笑ってベッドの上でせき込む。
「お母様何を! これはどういうことですか!」
アジェリット公爵家は、皇太子派閥の貴族だ。なのに、お母様は第二皇子派閥とつながっていた。この状況からそう考えるのが普通であり、理解しようと頭は動くのに、体は動かなかった。屈強な男たちに羽交い締めにされれば女の私が動けるわけなかったのだ。
(な、なんで。何、くそっ……)
抵抗を試みるもやはりびくともしなかった。
お母様がこんなことをするなんて考えられない。でも、もし、お母様がディレンジ殿下とつながっていたとしたら?
嫌な考えが頭をよぎるが、今はそれが正解だと思うしかない。
「お母様!」
「その声やめて! 女の子みたいじゃない!」
「……っ、ぼ、私は女です! 私は、ペチカ。ペチカ・アジェリットです!」
「そうね、知ってるわよ。ペチカだってことぐらい」
「……っ」
見開かれたドロッとした鈍色の瞳に、私はヒュッと喉から息が漏れた。わかり切っていることのように言うお母様が、私をひどく軽蔑し、消えてと圧をかけてくるお母様の目が怖くて、ガタガタと震えた体を自分ではどうにもできなくなった。
「日に日に女の子になっていく貴方がいやだった。貴方はべテルなのに、私のかわいいべテルなのに、なんで胸が大きくなるの? 髪が伸びるの? まつ毛も伸びるし、匂いだって! 腰回りも丸みを帯びて、ああ、いやだ。汚らわしい! 私のべテルはそうじゃないの!」
「……」
そういってお母様は髪を掻きむしる。また、ヒステリーを起こしているのだと思うが、ペチカを認識しているところを見ると、狂気と正気のはざまにいるみたいで、その歪さがまた恐ろしかった。
はあ、はあ、と息を切らす合間にせき込み、血を口の端から垂らしながら、お母様は狂気に染まり切った瞳で私を見るとパンと手を叩いた。嬉しそうに、これからいいことが起こるとでもいうように。
「でもね、もうその心配はしなくていいの。だって、べテルは私のところに戻ってくるから」
「お、お母様、べテルは十四年前に死んだんです。もう、目を覚ましてください! お願いします。現実を見てください」
「何を言っているの? ペチカ。べテルはそこにいるじゃない。ねえ、貴方はべテルになれる器なの。体が女の子なだけで。だからね、私のべテルのために男になって」
「は……? いっ」
上のボタンがいくつか飛び、無理やり服を脱がされ、首筋にちくりと針のようなものがあてられる。自分が何をされているのかわからず、動機が早くなり、汗が吹き出しつつも何もできない状況に絶望するしかない。お母様が言っていることが理解できなかった。
「ディレンジ殿下と作った、男になるための薬よ。これを注射したら、貴方は男になれるの。私のべテルが戻ってくるの」
「や、やめてください。お母様、嫌です。いや、私は、そんなこと望んでいません」
「私が望んでいるんだからいいじゃない。だって、貴方は私の子供でしょ? 親の言うことを聞いていればいいのよ」
「お母様!」
いやいやいやいやいやいやいやいや!
先ほどよりも皮膚に食い込む針から逃れようとするが、頭を押さえつけられて身動きができない。あれだけ鍛錬を積んでもびくともしない体。先ほど一瞬見えた青色の液体が私の中に入ったら私は男になるの?
お母様がべテルを欲しているから?
私が、ペチカが……死ぬ?
「嫌だ、お母様、ごめんなさい。ごめんなさい! べテルになりますから、ちゃんと演じますから、お母様のべテルになりますから。それだけは、いや、やめてください。お願いします、お願いします!」
「ダメよ。そういって、私をいつもイラつかせるのは貴方でしょ、ペチカ」
「……っ、っ……っ」
私の声は届かない。この人には何を言っても無駄だと、私は体から力が抜けるのを感じながら奈落へと突き落とされる。
男になりたいと思ったことはなかった。でも、べテルとして、近衛騎士団の騎士としての日々は楽しかった。女としての限界を感じつつも、男にうまれればとは一度も思わなかった。私の実力、私というべテルの実力で這い上がってこそ、意味があると。
そうだ、私はいつだって男になりたいなんて思わなかったし、男に生まれたかったなんて思わなかった。
女の子で、私はずっと女の子になりたかったのだ。
(何で、忘れてたんだろ……)
かわいいお洋服が好き、長くて濃いピンク色の毛先が好き、一口で食べられちゃうような宝石みたいなお菓子が好き、甘いもの、かわいいものそれがずっと好きだった。女の子の生活にあこがれていた。
ああ、なのに――
「……もう、やだ」
最後の抵抗でもすればどうにかなっただろうか。いや、どうせ女の私じゃ、この男たちを振り払うことはできなかった。遠くなっていくお母様の不気味な笑い声を聞きながら、首筋から体内にあの青い液体が入ってくることがわかる。体の中をかき乱して、内側から変えていくようなそんな感覚。今、目を閉じたら起きたら男になっているとでもいうのだろうか。
ああ、もう嫌だ。
ごめんなさい。
「……ゼイン」
そう口にしたのは、私が好きな人の名前。
助けに来てくれるとでも思っているのだろうか。ばかばかしい。私が、そんな囚われのお姫様みたいな――
「ペチカ――っ!」
差し込んだ光と、勢いよく開かれた扉。涙でぐずぐずになった視界にあの黄金が映りこむ。
「ペチカっ、……母上ッ!」
「あら、イグニス。ちょうどよかったわ。貴方の弟が帰ってくるの。今日は三人でお祝いしましょう……」
「――っ!」
ぶわっと広がった殺気は、お兄様が放ったものだった。前にも一度似たようなことがあったが、思い出せなかった。
そんなお母様の嬉しそうな声は、次の瞬間には悲鳴に変わり、ドゴッと鈍い音が部屋に響く。そして、次には、私を抑えていた男たちが鮮血と悲鳴を上げて倒れていく。
「ペチカ、おい、しっかりしろ、ペチカ!」
「ゼイン……私、私は……」
倒れそうになったところを、彼が支えてくれる。でも、指先が動かなくて、なんて説明すればいいかわからなくて、私は涙を流すしかなかった。いやだ。私を見て、女の私を見て。私は女でいたい。
そう叫びたかったけれど、やっぱり声が出ない。代わりに出たのは、これもまたバカみたいな一言だった。
「ゼイン、わたしを……抱いて」
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