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第3章

07 その口ふさぐよ?

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「はあ……はあ……」
「……」


 ポタリ、ポタリと頭からかぶった紅茶が下へ垂れる。アールグレイの匂いに染まった私は、熱さすら感じなかったが砂糖が入っていたらしいその紅茶を被ったことで、べたべたになっていた。せっかくかわいいドレスを着たのにもったいない、もう使い物にならないかもしれない。


「貴方みたいなのはふさわしくないのよ! どうせその貧弱な体で殿下を誘惑したんでしょう!? それに乗る殿下も殿下よ! 媚薬に侵されていたかもしれないけれどね、貴方みたいな人を抱くなんて。考えられない! このアバズレ! 淫売婦!」


 ぎゃんぎゃんと犬のように騒ぐコルリス嬢の言葉を私は紅茶をぬぐいながら聞いていた。
 後ろ指をさされるのも、罵倒されるのもお母様で慣れていた。だからこんなのかわいいもので、もっと恐ろしいものを私は知っているんだと思わず笑ってしまった。それに気づいた彼女は、ハッと顔を上げて、気味悪そうに私を軽蔑する。


「な、なによ笑って。頭でもおかしくなったのかしら!」
「いいえ。かわいいと思って。そう、そこまでゼインのことが好きで……」
「そうよ。殿下はずっと私の中の王子様だったのよ! 影からずっとお守りしていたのに、彼は!」
「だったら――」
「へ?」
「だったら、ゼインのどこが好きなの? 顔? それとも権力? 王子様って簡単に片づけないでほしい。彼は、未来の皇帝よ。貴方の夢物語に付きあっているような時間はないくらい、忙しくて、責任を背負っている人なの」


 ディレンジ殿下に言われたことだった。自分に言い聞かせるように私はそう口にする。
 彼女が殿下のどこを好きなのかわからない。でもきっと表面しか見ていない。だって、彼女は陰で見守り続けてきただけなのだから。その程度にもよるけれど、でも殿下をあまりにも理想化しすぎている。
 殿下はそうじゃなくて、もっと泥臭くて、気分屋で、でも人を大切にしたくて信じたいって思っている人で、そして人一倍皇帝になるんだという思いを、責任を感じている立派な人なんだ。


「どこが好きって、そりゃ、顔が良くて……皇太子で。剣術も……」
「ゼインが女性嫌いなのは知っているでしょ?」
「そ、それは、もちろんよ!」
「なんで?」
「え、え」
「理由はわかる?」
「そんな……貴方はわかるの!?」
「……ゼインが女性嫌いなのは、ゼインが嫌がるのにべたべたすることもそうだけど、ゼインの母親を、第二皇子殿下の母親……現皇后陛下が殺したからよ」
「……っ」


 殿下の女性嫌いは、元からだった。

 自分が皇后の座に就くために側室であったディレンジ殿下の母親が、殿下の母親を殺した。しかし、証拠がわからずうやむやに。皇后の座は繰り上がるようにして、ディレンジ殿下の母親がつくことになった。それから、女性の嫉妬心だったり、野心だったり、そういうのが嫌いで嫌いで、人を蹴落とそうとする人間に対して嫌気がさした殿下は女性嫌いになったのだ。実際に、自分の周りに集まってくる女性も、自分の権力や、顔しか見ていないと呆れていた。恐怖の象徴になっても一定数そこしか見ていない令嬢に言い寄られたとかも。今は私がいるからそんなことはないが、というが彼からしたら最悪の思い出だったに違いない。

 コルリス嬢はそんな事初めて知ったというように口元に手を当てて顔を青くしていた。
 そして、彼女は怒りのままディレンジ殿下とのかかわりを暴露したのだ。


「なぜ、コルリス嬢はゼインが媚薬を盛られたことを知っているの?」
「そ、それは……う、噂で聞いたからよ。あの後、殿下の姿が見えなくなって……!」
「確かに殿下の姿は見えなくなったけれど、それはただの体調不良や、夜会がつまらなくて部屋に帰ったってことも考えられるじゃない。なのに、なぜ限定して媚薬を盛られたと」
「ひっ……」
「私は、そういう担当じゃないから、ほかの騎士が事情聴取に来るでしょうけど覚悟しておいたほうがいいと思う。いくら、第二皇子殿下の派閥が大きくなっているとはいえ、皇帝の座に就くのは殿下なんだから」
「ぺ、ペチカ嬢!」


 目的は達成されたし、紅茶の匂いがついてうっとうしかったので早く着替えたかったのだが、コルリス嬢は私を帰してくれなかった。


「わ、わたくしは、ただ言われて。家のために!」
「そうだと思う。貴方は被害者で、加害者……それは責めるつもりはない。ゼインを思う気持ちはあるみたいだし、それを第二皇子殿下に利用されただけだと思う。貴方は社交界で顔が広いみたいだったから。でも、第二皇子殿下が皇帝になったら、きっとゼインは殺される」
「そ、そんな……」
「それに、ゼインは皇帝になると言っているの。第二皇子殿下が皇帝になったら、ゼインは? 彼は、ずっと努力してきたし、つらい思いをしても一人で抱えて生きてきた。貴方は表面しか見ていない」


 彼女は殿下を自分のものにしたかったのだろう。それしか考えていなくて、殿下の思いは二の次だった。そもそも知らないのかもしれないけれど。
 恋は盲目ってこういうことを言うのか。それとも、ただ彼女は自分に酔っていただけなのか。だからこそ、ディレンジ殿下に利用されたんだろうけれど、駒として。相変わらず小さい嫌がらせから、大事につながる嫌がらせまで。どこまで、その網が伸びているかは知らないけれど、気を引き締めなければと思った。


「でも、でも、でも、貴方だって、ふさわしくないじゃない!」
「……まだいうの?」
「だって、だって、だって。貴方は、令嬢らしくないし、かわいくないし、わたくしのほうが、わたくしのほうが!」
「……」
「ふぇっ!?」


 泣きじゃくって、その場でビールを鳴らすコルリス嬢を見て、とりあえずそのよく回る口をふさがなければと思った。これ以上泣きじゃくられても、こっちが悪いみたいになるし。それに、私が令嬢らしくないのは事実だったが、それはこれから身に着けていけばいいだけの話ではないか。
 私は、コルリス嬢の頬を掴み、顎を持ち上げてくいっと顔を近づける。彼女のまんまるとしたアメジストの瞳には私が映っていた。


「あまりうるさくすると、その口ふさぐよ?」
「え、え……っ!?」


 少し低い声で。べテルの時意識している声のトーンでにらむように言えば、コルリス嬢はボッと顔を赤くしてその場に崩れ落ちた。ようやく静かになったか、と胸をなでおろしていれば、サアアッと後ろから吹き付けた風と共に、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「ペチカ!」
「ゼ、イン?」


 慌てたように走ってきたのは殿下で、彼は髪を振り乱し、こちらに向かってくると、私とコルリス嬢を二度見し、私の肩を掴んだ。見間違いだと思ったが、彼に触れられて、殿下だ……と少し意識がフワフワとしつつも受け入れ、数度瞬きする。


「ペチカ、これは……」
「ああ、血じゃないですよ。紅茶を被っただけで、えっとゼインはなぜここに?」
「イグニスに聞いた……貴様、また勝手に」
「勝手にって何がですか? というか、お兄様に……」


 なぜか私が責められる形となり、状況が理解できずにいれば、殿下はふとコルリス嬢のほうを見た。コルリス嬢は殿下に気づくと顔を青くしたが、殿下はすぐに私のほうに視線を移した。
 顔が赤くなったり、青くなったり大変な令嬢だな、なんて思いながらも私は首をかしげる。


「ディレンジとつながっていると報告を受けた。もともとマークしていたが、単独で乗り込むなど」
「ええっと、心配してきてくださったと?」
「当たり前だろ! だから、そもそも近いうちにあの夜会でのことを聞きに来るつもりだった、のに、貴様が!」
「ああ、それなら彼女が全部はいてくれたので」


 と、指さして私はようやく殿下がここに来た理由を理解した。だが、殿下はそれでもむすっとした顔で「勝手に動くな」と、迷惑そうに顔をしかめていた。
 お兄様にはちゃんと理由を話してきたはずなのに、それでも殿下がここに来たということは相当危なかったか、もしくは殿下が心配して――


(なんだろ、すごく安心する……)


 殿下を心配させてしまったのは申し訳なく思ったが、彼が来た瞬間、ふと体から力が抜けたような、肩の荷が下りたような感覚になった。もしかしたら気を張っていたのかもしれない。それは、毒を盛られるとか襲撃されるとかじゃなくて、ペチカとして……殿下の婚約者であるペチカとして、彼を好きな令嬢と話して怖気ずにいられるかとかいう気のはりで。


「何もなかったようで、安心したが……帰るぞ。ペチカ」
「え、ああ、えっと」


 私の言葉も聞かずに殿下は私をひょいとお姫様抱っこする。まだ濡れていて、彼の純白の服にシミができるんじゃないかと心配すれば、「服など気にするな」とわかったように言われてしまった。そして、そのまま待機していた馬車に詰め込まれるようにのせられ、私は殿下と向かい合うことになる。
 一緒の馬車か……と思いつつも、その瞬間一番懸念すべきことを思い出した。


(待って、私! この間殿下を避けてから一回も殿下に話してないし、待って、待って、このままあの日のことを問い詰められるんじゃ!?)


 さらしが緩くなっていた日のこと。まだ何も弁解せずに、顔も合わせずにすぎてしまって、とても気まずく、逃げ場のない箱に押し込められてしまったと、乾いたはずの紅茶がまた滴るように、冷汗が噴き出した。

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